ベツヘレムの星

しち

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ベツヘレムの星

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それは確かに、魔法の言葉だった。

ごう。
豪。
ごお。

イオ——庵、1つ下の大切な弟がおさない声でそう呼ぶたびに、おれの背筋は伸びて。つま先立ちだって、いつまでも平気でやっていられるような気がして。
〝お兄ちゃん〟なんて呼ばれるよりずっと、お兄ちゃんでいられた。
イオにとって、やさしくて、おおきくて、……あんまりカッコよくはないかもしれないけど、〝ごうたすけて~〟っていつでも駆け寄って行ける、頼りがいのあるお兄ちゃんで、いられるような気がしていたんだ。



今週始まったばかりのイルミネーションを見たいと言われて、ふだん練習ばっかで機嫌を損ねがちなコイビトを連れて表参道にやって来た。
「キレーー」嬉しそうに笑って腕を絡める彼女の(大学に入ってから告白してきてくれるのはやっぱりどうしたって女の子が多くて、自然とこうなってしまった、って言うと不誠実で申し訳ないけど)横顔に「うん、キレイだね」って返して、通行人の邪魔にならないようにそっと彼女の腕を押して端に寄る。
「写真とっちゃお」インカメラのスマホを構える彼女に「豪くん、しゃがんで」腕を軽く叩かれて膝を曲げながら、「おれが撮るよ」って受け取ったスマホを掲げる。
今日はイオは撮影で遅い。夕食もスタジオでとるはずだから、ちょっとくらい遅くなっても平気だな、って頭の中で考えてたら変なタイミングで写真を撮ってしまって、「もう、豪くんヘタクソ。貸して」と彼女に取り上げられた。

今日のために予約しておいたイタリアンレストランの窓辺の席からはイルミネーションが見えるけど、彼女はさっき撮った写真をインスタに上げることに夢中みたいで、スマホから顔を上げない。何食べようかな、あ、このパスタイオ好きそう、カニのクリームパスタかぁ、カニ缶で作れるのかな……とか思いながら何となく対角側の店の隅を見ると、大きなもみの木が置いてあった。

「アレ、本物だね」
「え?ツリー?そうなのかなぁ」
「うん。本物だと思う。枝ぶりが」
「へ~くわしいね」
「母親が好きで。毎年本物飾ってたんだよね」
「いいおうちっぽいよねぇ、豪くんちって」

『イオがつける!』

気の早いクリスマスソングのBGMと店内のにぎやかな話し声に混じって、不意におさない声が頭をよぎる。
もみの木のてっぺんの、白く光る星。イオはいつもそれをつけたがった。

『たまには豪にもやらせてあげないとダメでしょ』
『いいよ、ママ。ほらイオ手ぇとどく?』
『とどかない~』
『はは、だろうな。ホラパパんとこおいで……庵?』
『ごうおんぶ』
『え、おれ?』
『いや、豪では無理だろ』

『おほしさま、ごうとつけたい』


あのときどうしたんだっけな。椅子の上に乗ろうとしたらママに止められて、パパが抱き上げとしたらイオが暴れて。結局星は、ふたりでつけられたんだっけ——?パパがふたりまとめて抱えてくれたんだっけ?ママの幸せそうな笑い声だけなんとなく覚えてるけど……とぼんやり考えていると、スマホを置いてメニューをにらめっこしていたはずの彼女がいつの間にか視線を上げていて、「ねぇ今日何で急に付き合ってくれたの?」とちょっとだけ平坦な感じのする声で聞いた。

「え……、誘ってくれたし、練習休みだったから。ごめんね、いつもバスケばっかで」
「バスケばっかなのは予想してたし、バスケする豪くんがカッコよくて好きになったわけだから、それは別にいいんだけど」
「あ、ありがと……」
「今日弟くんは?」
「仕事」
「ふうん」
「なに?」
「べつに。あ、私コレ食べたい!豪くんは?」

メニューを指す彼女の爪に、キラキラと光る星がいくつもある。メニューの写真よりもどうしてかそれが気になって、「爪、キレイだね」と言うと彼女が今日いちばん自然な、かわいらしい笑顔で笑って。
おれは何故だか胸が痛む。ごめんなさい、って思う。

イタリアンはおいしかった。季節のオードブルも、ピザも、パスタも、ドルチェも。おいしいものが好きな彼女は「いいお店予約してくれてありがとう」って上機嫌で笑ってくれた。でもなぜだか、もう彼女とはここに来られないような気がして、そしてそれをそんなにつらいと思っていない自分に気付いてしまって、おれはずっと彼女と同じ温度に見えるだろう笑顔を張り付けていた。

店を出たら「まだ帰らないよね?」って彼女の部屋に誘われて、ビーズのクッションを片手に出された紅茶を二口飲んだら息継ぎの間を狙ったみたいにキスをされた。そのまま、おれの上に跨るようにして腕を回した彼女の腰を抱いて、なるべく同じ温度のキスを返す。

「豪くん……すき」キスの合間の言葉に、返事をする代わりにまた唇を塞いで。
甘い匂い、狭いベッド、湿度をはらんだあたたかな部屋。熱くて柔らかい身体に触れるたび、甘い喘ぎ声を聞くたび、胸の中の星が曇る。




行為を終えて、彼女がシャワーに行ったタイミングでスマホを見ると、11時前だった。

【もう家着いた?】
【ちゃんとカギ閉めてる?】
【今から帰るから】

既読になるのを待たずに服を着ると、タオルを巻いて出てきた彼女が「帰るの?」と言う。

「うん」
「泊まってけばいいのに」
「ありがと。でも明日のお弁当の準備もあるし」

バスルームの灯りを背負って、彼女の唇が歪む。どちらかといえばすっぴんの方が無防備な感じがして好きだな、余計な言葉を発してしまう前に「ごめんね」と言う。

「豪くんいつも食堂だよね?お昼」
「……弟の分だから」

部屋の隅、姿見の近くで何かかちゃかちゃ音がするな、と思ったら、ハムスターだった。ちいさくてふわふわでかわいい。でもこの子にももう会えないような気がするな。
それはすこしさみしいな、と思ってしまう自分に嫌気を感じながら「ごめん、お邪魔しました。ちゃんと鍵かけてね」と玄関に向かう。

「イオ」

囁くような言葉は、どんな言葉よりも、誰が言っても、真っ直ぐに鼓膜を揺らして、おれの足を止める。彼女がその名前を知っていたことに何故だかげんなりしてしまって、今になって彼女の前でイオの名前を呼ばないように気を付けていた自分に気づいた。

「会わせてよ今度。モデル生で見てみたい」

丁寧に星が施されたキレイな爪、おいしそうにごはんを食べるところ、無防備な素顔。きっと好きになれるところはたくさんあるのに。
自分の瞳の温度が、下がるのがわかる。

「ごめんね、弟、人見知りだから」

さっきまで抱き合っていた人にこんな声を出してしまう申し訳なさを振り切るように、ドアを閉めてマンションの階段を1階まで一気にかけ降りた。




「おかえりぃ」

イオは先に帰ってきていた。
もうお風呂に入ったのか、ゆるい白のロンTを着てソファでくつろぐ姿は背こそ伸びていても子どもの頃と変わらない。

「風邪ひくよ?」
「デート、楽しかった?」

いたずらっぽく上がる唇に応えずに、洗面所に行って手を洗っていると、背中に微かな衝撃を感じる。

「ごう、外の匂いする」

背中に額を当てたイオが、しずかな声で言う。

「外にいたからね」

何でもない声で言って手を拭こうと振り返ると、「とまってきてもよかったのに」とイオが言う。それがちっとも良くなさそうで、たとえばちいさい子が「ひとりでできるもん」って言ってるみたいで笑ってしまう。

「別にいーの。ちょっとごめん、ごはんだけ仕掛けとくから」

ていうかそんなんじゃないから、と口から出まかせが出る。べつにおれに彼女がいたっていいと思うし、中学の頃はお互いのレンアイの話もちょこっとはしたけど。泊まるとかどうとか、高校生のイオの前であんまりそういう話題は出したくない。それでなくても今のおれからは〝外の匂い〟がするらしいし。早くシャワー浴びたいな、と思いながら軽く腕を叩くと、イオはあっさりおれから離れて、またソファに戻った。

「もう寝な。お風呂入ったんでしょ」
「んー。ごう待ってる」

キッチンから声をかけると、イオは膝の上にクッションを抱えて、緩慢な声で応える。眠いんだろうな、朝早かったし、寒い中撮影も外で春物撮るって言ってたから。本当はお弁当用のほうれん草のお浸しくらい作って、ついでに練習でいないとき用に常備菜ももう少し増やしておこうと思ってたけど、手早くお米を仕掛けて手を拭いてソファに向かう。
えらく薄着だけど、湯冷めしないかな、と思ってその辺にあったおれのパーカーを「コレ着ときな」と羽織らせた。

「ごうはやさしいねぇ」
「〝お兄ちゃん〟ですから」
「ふふ、でもごうはみんなに優しいじゃん」
「……そうでもないよ」

彼女の、お風呂のあったかい灯りを背負って歪んだ唇。去り際にドアの隙間から微かに聞こえた「……ブラコン」乾いた声。
それを振り切るように軽く目を閉じると、こつん、とおれの肩に頭を乗せたイオが前を向いたままおれを呼ぶ。イオが纏うお風呂の匂いがふわっと鼻をくすぐる。

「ごう」

ゆるいTシャツの襟元、見下ろした鎖骨のへんがハッとするほど白くて、思わず目を逸らすおれに気づくことなく。

「ねぇおれが、ジャマになったらちゃんといってね」

眠そうな声、ふわふわとやさしい、甘いわたがしみたいな。

「……何言ってるの?」

反対におれのは硬質な、ギザギザのガラスみたいな声だな、とどこか頭の隅っこの方で思いながら、何を考えてるかわからない弟を見下ろす。

『ごうまって!』
あの頃みたいに、どこに行くにも、一生懸命ついてきてよ。

『イオがつける!』
そうやって我が儘に、欲しいものに手を伸ばしててよ。

叫びそうになるのを飲み込んで、薄い肩を抱いて、「もう寝な?疲れたんでしょ」と言うと、「ん……きょう新しい人多くて…、現場もちょいゴタゴタして…つかれた……ほんとはごう帰ってきて、うれしかったぁ……」とイオは目を擦って笑った。

おれはまだ自分がイオの中で、あのてっぺんの星みたいな存在でいられていることにバカみたいに安心しながら、背中をトントンと優しく叩いて言う。

「今度のお休み、ツリー買って飾り付けしよっか」

返事はない、代わりに肩の重みが増して、規則的な寝息が聞こえる。

しばらくその寝息をだまって聞いて、ふぅ、と息を吐き抱き上げてイオの部屋のベッドに寝かせた。

「おやすみ、イオ」
「…………ごぉ」

その声に引き寄せられるように膝をついて髪を漉くと一瞬、穏やかな寝息が止まってイオを纏う空気が切なげに揺れる。

ごう。
ごぉ。

おれが〝お兄ちゃん〟でいられる魔法の、はずの——言葉。

それを象る唇に触れそうになる手をぐ、っと引っ込めて、額に祈りを、落とした。

(神様、……でもなんでもいい。
もう少しだけ——)

さっき曇った胸の中の星は、それに応えるように静かに光る。



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