猫と老人

こおり 司

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猫と老人

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「ミァ」

 私が所謂『前世の記憶』というものを思い出したのは、よく晴れた春のめでたい日ーー小学校の入学式からの帰りだった。
 風にさらわれ不規則に舞い落ちる桜の花びらの中を、正装に身を包んだ両親に挟まれながら歩く。
 ようやっと小学生のお兄ちゃんになれた高揚感で落ち着きなくはしゃいでしたせいで、右手を母と左手を父と繋がれていたが、その拘束も長くは続かず。
 あっという間に自由になり、憧れのヒーローを真似て駆け出そうとした瞬間だった。
 目の前を三毛猫が横切った。
 かと思えばなんの気まぐれか立ち止まりこちらを見上げるアーモンド色の瞳とかち合う。

「ミァ」

 前方から春風が吹き上げ短い髪を撫でると同時に、反響音のように脳裏に響く懐かしい鳴き声。
 美しい桜並木の景色は一瞬で消え、まるでテレビのチャンネルが切り替わるように1匹の三毛猫が目の前に座っていた。
 古ぼけた畳の上に敷いたお気に入りの毛布の上で、綺麗に前足を揃えて。
「ミァ」
「あぁ、飯の時間だな。お前は本当に賢いな」
「「みぃた」」
 嗄れた老人のーー前世の自分の声と今の声変わりもしていない幼い声が重なる。
「急に止まってどうしたの」
 母の不思議そうな声音にかつての愛猫の姿は霧が晴れるように消え、後に残ったのは新たな門出を祝うべく咲き誇った桜並木と不思議そうに息子の顔を覗き込む両親の姿。
 急なことにまだ頭がついていかず混乱している私を余所に、みぃたと似ても似つかない三毛猫は我関せずとでも言いたげに茂みの奥へと消えていった。

 私とみぃたが出会ったのは、新緑の木葉の間から溢れる陽光が煌めく季節の頃。
 先立った妻が気に入っていた庭の手入れも一段落し、縁側でぼんやりと休憩していた時だった。
 この頃の私は妻の居ない生活にも慣れ、ようやくひとりきりの生活を現実として受け入れ始めていた。
 今までまともにやってこなかった家事も未熟さはあれど生きていける程度にはこなせている。
 元来、何かと「器用だね」と言われてきただけのことはあるなと自画自賛してみるも、その後に思い浮かぶのは家の中でテキパキと家事をこなす妻の姿。
 彼女の仕事振りと己の現状では、軍配がどちらに上がるかなど火を見るより明らかだ。
 ふと、物悲しさが首をもたげる。
 趣味らしい趣味もなく家のことから子育てまで、自分のことなど考える暇もなく他者の為に尽力してきた妻が、晩年ようやく見つけた夢中になれるもの。
 それが庭いじりだった。
 妻が世話をしていた頃に比べると植物にそれほど興味のない私が手入れをしているからか少々色味が減ってしまったが、それでも長年連れ添った相手に想いを馳せることができる程度には形を保っている。
 いくら今の生活に慣れたと言っても、心臓の横にぽっかりとできた空洞のような喪失感とはまだ暫く付き合わなくてはいけないだろう。
 ため息をついたところでインターホンが鳴った。
 妻が亡くなって最初の頃こそ、気にして様子を見に来てくれていたとなり町に住む娘も最近ではすっかり顔を見せなくなったが、久々にやって来たのだろうか。
 以前、仕事や孫の高校受験などで忙しいと愚痴をこぼしていた。
 重い腰を上げ玄関へと向かう。
 サンダルを履き引き戸を開けると、そこに居たのは少し疲れ気味な面持ちの娘ではなく、近所に住む齋藤さんという私と同年代の男性だった。
 ポロシャツにズボン、首には手拭いを巻いている。
 所々土が付いているところを見るに、畑でもいじっていたのだろう。
 いつも被っている麦わら帽子を胸に抱えているせいで、薄くなった白髪が陽の光でうっすらと光っている。
 齋藤さんとは道ですれ違えば挨拶をする程度。
 町内会費の集金係になった際に互いの家の場所を覚えてはいたが、改まって訪ねられるのは初めてだった。
「こんにちは、急にすみません」
「いえ、こんにちは。どうかしましたか」
 私の問いかけに、齋藤さんの視線が泳ぐ。
 何か言いにくそうに口をつぐんだ後、おずおずと麦わら帽子を差し出した。
 それが生き物だと認識するのに数秒かかった。
 ひっくり返された帽子の中には丸い毛玉が入っており、よく見るとゆっくり上下に動いている。
「……猫、ですか」
 生後数ヵ月の三毛の子猫だ。
 視線を子猫から齋藤さんへ戻すと、彼はおずおずと話し始めた。
「畑の横の側溝にいたんです。最初は母猫がいるだろうからと放っておいたのですが、2日経ってもそのままで。どことなく元気がなくて動かないから連れてきました。その……自分の畑の横で死なれても困るので」
「それで、なぜ家に」
「どうしようか悩んでいた時に思い出したんです。確か以前に猫を飼っていたことがあるとおっしゃっていたので……。それで……」
 それは昔、庭に住み着いた野良猫にエサをやっていた程度のことで、決して飼っていたわけではない。
 ずいっと麦わら帽子を押し付けてくる齋藤さんに、顔が引きつる。
 申し訳なさそうな表情とは裏腹に図々しい態度だ。
「お願いできませんか。動物なんて今までの人生で飼ったこともないし、妻が大の猫嫌いなんです」
「そう言われても困ります」
「他に頼める相手がいないんです」
「そんなこと知りませんよ」
 老人2人が子猫を挟んで言い争う光景は、端から見れば滑稽なものだっただろうが、本人たちは真剣そのものだった。
「とにかく、お願いします」
 より一層強く押し付けられて、思わず受け取ってしまった。
 麦わら帽子越しに伝わる熱は、外気温かはたまた子猫か。
 重みは子猫の方が軽いはずなのに、初めて娘を抱いた光景が蘇る。
 その一瞬の隙をついて、齋藤さんはさっと背を向けて歩き出した。
「ちょっとーー」
 慌てて追いかけようした時、ずっと動かなかった子猫が顔を上げた。
 麦わら帽子を受け取った時に揺れた心の機微を見逃さない、アーモンド色の瞳とかち合う。
「ミァ」
 止めとばかりに子猫が鳴いた。
 あぁ、これは駄目だ。
 70代の老人が、1匹の猫に陥落した瞬間だった。

 子猫は「みぃた」と名付けた。
 三毛猫なので女の子だったが、娘が幼い頃に目にはいる生き物全てを「みーたん」と呼んでいたことを思い出したのだ。
 流石に老人が「たん」呼びは気恥ずかしく「みぃた」とした。
 みぃたと過ごす日々は、想像を絶するほど楽しく幸せで充実したものだった。
 もちろん、ワクチンや避妊手術、エサやトイレ砂など出費は増えて困ったことや大変なことも多々あった。
 しかし、月々の年金とこれまでの貯蓄、幸か不幸か妻の生命保険など、贅沢はできないが猫1匹にかかる経費は賄えたし、家と家具も古いのでみぃたが引っ掻いたり噛んだりしても気にならない。
 穴だらけになった障子を張り直すのには骨が折れたが、みぃたが元気な証拠だと思えば怒りも湧かなかった。
 もしかするとこのまま死んでしまうかもと、みぃたを受け取った後すぐに動物病院で診てもらったが、脱水と栄養失調はあれど命に別状はないとのこと。
 胸を撫で下ろした1週間後には家中を走り回り跳び跳ね暴れまわる姿に喜び安堵し呆気にとられたものである。
 ひとりではない食卓。
 誰かの為に家の中を掃除し整える。
 夜、眠る間際に頭もとから聞こえる寝息。
 暫し忘れていた他者との生活に、自分の好きなように過ごしていた頃とは違うメリハリが心地いい。
 妻との生活を子供がいた生活を思い出す。
 みぃたが来てからというもの、妻との思い出を巡るとこが多くなった。
 今までは物悲しさから逃れるように極力妻とのことは考えないようにしていた。
 幸せだったはずの思い出が悲しみに塗りつぶされるのが、余計に辛くなるからだ。
 だが、どうしてだろう。
 みぃたが走れば客を出迎えに小走りで玄関へ向かう後ろ姿、縁側で日向ぼっこをしていれば2人で肩を並べてお茶を飲んだ横顔、浴槽の淵から飛び降りれば娘と水遊びをする笑顔。
 いろいろな年代の妻の面影をいたるところで感じられる。
 そこにあの物悲しさはなく、アルバムを捲るような温かさがあるだけだった。
 一歩前に進めたような、そんな感覚。
 みぃたが私の家族になるのにそう時間はかからなかった。
 膝に乗らない、抱っこが嫌い、必要以上に甘えない。
 でも気がつけば近くにいて、当然のように寛いている。
 そんなつかず離れずの距離感が心地よかった。
「ミァ」
「あぁ、飯の時間だな」
「ミァ」
「みぃた、お前は本当に賢いな」
 決まった時間にエサ皿の横に座って待っている姿は愛らしいに尽きる。
 右耳から右目の下までが黒、左耳から左目の下までが茶色。両頬から腹までは白く、背中から尻尾の先までは黒と茶色の斑模様。
 みぃたは見た目から性格まで典型的な三毛猫だった。
「お前は日本一美人な猫だぞ」
「ミァ」
 当然とばかりに返事が返される。
 こんなこと、妻にも娘にも言ったことがない。
 いつかお迎えが来た時にあの世で怒られるかもなんて想像して頬が緩んだ。
 それから5年、いつも通りの1日が始まると疑わなかったあの日。
 急に胸が痛くなり倒れたところまでは覚えている。
 私は死んだ。
 おそらく急性心不全かなにかだろう。
 あの世はなく、妻に怒られることもなく、気が付けば少年の姿で桜並木の中に立っていた。

 最近、ぼんやりすることが増えたと自分でも感じる。
 念願だった小学校に登校しても授業に集中できないし、休み時間に遊ぶ気分でもない。
 前世のことではっきりと思い出せるのはみぃたと出会ってからの5年間と、その他は断片的な記憶だけ。
 それでもなんの前触れもなく浮かんでくる懐かしい光景と感情を上手くコントロールできなかった。
 今の自分と昔の自分が混ざり合って混乱する。
 周囲に溢れる若々しい生命力に気圧される。
 小学校1年生の勉強なので意識散漫でも授業にはついていけたが、人間関係はそうはいかず誘いを断るうちにだんだんと声はかからなくなった。
 おかげで入学して1ヶ月経つも友達はできていない。
 みぃたはどうなったのだろう。
 私が死んだ後どうしたのだろう。
 考えたところでわかるはずもない不安が胸を満たす。
 私は死んでからすぐに生まれ変わったらしく、最後の時から約7年が経過していた。
 あのままみぃたが生きていれば12歳くらいだろうが、そんな保証はどこにもない。
 年齢的にもそうだが、老人がひとりで飼っていた猫を生かし続けてくれる人がいるだろうか。
 やはり保健所か。
 娘家族が面倒をみてはくれていないかと考えるもそれはないかと諦める。
 すまない、みぃた。
 罪悪感に押し潰されそうになる。
「だから、猫なんて飼うなって言ったじゃない」
 ため息混じりに言う娘の姿が浮かぶ。
 そうだ、娘は猫を飼うことに反対だった。 
 みぃたとの生活が3ヶ月程過ぎた頃、久しぶりに娘が様子を見に来てくれた。
 食事はちゃんと摂っているか、家事はできているか、足りないものは無いかと冷蔵庫の中や日用品をチェックしてまわる姿は妻とよく似ていた。
 暫くして和室の方に向かったと思えば小さな悲鳴。
 どうしたのかと見に行けば、畳で腹を上にして寝ているみぃたの姿に驚き固まっているようだった。
「猫を飼ってるなんて聞いてないわ。何考えてるのよ!」
 状況を飲み込んだ娘が怒鳴る。
 急な怒りに動揺しながらも齋藤さんとのやり取りを説明しても娘の怒りは収まらなかった。
「自分の年齢と体力を考えなさいよ。猫なんて10年以上も生きるのよ。最後まで面倒みれるかもわからないのに無責任にもほどがあるわ」
 娘は続ける。
「言っておきますけど、お父さんに何かあっても家であの猫は引き取れませんから。ペット不可のマンションだし旦那はアレルギーだし、仕事も子育てもしながら猫の面倒なんてみてられない。ねぇ、命って重たいのよ。お父さんだって知ってるじゃない。なのにこんなの無責任よ……」
 眠り続けるみぃたを横目に、娘が大きなため息を吐く。
「とにかく、私は反対よ。今からでも新しい引き取り先を探すべきだわ」
 そう言い残し、娘はさっさと帰っていった。
 だが、私はその言葉を無視した。
 もうすでに離れがたい程みぃたに愛着が湧いていたし、あのひとりの生活に戻りたくなかったのだ。
 今思えば娘が正しかった。
 人間いつどうなるかわからないとはいえ、最悪の事態を考えておくべきだった。
 倒れた老人の横でエサも貰えず何日も家の中に放置されるみぃたの姿を想像し辛くなる。
 それからも娘は時々やって来ては相変わらずいるみぃたに眉を寄せていたが、あの時のように何かを言ってくることはなかった。
 一度、私が倒れた日から数日分の新聞を図書館へ行って調べてみたら、お悔やみ欄に私の名前と葬儀終了の知らせが載っていた。
 どうやら親戚だけを集めて小さくともちゃんと葬式をしてくれたらしい。
 日付を確認してみると倒れてから割りと早い段階で発見してもらったようだ。
 家に立ち寄ってくれた娘のおかげかもしれない。
 骨と皮だけになったみぃたの姿が消えていき、この日は久しぶりに心が軽くなった。
 その矢先、父と母が私のことを心配していることを知った。
 深夜にトイレに起きた時、リビングで話し合っているのを聞いてしまったのだ。
「あの子、最近元気がない気がするの。塞ぎ込んでるっていうか。友達もいないみたいだし、どうしたのかしら」
「担任の先生には相談したのか」
「連絡帳で訊いてみたけど、学校ではひとりで静かに過ごしてるって。先生も声をかけてくれてるみたいなんだけど、あまり反応は良くないみたい。いじめとかは無さそうなんだけど……」
「新しい環境に慣れなくて戸惑ってるだけじゃないのか」
「でも、家でもそうなのよ」
「疲れてるんだよ、きっと。もう少しすれば元気になるさ」
「ねぇ、私ずっと考えてたことがあるんだけどーー」
 そこまで聞いて、自室に戻った。
 薄々気づいてはいたが、まさかいじめを疑う程だったとは。
 申し訳なさと情けなさがない交ぜになる。
 前世の記憶が蘇って、愛猫のことが心配で気が気じゃないなどと、小学生の息子から言えるはずもない。
 そろそろ潮時か。
 踏ん切りをつけて前に進むべきだろう。
 ベットに潜り込み目を瞑る。
 目蓋の裏には相変わらずみぃたの姿が焼き付いていた。

「ねぇ、猫ちゃんに会いにいかない?」
 母がそんなことを言い出したのはそれから数日後の土曜日だった。
 意味がわからず黙っていると、母は笑いながら続ける。
「車で行ける距離に猫の保護施設があってね、今日はそこで譲渡会っていう猫ちゃんに会えるイベントがあるんだって。お父さんと話し合って行ってみようかって。どうかな」
 私の反応を確かめるように続ける。
「前に犬か猫を飼いたいって言ってたじゃない。お父さんもお母さんもどっちも好きだけど、ライフスタイルを考えると猫の方が合ってるかなって。まずは見学だけでも大丈夫みたいだし、動物と触れ合うだけで気分転換にもなると思うんだけど」
 どうやら最近私が塞ぎ込んでいるのを見かねた両親が話し合った結果がこれらしい。
 つまるところアニマルセラピーだ。
「お父さん、元気になったよね。なんか若返ったっていうか。お母さんが死んでからずっと元気なかったから、その点に関してはあの子には感謝してるのよ。飼い続けることに反対なのは変わらないけど」
 確か娘もそんなことを言っていた。
「お父さん……長生きしてね」
 小さく付け加えられた言葉に「まかせなさい」なんて返したが、結局約束は守れなかった。
 両親も動物好きなので猫を飼いたいというのも本心だろうが、私を元気付けるのが主な目的だろう。
 そこまで心配させていたのかと反省すると同時に、元気のない理由が猫にあるのだから申し訳なく思う。
 ここは息子として両親の思いやりを受け取ろう。
 新しい猫を飼う気分では到底ないが、みぃたのことを乗り越えるきっかけになるかもしれない。
 母の話に小さく頷くと、早速準備を整え保護施設へと向かう。
 保護施設は車で1時間程走った場所にあった。
 見た目は年季を感じる2階建ての一軒家で、外観だけでは猫の保護施設ということは一切わからない。
 玄関には表札の代わりに「猫の仮住まい」と書かれた看板が立て掛けられていた。
 インターホンを押すと中から中年の女性が現れ出迎えてくれた。
「譲渡会参加の方ですか?」
「はい、まずは見学とお話を伺えたらと思いまして。それでも大丈夫でしょうか」
「大丈夫ですよ。触れ合いだけの方もいらっしゃいますし、保護猫活動を知ってもらうことも私たちの活動の一環ですから」
 薄暗い廊下に通される。
 孫が小さい頃は私の家の玄関が暗くて怖いと泣いていたものだが、なるほど子供の目から見るとこんな感じなのか。
 玄関に踏み入れた時から充満していた獣臭への驚きをなるべく顔に出さないよう進む。
「こちらで消毒をしてから入ってください」
 扉を開いた先のリビングには、今まで見たことがない数の猫が思い思いに過ごしていた。
 遊んだり、眠ったり、日向ぼっこをしたり。
 人間が好きなのか足元にすり寄る猫もいる。
 猫好きがこの光景を見たらパラダイスとでも思いそうだ。
 玄関と廊下とは違い、日当たりのいい明るいリビングに、和室が続いている。
 猫が爪を研ぐのか壁紙はボロボロだが、壁に沿う形で何10個ものケージや棚、キャットタワーがひしめいているのでそれほど気にならない。
 棚はボックス型の物を組み合わせているようで、中にはクッションや毛布が敷き詰められており、その中で数匹の猫が心地よさそうに眠っている。
 まるで猫マンションだ。
 和室も似たような感じて物が配置されているが、その一角はトイレスペースになっていて端から端まで猫トイレが整列している。
 ざっと見ただけで40匹はいるだろうか。
 さらに濃くなった獣臭にも納得だ。
 みぃた1匹の時はほとんど気にならなかったーーというより、むしろあの猫特有の香ばしいような甘いような匂いが好きだった。
 だが、そんな中でも不衛生さを感じる部分も排泄物の臭いが混ざっていることもない。
 きっと、小まめにきちんと世話をしているのだろう。
 個人経営者とボランティアで活動しているとのことだったが、猫たちに幸せでいて欲しいという思いが伝わってくる空間だった。
「まだ2階にも3部屋ありまして、それぞれお世話が必要なお年寄りと子猫、あとは病気だったりケアの必要な子など、それぞれ個室に分けてお世話しています。リビングにいる子たちはある程度人慣れ、猫慣れができていて年齢は1才から10才くらいが多いです。どういう子がいいとかご希望ありますか」
「どんな子がいい?」
「わかんない」
 強いて言うならみぃたがいい。
 だが、そんなことが言えるはずもなく、わからないで止めた。
 本当にわからなかった。
 父と母が説明を受けている間に部屋の中を見てまわる。
 どこを見ても猫、猫、猫である。
 白、黒、キジトラ、サバトラ、短毛、長毛様々だ。
 標準体型か痩せ型の子が多い気がする。
 ペットショップとは違ってただ可愛いだけでなく、猫らしい野性味のある表情も特徴か。
 三毛猫も沢山いたが、どの子を見てもピンとこない。
 新しい出会いがあれば何か変わるだろうかと思っていたが、みぃたの存在がより確固たるものになっただけのような気がした。
 その時、1匹の三毛猫が目に留まった。
 ベランダの前で日向ぼっこをしながら毛布の上で丸まって寝ている。
 右耳から右目の下までが黒、左耳から左目の下までが茶色。両頬から腹までは白く、背中から尻尾の先までは黒と茶色の斑模様。
 記憶の中の毛色より色が抜けて痩せてはいるが、その姿は紛れもなくーー
「みぃた」
 震える小さな声で呼んでみた。
 私の声に反応したのか、三毛猫がゆっくりと顔を上げる。
 変わらないアーモンド色の瞳とかち合った。
「ミァ」
 力が抜け、三毛猫のーーみぃたの隣に座り込む。
 みぃたがいる。
 本物のみぃたが目の前にいる。
 すっかり歳を取ってはいるが、元気そうな姿で私を見ている。
「みぃたちゃんが鳴くなんて珍しいわね」
 急な声に振り向くと、初老の女性が立っていた。
 私の隣に膝をつき、慣れた手付きでみぃたを撫でる。
「この施設ができたばかりの頃、ここに来た子なの。前の飼い主さんが亡くなったみたいでね、その娘さんが連れてきたのよ。無責任なのはわかっているけど、どうしても保健所には連れていけない、自分は飼えないから保護してほしいって。ここは猫を棄てる場所ではないから断ることも考えたんだけど、謝りながら何度も頭を下げるものだから、無下にもできなくて引き取ったのよ」
 当時の状況に詳しいということは、この女性が代表なのか。
 女性の話に娘の姿を想像して目頭が熱くなる。
「みぃた」
「ミァ」
「お前は本当に賢いな」
 そっと、みぃたを抱き締めた。
 夢にまで見た命の温かさがそこにはあった。
 懐かしい、みぃたの匂いに顔を埋める。
 自然と流れる涙がパサついた毛に染み込んだが、みぃたは好きにしなさいとでも言いたげに大人しくしていた。
「この子がいい」
 私の様子を見に来た両親に伝える。
「この子じゃなきゃやだ」
 もう絶対に手放したりするものか。

 最初、両親は息子が老猫を選んだことに困惑していた。
 すでに10歳を越えているのだから当然だ。
 健康管理やこれから必要になる介護、看取りの時期だって若い猫を飼うよりずっと早くやってくる。
 数日かけてこれから起こることやリスクを説明されたが、私の気持ちは変わらなかった。
 自分の寿命を気にせずみぃたの世話ができ看取れるならばこんなに嬉しいことはない。
 結局、根負けした両親がみぃたを迎え入れることを許した後は保護施設の方からもいろいろと話があった。
 彼らも猫たちの幸せを願う分、ずっとのお家を簡単に決めたりはしない。
 家庭訪問があったし、みぃたとの相性を見るためにトライアル期間も設けられた。
 トライアル期間中、みぃたは堂々とした風格で我が家で過ごした。
 慣れない環境に怯えたり体調を崩したり食欲不振になることは珍しくないという。
 だがらゆっくりみぃたのリズムに合わせてほしいとボランティアさんから聞かされていたのだが、迎えた初日から主の貫禄で家の中をパトロールし、早速お気に入りの場所を見つけ、良く食べ良く寝た。
 我が飼い猫ながら感心する。
 彼女にストレスを感じている様子は微塵も見受けられなかった。
 この態度が功を奏した。
 みぃたの放つ雰囲気に難色を示していた両親が絆され始めたのだ。
 根がのんびりやの両親と老猫のみぃたの波長が合ったらい。
 過度の馴れ合いが苦手だが、相手の懐に入るように側にはいる。
 付かず離れずの心地よい距離感に、両親はもう夢中だった。
「みぃたのためにペット介護の資格取ろうかな」
 ある日、まだ正式譲渡も決まっていない中で母がスマートフォンを操作しながら呟いた。
 インドアだが行動力はある母のことだから、遅かれ早かれ始めそうな気がする。
 父は働き方改革とやらを始めたらしく少しだけ家に帰る時間が早くなり、私は胸のつかえが取れたおかげか学校生活を楽しめるようになった。
 授業では積極的に手を上げるし、少しずつだが自由時間を一緒に過ごす友達もできた。
 みぃたが再び私の元に来てくれたおかげで充実した毎日を過ごすことができるようになったのだ。
 1ヶ月のトライアル期間後、みぃたの体調や家での様子、私たち家族との関係を考慮し、無事に正式譲渡が決まった。
 何度目かの家庭訪問に来ていた代表の前で、3人抱き合って喜んだ。
「これ、お渡ししておきますね」
 代表が鞄から取り出したのは銀色の箱。
 缶で出来た箱の蓋には「みぃたの箱」とマジックで書かれている。
「これは……」
 母の疑問に答えるべく、代表が説明する。
「これはみぃたちゃんを連れてきた女性が一緒に置いていったものです。中にはみぃたちゃんのワクチン接種証明書や動物病院の診察券などが入っています。前の飼い主さんがまとめていたのでしょう。みぃたちゃんに何かあったときのために貯めていたと思われる現金もありました。そのお金に関しては寄付という形で受け取って欲しいと申し出があったのでありがたくみぃたちゃん含む猫たちのために使わせていただきました。中の書類だけお渡ししようかとも思ったのですが、なんとなくこのままの方がいいような気がして本日お持ちしました。箱が不要であればこちらで処分しますがどうしますか」
「欲しい」
 間髪いれずに答えたのはもちろん私。
 箱を受け取り、抱き締める。
 ただのせんべいの空き缶だが、大事な大事なみぃたの箱だ。
 みぃたを保護施設へ預けてくれただけでなく、寄付までしてくれた娘へ届かなくとも感謝の念を抱く。
 ありがとう。
 本当に、ありがとう。
 私は周囲の人間に恵まれていたと今更ながら実感した。
 こうして、みぃたはとうとう今の私と本当の家族になった。
 相変わらずつれない部分も多いが、その気まぐれさが何とも言えず愛らしい。
 母は通信講座を始め、父の帰りもまた少し早くなった。
 私はと言えば、みぃたを家族に迎え入れた頃からだんだんと「私」だった頃の記憶が曖昧になってきていた。
 少しずつ少しずつ忘れている時間が、思い出せない部分が多くなる。
 不思議と不安はなかった。
 ただ、元に戻るだけ。
 本来こうして「私」を思い出す方がおかしいのだ。
 全てを思い出せなくなる前に、昔住んでいた家を訪れてみた。
 今住んでいる家から子供の足で3、40分の距離にあったのだが、なかなか決心がつかずタイミングを逃していた。
 大切な我が家は跡形もなく消えていた。
 取り壊されたのだろう、真新しい一軒家が建っている。
 両親から受け継いだ家も妻の愛した庭も、家族との、みぃたとの思い出も、そこには欠片も残っていなかった。
 それを認識した途端、ストンと何かがふに落ちた。
 もういいんだ、そう思えた。
 私は過去であり未来ではない。
 未練に縛られていただけの亡霊だ。
 これからの人生に私は必要ない。
 大丈夫と、誰かに言われた気がした。
 その日を境に「私」を思い出すことはない。
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