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第一話 異世界を楽しもう
しおりを挟む「おい、健太! いつまでやってんだ!」
先輩の苛立った声が室内に響いた。
「も、もうすぐ……」
「さっきから、そればっかじゃねーか!」
必要分の書類をコピーし、ホチキスで留める作業だ。
さっきから部屋の入り口で俺の作業が終わるのを待っている。
こっちは一生懸命やってるんだから、手伝ってくれてもいいのに……。
苛立ちと焦燥感で手元が狂い、出来上がった書類の束を床に広げてしまった。
「馬鹿野郎! 何やってるんだ!」
「す……みません」
こんなやり取りが、俺の日常だった。
今日もやってしまった。
この会社に入社して半年が過ぎたが、自分の能力の無さに溜め息が出るばかりだ。
従業員十数人の小さな会社で、従業員全員がどの仕事でもできる『少人数精鋭』を謳(うた)っている。
俺はまだ精鋭には含まれていない。初めは先輩方も親切丁寧に仕事を教えてくれていたが、その成果が一向に現れない俺に今ではこの態度だ。
小さい頃から一つの事に集中すると、他の事が手につかなくなったり、疎かになったりしていた。
直しなさいと親や学校の先生に言われ続けてきたが、このザマだ。
この会社には向いていないかもしれない。
あれもやって、これもやって、あれしながらこれして……考えただけで目が回る。
俺にはこのコピーしてホッチキスで留めるよりも、もっともっと簡単な流れ作業のような仕事しか出来ないのかな……ははっ。
家の鍵をあけ、真っ暗な部屋に明かりを付ける。
BGM代わりにテレビをつけて、コンビニで買った夕食を頬張りながら、一緒に買った雑誌に目を落とす。
欠かさず愛読している週刊誌で、時事ネタからビジネス、ファッションにエンタメまで幅広く扱っている本だ。
「……なんか、つまらないな」
今週の記事はあまり興味が湧かなかったので、それをベッドの上に放り投げ、代わりに手元にあった自己啓発本に目を落とした。
本屋のレジ前でおすすめ品として売られていた本だ。
特に興味はなかったが、自分でもわからない『何か』に突き動かされ、衝動的に買ってしまった。
『困難さえも楽しもう』
ページをめくり、飛び込んできた言葉に苦笑いが浮かぶ。
無理難題を言ってくれる。楽しめないから困難なのであって、楽しめたらそれは困難じゃないよな。
気の持ちようって事なのか?
たまに会う友人に、困難も楽しみそうな奴がいる。ポジティブという言葉がよく似合う奴だ。
俺は彼に合うたび、劣等感に苛まれ、惨めで、羨ましく……でも、憧れであり、誇らしい。
渦巻く感情に心がついて行けず、最近は仕事を理由に会わないようにしている。
ただ、逃げているだけだよな……。
このままじゃダメなのは分かっている。
分かっているが、身体は俺の言う事を聞いてくれないみたいだ。
変わりたいが変われない……誰か――。
ゴンと鈍い音を立て、俺の額がテーブルとぶつかった。
いつのまにか寝ていたようだ。
時計を見ると日付が変わろうとしていたので、あわててシャワーを浴びて寝間着にしている長袖のTシャツとスウェットパンツに着替えた。
多少眠気は去っているものの、明日の――いや、今日の朝も早いので、雑誌を押しのけてベッドに入った。
目が覚めれば、また変わらない……変われない一日が始まる。
――俺は確かに自宅のベッドで寝ていた。
まどろみの中、違和感を感じ目を開けると、黄色く光る月が視界に入ってきた。
下を向くと、どれだけ高いかは分からないが、日本列島をかたどった明かりが綺麗に見える。
風も音も寒さも感じない。
「――夢か」
言葉を口にした瞬間、それは現実になった。
肌を刺す冷たさと音の嵐が襲いかかる。
受ける風圧で落下感は無いものの、確実に落下しているのが分かる。
俺は天を仰いだ。
この状況が現実だとして、この高さと速度。
俺に為す術は無い。
出来る事は、空に光る黄色い月を見て現実逃避する事だけだ。
――だが、空に浮かぶのは蒼白く輝く月。
黄色い月は表情を変え、まるで現実を受け入れろと言わんばかりに冷たい表情を魅せている。
下を向くと、漆黒の闇と雷光が広がっていた。
目まぐるしく変化する状況に、頭がついていかない。
前後上下左右に振られ、稲妻が鳴り、声を出しても自分にすら届かない。
運良く雷雲を抜け地上を見ると、明らかに日本列島ではなかった。
正面にある台形型の大きな陸地と、地平の彼方に見える僅かな陸地以外は、海が占めていた。
俺はココで大きく深呼吸した。
さっきはまた悪い癖が出てしまった。
思考の放棄――考える事を止めてしまった。
今まで何度後悔してきた?
辛く苦しい人生では無いが、決して楽しい人生でもなかった。
毎日が充実して見える友人知人には負い目を感じ、惨めで情けなくて真っ直ぐに見る事が出来なかった。
まだまだ人生の三分の一も歩んでいない。
――多分、ココで人生終わりだろう。
だったら最後くらいは悔いなく終わりたい。
『困難さえも楽しもう』
さっき読んだ自己啓発本に書いてあったフレーズだ。
あと数分の命だが……いや、だからこそ俺は今変わる!
落下スピードを落とすには、パラシュート的な物が必要だ。
幸いボタン止めの寝衣を着ているので、この上着を広げてやってみよう。
後は水面か木々の多い場所に誘導できれば、水面なら飛び込みの様に足から、木なら枝や葉がクッションになってくれるだろう。
多分、焼け石に水だろうが、何もしないよりは……と自分に言い聞かせる。
どちらにせよ、無傷は免れない。
まだ高度も高すぎる。
夜の為、水面も森もまだ確認できない。
上空での寒さも身に浸みる。
気分を紛らわす為、テンションを上げていこう。
この状況をポジティブに楽しむぞ!
「ヒ、ヒャッホー! 風が気持ちいいぜー!」
気付くと風を感じなかった。
正確に言うと、知らない部屋の真ん中、うつ伏せ状態で手足を広げてスカイダイビングのポーズを決めている。
そしてそんな俺を、十人ほどの男が囲んでいた。
正確な人数は分からない。
彼らがどんな表情をしていたかは、分からない。
なぜなら、恥ずかしくて顔も上げられないからだ。
「おぬし、何者じゃ?」
声の方へ顔を向けると、男たちの後ろから出てきた長老と言わんばかりの老人が眼光鋭くこちらを見ていた。
そこで俺は気付いた。
この前、映画でお目にかかった事のある種族。エルフだ。
耳が長く色白で、シルバー……いやクリーム色かな、室内でも輝いて見える美しい髪色だ。
男の俺が見ても美しいと感じる、美形揃いだ。
「お、俺は――」
俺は言葉を止め、さっきの決意を思い出した。
思考を止めるな。
頭をフル回転させ、最善の答えを導き出す。
夢かもしれないが、夢じゃないかもしれない。
どんな状況下でも、もう後悔はしない。
相手はエルフ、この部屋は遊牧民の家というのが一番しっくりくる作りだ。
映画通りの排他的な種族と仮定して、この状況下での人間の男は良くて追放、最悪バッサリだ。
下手な嘘はダメだ。
かと言って、信じがたい事実もダメ。
一言一句、一挙手一投足に気を配れ。
俺は立ち上がり長老(仮)の正面を向いた。
「は……めまして。ケ、ケンタです」
俺は口篭りながらも挨拶できた。
コミュニケーションは得意じゃないが、俺の中では八十点の出来だ。
本名は神谷健太だが、こういう場合は名前だけの方が良いだろう。
「いや、大丈夫じゃ。こちらも初めてのことでな。少々ビックリしただけじゃ。ところでおぬしは魔族だな?」
――魔族。
この世界には魔族もいるのか。
人間と魔族の区別がつかないのか、それともこの世界では人間を魔族と呼んでいるのか――。
「いえ、人間です」
正直に答えると、「ウソをつけ!」とか「なんで魔族が――」とか「失敗だ!」とか周りから罵声が飛んでくる。
長老(仮)は「ふむ」と少し考えると右手を上げた。
その動作を見て、俺の後方のエルフ達が左右に分かれた。
――死亡フラグが成立したっぽい。
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