セリフじゃなくて

藍栖 萌菜香

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02 じゃあ、遠慮は要らないね。

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 確かに、神坂さんにそう提案したのは俺だ。いくら女性との恋愛経験が豊富でも、演技といえはいえ女装男子相手にキスができるかどうかは別の話だと思ったから。

 人前でのキスなんて、しないで済むならそれに越したことはない。けれどいかんせん、女装男子を神坂さんの偽の恋人へ、さらには婚約者へと仕立てるには、条件が悪い上に期間も短すぎた。


 そもそもこの計画の目的は、神坂さんのお祖父さんであるKTC現社長を騙すことにある。社長を騙すには、その周囲の人々、つまりKTCの社員さんたちを騙せなければ話にならない。そのなかには、ひそかに玉の輿を狙っていた女子社員たちも当然含まれる。

 神坂さんによれば、これまで彼女たちがどんな手を使っても振り向かなかった(らしい)社長代理神坂和輝が、女に迫られたくらいで簡単に落ちたのでは、その彼女たちには信じてもらえないだろうという話だ。

 信じたがらない彼女たちを信じさせるには、神坂さん主体の熱烈な求愛の公開や、実際に仲睦まじい様子を見せつけるなどの策が有効そうだ。


 加えて、お祖父さんが差し向けるだろう身辺調査の調査員をも騙す必要がある。

 俺の性別に関しては、本名が女名でも通じる『夕陽』だったり、演劇仲間からは『ユウちゃん』と呼ばれていたり、紗子社長が『そこらへんの小細工は任せて!』と請け負ったりで、なんとか誤魔化せそうだった。

 でもきっと、お祖父さんの依頼内容は、婚約者となる女性の身元や人となりだけじゃない。真にその人が孫の『生涯の伴侶』となったかどうかの見極めも含まれるに違いない。そして、その調査員の目をいかに騙すかは、俺たち当人の演技力にかかってるんだ。

 当然のことだが、このシナリオは展開が約束されたステージ上で演じるわけじゃない。舞台は、シナリオがあることも知らないエキストラだらけの現実世界だ。いくら細かくシナリオを書き起こしたところで、アドリブで切り抜けなければならないような危ういシーンのほうが多いだろう。
 そんなときに、『いや、キスはちょっと勘弁』などとやっていては、すべてが台無しになってしまうんだ。


 だからキスができるかどうか、事前に確認が必要だと、さっきは進言したのだけど……。
「キスのリハって、本当に要りますか? 神坂さん、十分大丈夫そうですけど」
 どう見てもノリノリな神坂さんに、俺のほうが怖じ気づいていた。

 神坂さんは「和輝だと言ってるのに」と小さくボヤいてから、
「キスしなくちゃならない場面がいつやって来るかはわからないだろ? できるかどうかの確認だけじゃなく、ある程度慣れておく必要もあると思うんだが」
 と、もっともな主張をする。

 確かにそうだ。必要に迫られてあえなくキスをしてみせるタイミングなんて、不慮の事故と同じで予測がつかない。けど、少なくとも親密な間柄になるまでは、そんな必要もないんじゃないだろうか。

 いや、待て。ということは逆に、神坂さんとキスすることがあるとしたら、そのキスは親密な恋人たちがかわす濃厚なキスってことじゃないか。
 そうだよ。婚約まで秒読みかと目されるような時点で、出来たての恋人みたいなぎこちないキスをしていたんじゃ説得力に欠ける。何しろシナリオは、御曹司と一介の女性の熱愛シンデレラストーリーなんだから、人前でするキスだって熱烈なはずだ。


 うーん、やっぱりキスのリハーサルはするしかないか。いや、するべきだな。神坂さんのためじゃなくて、俺のために。

 正直、キスのリハごときに自分がこんなに怯むなんて思っていなかった。
 これまでは、役になりきりさえすれば大抵の演技はこなすことができた。演技でキスをするなんて経験はまだしたことがないけど、演技しているあいだは、俺であって俺じゃない。俺じゃないヤツがするキスに、こだわりや不安を覚える必要なんかないはずだ。
 だからリハだって、本番だって大丈夫……と、思ってた。さっき、俺の役柄を決めるまでは。


 今回のシナリオで重要なことは、真実に限りなく近いリアリティと、全期間を通して神坂さんの関係者に俺が男だとバレないこと、それから、このシナリオの存在を部外者に知られないことの三点だ。
 そのため俺は、いつ訪れるともわからない調査員への対策として外出時には必ず女装、と同時に、俺を男だと知る身内や知人に女装を悟られてはならないという、おおいなる矛盾を抱えることになった。

 神坂さんが社長に就任するまでの、およそ一カ月半という期間は、出会ってから婚約するまでには異例の短さでも、この矛盾を抱えて生活するには無理のある長さだ。
 それらを考慮して決めたのが、『兄と同居しながら、この春から芸術専門学校へ通う志望の水内みなうち夕陽(一見、性別不明)』という設定だった。性別以外は、まんま俺だ。

 性別不明を演出するには、ある程度工夫が必要だけど、もともと男装してても性別不明と言われる俺だ。たいした問題はないだろう。

 すべてをつくりものにして真実を覆い隠すよりも、真実のなかに嘘を隠したほうがボロも出にくく安全だという神坂さんの主張には一理あるし、納得もした。
 それに、きみにはかなりの負担を強いるからと提示された報酬も、無理をせずありのままのきみでいてくれればいいからという気遣いも嬉しかった。

 けど、神坂さんと恋に落ち、婚約するほど熱烈な恋人になるのが、ほとんど素の『夕陽さん』だなんて……。


「夕陽、怯えてる?」
 優しげな声で問われ、怖がらせたいわけじゃないんだが、と瞳を覗き込まれた。
「いえ、怯えてるわけじゃ」
 そうだ。俺は別に、神坂さんとのキスを怖がったり嫌がったりはしていない。ただ……。

「ああ、もしかして……恋人や想い人がいて、俺とはキスできない?」
 わずかだが、神坂さんの声に緊張が走った。
 無理もない。もし俺にそんな相手がいたら、部外者の取り込みやキャストの降板など、大幅な作戦変更を余儀なくされる。
「それも大丈夫です。そんな人がいたら、お話を聞いた時点でお断りしてますよ」

「そうか、よかった……」
 問いかけてきたときにはポーカーフェイスを保っていた神坂さんが、俺の返答を聞いてあからさまに安堵の溜め息をついた。
 ひょっとしたら、紗子社長から『夕陽にしかできない役だ』とでも言われて、キャストの変更に不安を感じてたのかもしれない。紗子社長なら、紹介報酬を吊り上げるために使いそうな手だ。

 色男だし、将来を約束された御曹司だし、恋愛経験も豊富そうで欠点なんか見当たらないパーフェクトな人だけど、こんな風に安堵するほど、何かを不安に思うこともあるんだな。
 その不安の元凶が紗子社長と決まったわけじゃないけど、ときどき紗子社長に振り回される身としては、妙な親近感を覚えてしまった。


 そんな気持ちの変化が顔に出ていたのか、神坂さんまでがつられたようにフッと笑う。今度の笑顔ははっきりそれとわかる笑顔だ。
 でも、
「じゃあ、遠慮は要らないね」
 その笑顔も言葉も、やっぱり悪い質のものだった。
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