愛をゆるして

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愛をゆるして

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 ごうの目はときどき、こうして光を無くす。ふだんのキラキラが嘘みたいに、みるみる。真っ黒なペンキを流し込んだみたいに。ごうの光だけじゃなく、その暗さにも惹かれてしまうおれは、きっともうここ以外どこにも行けないんだろうな、と思いながらおれの胸を握り潰すごうの言葉を待つ。






「じゃあ、俺はどうしたらいいの?」

「どうしたらって……」

 髪をガシガシと掻いて、ごうは聞き慣れない掠れた声で言った。ごうを怒らせた、と気付いたおれは、そんなことはめったにないせいでその対処もがわからず、早くなっていく鼓動と浅くなる呼吸を必死に整えながら頭を回転させる。
 どうしたらいい?どうしてくれればこの不安は消える?おれは、ごうにどうして欲しかった?どうすれば、ごうに伝わる?

「どうして欲しいの?言ってよ、」
「わかんない、……わか……」

 ごうにどうしてほしいワケじゃない。おれはただ、ごうの支えになりたかった。なれないのがさみしかった。それはおれの願いで、エゴで。それが叶わないのはごうのせいなんかじゃないことを、おれは痛いくらいに知っている。
 泣きたくなんかないのに、勝手に目からぬるくなった弱さが零れて、声が震えた。霞んだ世界で、今回初めておれの前で痛そうな顔をしたごうが歪む。

「……いお、……」

 庵。

 言いかけてごうが「り」の音を吞み込むのがわかった。『なまえ、呼ばないで……』おれが奪った声。代わりに大好きなごうの手が、おれの頬をそっと撫でる。それが涙だとようやくわかったみたいに、ごうは息を呑んだ。

「ちがう、ごうおれ……」

 触れた部分が少しずつ小さくなっていく指先に縋る勇気はなくて、首を振って言葉をひねり出そうとする。ごうが嫌なんじゃない、「無理して恋人ヅラ」されてるなんて、本心から思ってるワケじゃない。なのに、それを告げる前に、ごうの手はおれから離れた。

「ごめん」
「ご……あの、」
「今日は帰るね。冷蔵庫に色々入れといたから、食べられるものは食べて、ちゃんと寝て」
「ね、ちょっと」
「仕事も、できたら休んで。本当に……体壊したら元も子もないから」

 俺が言えることじゃないかもしれないけど。

 肩ごしの自嘲じみた笑いが、立ち上がってごうを追うとしたおれを制した。今はきっと、何も届かない。ごうからも、おれからも。きっとただの兄弟だったら話聞けよ、って体当たりしてでも詰められたたった数歩の距離が、今はこんなに遠い。

「元気になったら、観に来てよ」

 そう言ってごうは、シューズケースの上に何かを置いて帰った。






「別れたほうがいいのかな……」

 心にもない言葉。でも、言葉にすると途端に迷いは具体性を増して、どんどん弱気になる。「でも別れる、ってなに……?」タブレットでごうの試合の中継を見ながら、独り言みたいに呟く。ごうの調子は、この前と打って変わって良くない。まだ1クオーター目だけどいつもなら決めるシュートを何本か外しているし序盤のタイムアウトでアイシングされているのが見えた。
 やっぱりまだ本調子じゃないんだ、苦しみを外に出さないようにいつもより声を出して走るごうを見るのは自分の不調よりずっと痛くて、さっきからじんわりと汗を掻いて硬くなった掌をなかなか解くことができない。
 ラスト1カットのカメラセッティングを待つ楽屋に押しかけて来た、本日のクライアントであるケイは、わっかになった煙草の煙を目で追いながら、「特殊だからな、お前らは」と軽く笑う。

「別れた方がいいかどうかで言ったら、別れた方がいいだろ、そりゃ」

 こんな弱音、聞かせられる相手をケイ以外に知らないおれは、ケイの容赦のない言葉に顔を顰める。ケイはおれの苦い顔をちらりと見て「一般論で言ったらよ?」と続けた。

「実の兄と弟なんて付き合ってるメリット0。どころかマイナス」
「メリットとか……」
「別れた方がラクだと思うぜ。お前も、お兄ちゃんも」

 ケイの手によって灰皿に押し潰されて吸い殻にされる煙草を見ていると、何故か胸が締め付けられた。ごうの真っ黒な目、掠れた声、ギリギリ溜息にならないように気を付けて吐かれた息。一般論なんかなんの意味もないとか、メリットなんて一瞬も考えたことがないとか、そういう反論は頭の中に浮かぶけど、ぜんぜん声にならなくて。おれはケイが立ち上がるのを、鏡の前に座って呆然と見つめる。なんて顔してんだ、なんて楽屋の真ん中にあるテーブルから一歩一歩近づきながら笑われても、ちっとも笑い返すことができないままで。

「でもさ」

 ケイはメイク台の前にあったパイプ椅子をひょいとまたいで、あっという間におれの前に立った。長い脚、パーマのかかった黒髪、目尻の笑い皺を引っ込めて、座ったままのおれを見下ろす。

「ラクになりたいの?お前は」

 ラクになりたいなら付き合うけど?そう言って、少し乱れたおれの髪に手を伸ばす。おれは避けない。ケイが髪をなでつける。おれはそれを受け入れ、真っ直ぐケイを見つめたまま、口を開いた。

「……ならない」

 ごうと離れることで得られる平穏なら、おれはいらない。全部わかっていてあえておれにそう言わせるようなケイの口調に、ざわざわした波少しずつ収まっていくのを感じる。ケイの誘導に乗ってる感じがして癪だけど、それが本心だから仕方ない。
 ケイはおれの言葉に肩を竦めて、「そっか。……軽く泣いとく?泣くなら貸すけど?」と同じ口調で言って手を広げる。おれはケイの腹を軽くパンチして、「泣かない。メイク崩れるから」と返す。ケイは「モデルの鏡だね。ラストもよろしく」と満足そうに笑った。
 その後すぐ、1クオーターが終わるタイミングで、撮影再開の声がかかって。おれは画面の中のごうに「がんばれ」と呟いて、スタジオに向かう。



 ラストカットは、驚くほどスムースに進んだ。「OK」の声の後ケイも拍手してくれて、おれはホッとしながら急いで楽屋に戻ってタブレットを起動する。ゲームは3クオーターの終盤まで進んでいた。

「それ、行かねーの?会場近いんだろ?」
「招待券もらってる、けど……」

 一瞬訪れた沈黙を待ったように、アナウンサーの高い声が響く。

『おっと、青田転倒!!マイケルの腕が当たりましたか?』
『ボールキープしながら体勢を戻そうとして、変な転び方しましたかね』
 
 倒れたごうに、心配そうにメンバーが集まる。ごうはしばらく仰向けになっていたけど、立ち上がって大丈夫、と言うように数度飛んで見せた。しゃがんでごうの足元を見ていたトレーナーが首を傾げて何かをごうに言ってるけど、ごうは首を振って何かを言い返している。

「ご……」
「行って来たら?って早」

 ケイの声を背中で聞きながら、おれは楽屋を飛び出した。


  会場に入ったとき、十点開けられたままほとんどゲームは終わりかけていて。それでもコートの中にごうはいた。おれは用意された席にまで行くことはなく、通路に立ったままごうの姿を見つめる。「がんばれ、ごう」小さな声が、届くはずはなかった。なのにごうが一瞬、おれを見た気がした。カメラの焦点を縛るみたいに、ごうが、ごうだけがおれの世界になる。

 残り十数秒、逆転は厳しい。なのにここ一番の勝負所を見ているように、鼓動が高鳴る。パスが渡って、ボールが弾む。ごうは、驚くような速さでディフェンスを数枚かわして、シュートを打った。美しい軌道に、一瞬、会場の空気が止まる。ボールが静かにゴールに吸い込まれるのを見届けるように、試合終了のブザーが鳴った。




「イオ!」

 出口付近で呼ばれて振り返ると、ユニフォームにウェアを羽織ったごうがいた。突然現れた花形選手に、周りがざわつくのがわかる。

「ちょ……何して、わっ」
 
 ごうが投げたものを、どうにか受け取って「待ってて」頭上のごうの声を聞く。掌にあるのは、ごうの愛車の鍵だった。ごうがおれに近寄り、耳元で囁く。「……一緒に帰ろ」感情の読めないごうの声に、周りの視線を気にしながらただ頷くしかない。

「わ、かった」
「関係者用の駐車場わかる?終わったらすぐ行くから。ちゃんと鍵かけてね。何かあったら必ず電話して」
「うん」

 じゃあね、って頭を撫でられて、小さく息を吐いて踵を返した。膝のサポーターと手首のテーピングが気になったけど、ミーティングに向かうごうの背中は、いつも通り真っ直ぐ伸びている。


 
「お待たせ」
「あ、うん早かったね」
「今日は皆疲れてたから。ごめんね、かっこいいとこ見せられなくて」
「ううん。最後のシュートかっこよかったよ。……大丈夫?それ」
「うん。シートベルトした?」
「うん」

 よし。そう言ってごうは静かに車を発進させる。何重にも巻かれたテーピングは痛々しいけど、走行は滑らかだ。テールランプがごうの顔を照らす。その表情は穏やかだけど、いつもより口数が少ない。あったかい車内と、ステレオから流れる落ち着いた音楽と。
 少しうとうとしかけたときに、「体調大丈夫?」ごうが口を開いた。

「ん……ふっかつした……」
「ふ、眠そうだねごめん」
「ごうの手は痛そうだね」
「んー……そうでもないんだけどね」
「そう……」

 チクリと痛む胸に、気付かないフリをして、肩を竦める。「寒い?」目敏いごうが暖房を上げる。違う、寒いわけじゃない。さっきよりあったかくなってく空気に、言おうとした言葉を呑み込んだ。
 しばらくの沈黙の後、「ちょっと感覚がね、戻んなくて」ごうの言葉をもっと聞きたかったのに、家に着いてしまった。



「おじゃまします」

 ごうの部屋でスリッパを履いて、手を洗う。「おれやるよ」って言ったのに「や、いい。気分転換になるから淹れさせて」ってごうが淹れてくれたミルクティーをソファに座ってひとくち飲んで、「ごはんは?」「ケータリング食べた」「そっか」ごうが隣に座ってきたら、何を言っていいかわからなくなる。

「……このあいだはごめん」

 ずっと頭になぞってた台詞をごうが言ったとき、おれは目を開いてごうの顔をまじまじと見てしまった。

「何その顔」
「お、れが……言おうとしてたやつ、それ」
「はは、先言っちゃった?」
「ん、引っ込めて」
「無理だよ、言っちゃったもん」
「……おれもごめん」

 あーって声出して大きく伸びをして、ごうがソファに背を預けておれの肩を抱き寄せる。ごうの匂いと、肌のあたたかさに、ツンと鼻が痛む。仲いいたって兄弟だし、ケンカだってそれなりにしてきた。のに、こういうふうになってからはごうとするケンカも仲直りも、本当に慣れない。今度こそ無理かもって、死にそうになる。

「不安にさせた、よね」
「……おれじゃ、一生ごうの支えになれないのかなって」

 ポロリと溢れた本音は、思ったより弱々しく響いた。
 どんなにごうを想ったって、おれは後から生まれた、ごうの弟だから。おれの人生の一番の喜びであるはずのそれが、ごうを想えば想うほど、重く伸し掛かる。でもそれなら、ごうだって、ごうの方こそそうなんじゃないか。そう思うと、おれたちが恋をしていい理由なんて、どこにもないような気がする。

『お前はラクになりたいの?』

 ケイの言葉に首を振ったけど、それはあくまでおれの感情で、おれのエゴ。そんなものでごうまで縛っていんだろうか。ごうだけでも、せめて。

「俺はね」

 ぐるぐる回るおれの思考を止めるように、引き戻すように。抱いた肩をポンポンと数度叩いて、ごうは静かな声で言う。

「確かにお兄ちゃんだし、なんか、イオの前でいつもちゃんと立ってたい、みたいな気持ちも……それで頑張っちゃうみたいなトコも、そりゃなくもないんだけど」
「……」

 ごうがおれの顔を見る。きっと情けないほど不安げな顔をした自分がその目に映るのが嫌で、俯きそうになった顔をそっと手を添えて正される。無言で。こっち見て、って。

「好きな子の前でかっこつけたい」
「……え」
「どっちかというとそれだよ。かっこいいとこ見せたい。ケガして痛い~なんて情けなく言ってるとこじゃなくて、平気な顔して走って、バカスカシュート決めて、できれば、勝って」
「……」
「ごうって凄いな、かっこいいな、さすがおれのごう、大好き!って思われたいの。イオに」

 なのに傷つけちゃった、上手くいかない……イオとのレンアイ難しすぎだよって唇尖らせてぶつぶつ言ってるごうに、ようやく脳が追い付く。

「え、……ばかなの?」
「今ばかって言った?」
「言った」
「酷くない?」

 目を丸くしておっきな声で言うごうに、思わず笑ってしまう。笑ってるうちに目に溜まった涙がほろりと零れて、こっそり裾で拭おうとしたら片手がごうに捕まる。「ばかって言う方がばかなんだよ」おれの顔を覗き込んで、頬を流れていく涙をごうがぺろりと舐めた。

「……っ」
「恋人ヅラ、っていうか、恋人だからね?分かってる?」
「……わかってる、ごめん」
「よし。じゃあ恋人しよ」

 小さく頷いたら、涙を拭った唇が唇に触れて。離れていくそれを切なく思う間もなく、今度はもっと深く、ぴったりと塞がれる。

「ん……っ」

 だんだん増していくごうの重みを感じながら、雁字搦めの鎖が少しずつ溶けていく快楽に身震いした。





「入るよ、イオの中」
「ん……きて……ごぉ」

 ゆっくりと、じわじわ慣らすように。それでも確実に奥へと進む意思を持って、ごうの熱がぴったりとおれの空洞を充たす。「は、ぁ……っ、ん……」恥ずかしくなるくらいにうっとりした声が洩れて、体温が上がり切る前にその声の生まれる場所をごうの舌が塞いだ。

「ん……っう、んぅ……ッ!!」
「は……っ、凄い……庵……」

 額を合わせて、思わず、って感じで呼ばれた名前と、堪らないとばかりに突かれた奥への衝撃で、一瞬頭が真っ白になる。震える肌を撫でて、「……ゆるしてくれる?」ごうがおれの指をとって自分の唇に充てた。

『なまえ、呼ばないで……』

 おれはごうを胎いっぱいに受け入れたまま、こくこくと頷く。

「いお、り……」
「あっ、あぁっ、ん……あっ、ぁ」
「イオ、庵、……庵、大好きだよ。イオが生まれたときから」

 指に当たる生暖かい告白と、身体を貫く熱に。迷いも、痛みも、苦しみも、一人で抱えるべき全てが溶けてしまうような歓びと恐怖を感じて、おれは震えた。何も考えられなくなる。波にさらわれて、何も。
(ほんとうは、何ひとつ解決していないのかもしれないなんてことを。)

 溺れるみたいに、必死でごうの肩に縋る。

「や……ぁ……っ、いっちゃ……ごぉ……っ」
「ヤダ?」
「や……っ、やじゃな……っ、ぁあっ、」
「俺にもちょうだい?」

 心臓の上の皮膚に、唇を落として。おれを抱き上げるようにして膝の上に乗せたごうが、一層深くを穿つ。さっきとは別の角度からの侵入に、上り詰める準備するらままならないまま、「――ッ!!うぁぁああ……っ!!」ごうの上で胸を突き出すようにして吐精する。

「ぁ……く、うぁ…………」
「だめ、こっち」

 ずるずるとシーツの上に崩れ落ちそうな背を大きな掌で支えられて。そのまま強く抱き寄せられて、逃げられないまま、絶頂直後の快楽の芯を揺さぶられる。

「んあっ、ああっ、まだ……っ」
「名前、呼んで……?」
「あっ、やっ、ぁあっ!う……ぁっ、ご……っ」
「……ん?」
「ご、……っ、ごう……っすき、だいすき……っ」
「うん、俺も……愛してるよ、庵」

 耳元に注がれる熱と、胎内に充ちていく熱に、全部が剥がれて。おれはごうにすべてを明け渡した。






 すうすうと穏やかな寝息を立てる白い、小さな顔。あんな行為を強いた後とは思えない、幼い頃と変わらない無垢な寝顔に、いつものように胸が甘く軋む。

「おやすみ、イオ」

 俺は思わず手を伸ばして、柔らかな頬に触れる。この世で一番優しく繊細な素材でできているとしか思えない弟の肌。そっと触れた掌に繋がる神経から一瞬、痺れるような鋭い痛みが走って、「……ッ」思わず顔を歪める。

 食いしばった歯から洩れた息が、イオの寝息を乱すことはなかった。それに心からホッとして、「ごう」と何度も俺を呼んでくれた唇をそっと塞ぐ。

 痛みの波が引いていくとともに、俺の寝息もイオのそれに重なって。繋いだ手の感覚も、痛いような愛しさも、イオの不安を強引に塗り潰した罪悪感も。
 全部が溶けて、混じっていった。
  
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