上 下
59 / 68
第十二章 もとの日々へ

3

しおりを挟む
 ーーなまえをよんで、ねえ、なまえを。

 白く煙る視界の向こう、誰かの声がずっと聞こえている。悲しそうな、悔しそうな。
 
 ーーおねがいだから、なまえを。

 泣いているみたい、どうすれば泣き止むんだろう。名前を呼んだらいいんだろうか。
 でも、誰の名前を?

 ーーおもいだして、わすれないで。

 あなたは誰?


◇◇◇



 着信音が耳元で聞こえ、私は飛び起きた。
 また机に突っ伏して寝ていたらしい。寝ぼけていた事を気づかれないようにと、できるだけ声を張り、通話を始める。

「はい、今日中にデータ送ります。大丈夫です、間に合わせます」
 私は寝起きの頭をフル回転させ、必要な情報を引っ張り出してなんとかやり取りを終えた。
 それから、ノートPCの横に置かれたマグカップを持ち上げる。中のコーヒーはすっかり冷めていたけど、目を覚ますには丁度いいか。

「美味しく無い……」
 冷めたせいだけじゃなくて、なんだか最近、自分で淹れたコーヒーをあまり美味しいと感じない。ちょっと前までは、そんな事考えなかったのに。
「なんか調子でも悪いのかなあ」
 今度、健康診断にでも行ってみようかなと思いながら、私は大きく伸びをした。その手が、背後のコルクボードに貼られた一通の手紙に触れる。

 メールでもいいような内容。でもわざわざ手紙という手段で届いたそれを、私は椅子ごと向き直って眺める。
 それは、以前所属していたデザイン事務所の同僚が、独立したという知らせだった。
『一緒に仕事をしてみないか?』
 最後に書き添えられたその一言に、私は正直迷っていた。

 一緒に、といってもオフィスがあるわけではなく、今まで通り自宅で仕事をするスタイルは変えなくて良いらしい。
 でも、クライアントと直接話す機会は増えるんだろうし……。
「誰かのために作る、か」

 そう思ってがんばった挙句に、提案したデザインを奪われた事を考えると、いまだに胸は痛い。でも、なんだろう、作ったもので誰かに喜んで欲しい。そんな気持ちが少しずつ戻ってきている気がして。

「時間だけが傷を癒すって事かな」

 早期退職後に海外へ移住してしまった母も、時々心配してメッセージをくれている。そろそろ、安心できる材料があったほうがいいかもしれない。

「とりあえず、話だけでも詳しく聞いてみよう!」

 コルクボードから手紙を剥がし、私はスマートフォンを手に持った。
しおりを挟む

処理中です...