【完結】藍の日々

しち

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第三章 ひとりとふたりのひみつ―前編―

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「イオリ!」
 ボールの軌道の下に入り、落ちてくるのを待つ間、スパイカーの位置と敵のブロッカーの動きを横目で確認する。攻撃の流れを頭の中で組み立てたら、あとはボールと一対一になる。その間、チームメイトの声や、ベンチからの激や、ごうの存在ですら――。いろんなことが遠ざかって、世界は無音になる。その瞬間が、キライではなかった。
  
「今日のコンビネーションはなかなかよかったな」
「見事に負けたけどね」
「イオリのトスは打ちやすいよ」
「そりゃよかった」

 もう帰るのか? 相変わらず着替えるのが早いな、と笑うジョゼフの声を背中で聞きながら、また明日、とひらひら手を振る。練習試合が終わった中学の体育館を出ると、乾いた風が汗をかいた体を心地よく冷やした。
 バレーボールを始めたのは、一年前。中学に入学してすぐ、グラウンドでごうのサッカーを見学しているときに、ジョゼフに声をかけられた。ごうよりちょっと身長は低いけどがっちりしてて、ホントに中学生かよ、って雰囲気(ウチのスクールTシャツを着てなかったらおれは高校生だと思って話してたと思う)だけど笑うと妙に人懐っこい感じの、一個上のウイングスパイカー。

『相変わらず化け物みたいに足が速いな』

 誰だコイツ、と思って視線を上げると、ジョゼフは走るごうを指さして言った。「お前のアニキだろ? 俺はあいつと同じ二年のジョゼフ。イオリもバスケをやるのか? サッカー?』

『……おれは走りたくないから』
『はは、なら打ってつけのスポーツがあるぜ』

 よく見ると、ジョゼフは白いボールを持っていた。『ちょっとやってみるか?』その誘いに乗ったのは、ほんの気まぐれだった。ごうがすでに一人で三点獲って、相手チームの疲れがげんなりした顔からありありと感じられて既にゲームの結果が見えていたこと。応援席に、ごうの彼女のピアスをつけた横顔が見えたこと。そのばっちりメイクされた、ごうしか見てないって感じのキラキラの目に今日はごうの終わりを待っても、一緒に帰れないかもしれないな、と思ったこと――。
 ごうは球技全般何でもできるけど、バレーをやってるとこは見たことがない。サッカーとバレーはシーズンが被ってて、脚も鍛えたいしね、って秋はサッカーをやってるからだ。 
 あいかわらずバカみたいにやさしくて、ケンカの一つもしないけど、最近どこか言葉にできないベールを感じる、ごうのやったことがないもの。
『……ホントに走らなくていい?』
『パスの相手を走らせるほど下手じゃないつもりだ』
 ジョゼフが投げたボールを受け取って、しぶしぶ腰を上げた。一年前の秋。
  
 うちの学校はバレーだけはそんなに強くないらしく、入部にあたってパスしないといけないトライアウトもおざなりなものだった。一学年上のジョゼフの口利きもあったのかもしれないけど、おれはあっさりとバレー部に所属することになった。身長を伸ばしたいから、ってごうが毎食毎食飲んでる牛乳をときどき飲んでいたせいか、ただの遺伝か。おれも中学に入るちょっと前からママが「……誰?」って時々笑うくらい飛躍的に身長が伸びていて、そのころ百七十弱くらいあったから、そのせいもあるかもしれない。おれがバレーを始めたことを、ごうは喜んでくれた。「バスケもやる?」ってたまにいたずらっぽい顔で聞いてきたけど、おれが頷くとは思ってない感じで、「ケガに気を付けてね」って頭をなでて言ってくれた。自分はしょっちゅうアザ作って帰ってくるくせに。
 
 夕方に差し掛かった、橙と紫のコントラストがキレイな空をぼんやりと見ながら、スクールバスに乗り込む。学校でサッカーやって、サッカーが休みの日はクラブでバスケやって、ってとにかくスポーツ漬けのごうはまだ動き足りないのか(我が兄ながらほんとに信じられない)最近ロードバイクで通学していて、一緒にバスに乗るのは激しい雨の日くらいだ。今日も晴れたな、って思って空を見上げるのがクセになっちゃってるのが、なんか虚しい。試合にも負けたし、って相手のブロックのしつこさを忘れようとイヤホンを耳にさそうとしたとき、小走りのジョゼフがバスに乗ってきておれの隣に座った。

「迎えが来るんじゃなかった?」
 ジョゼフの家は結構遠いし、気さくなやつだけどこいつは結構ボンボンなんだ。

「イオリに追いつけそうだったから、さっき電話して断った」
「もうミーティングはしないよ」

 そう言いながらイヤホンを外すと、ジョゼフはもちろん、と笑って「ニンテンドーの新作の話する? 明日の数学のテストの話?」と首を傾げて見せる。コイツほんとにごうと同じ年なのかな、と思いながら「一択じゃん」と答えるとジョゼフの白い歯が見えた。
  
「お、あれゴウじゃないか?」

 ジョゼフが窓の外を見て言ったのは、うちから自転車だと十五分くらいの、雑貨屋やカフェ、書店なんかの小さな店が並ぶ通りに差し掛かったときだった。バイトから抜けてきたのか、長い髪をアップにしたエプロン姿の彼女と並んで、ロードバイクを押しながら歩いているごうが見えた。ごうの腕をとって耳元に唇を寄せる彼女にジョゼフが口笛を吹く。バスが二人に並んだのは一瞬で、すぐに追い越して視界から見えなくなったのに、その光景はしつこく目の奥に残り続ける。

「もう付き合って一年くらい?」
「……知らない」

 彼女がいる、も好きな人ができた、もごうの口からは聞いたことがない。もちろん家に連れてきたりしないし、おれは彼女の名前すら知らない。メアリーのときは、あんなにガキっぽくはしゃいでたくせに。近頃のごうはなんかちょっと、知らない男って感じに見えるときがあって。

「きもちわる……」

 乗り慣れたバスの揺れに、胃がぎゅっとつかむまれたように収縮する。口を押さえてうつむくと、「大丈夫か?」ちょっと慌てたジョゼフの声が耳の奥で歪む。
 ジョゼフに心配されながらどうにか吐き気を抑えて家に帰って、ちょっと気分悪いから部屋で寝てるね、ってママに言ってベッドにもぐった。胃の収縮は治まって、かわりにどろりと重たい眠気が襲ってくる。そういえば、もうずいぶんごうと一緒に寝てないな、って思ったのを最後に意識がぷつっと途絶えた。
 どれくらい眠っただろう。額に掌が当たる感触に、すう、と引き上げられるように目を覚ます。「……ごう?」部屋は暗かった。でも、そのあたたかさを、おれが他の何かと間違うはずもない。

「大丈夫? イオ。気分悪いって」
 上から心配そうなごうの声がして、おれはサイドボードの上のライトを手さぐりでつける。視界が明るくなって、声の通りの、気遣わし気な表情のごうがぼんやりと浮かんだ。

「……おかえり。今帰ってきたの。練習?」
「ん……熱はなさそうだね」

 くしゃりと髪をなでられて、くすぐったいような甘やかな気持ちと、ぞわぞわと冷たい攻撃的な気持ちが混じる。目を閉じてやりすごせば前者のほうが強くなってくれるような気がしてしばらくそのままにしていたけど、頭に浮かぶのはどうしたって寄り添うような二人の姿だ。あの後、バイトが終わるのを待って、二人でどこかに行ったのか、そのまま帰ってきたのか。窓の外は暗くなっている。どんどん大きくなる感情をちょっとでも鎮めるようにちいさく息を吐いて、体を起こす。

「大丈夫?」

 ゆっくりと起き上がって、ごうの肩にあごを置く。少し前に比べてずいぶん広くなった肩幅。汗のにおいはしない。かわりにかすかに人工的なローズのにおい。ごうの平たい耳たぶが、すぐそこにあった。

「ごう、……女くさい」

 自分の声が、自分のじゃないみたいに冷たく響く。びくりと肩を震わせる、ごうの目は見れなかった。そのまま立ち上がって、逃げるように階段を降りる。ひどいことを言ってしまった。泣きそうになりながら、おなかに力を入れて〝いつもの庵〟を引っ張り出す。

「おなかすいた~今日のごはん何?」

 のんきな声が、できれば二階のごうに聞こえますように。それでさっきのは聞き間違いか寝ぼけてたか、とにかく気のせいだって思ってくれますように。バクバクうるさい心臓の音が少しでも鎮まってくれるように、冷蔵庫から出した冷たいミネラルウォーターを流し込みながら、ごうが降りてくるのを待った。

 晩ごはんは、ミネストローネと、エビとブロッコリーのサラダと、煮込みハンバーグだった。ごうはご飯を三杯食べて、「お米足りるかしら」とママの目を丸くさせた。食事の途中で珍しくパパが早く帰ってきて(パパは夕飯のメニューにはしゃいでちょっと無理して早く帰ってきてよかったとママをハグして、思春期のおれたちを苦笑させた)、にぎやかになった食卓で、おれはごうの目が見れないでいる。

「イオ、それ食べないの?」

 突然ごうに話しかけられてうまく反応できないでいるうちに、ごうがおれの食べかけのハンバーグをひょいと箸で挟んで口に入れた。

「え……や、食べ」
「食べないならもらうよ~」
「あっ、バカ、それ置いといたの!」
「え?そうなの?」
「もう、まだあるからケンカしないの」

 おかしそうにママが言う。こんな程度でケンカ、なんておれたちはホントに平和だな、と思う。その平和がごうの気遣いで保たれてることを、おれはもう気が付いている。ありがとう、言う代わりに添えられたマッシュポテトをごうの皿にのせると、「まだ気持ち悪いの?」ごうの眉が心配そうに寄ったのでごうの皿のポークビッツを奪って食べた。

「あっ」
「食べないならもらうよ~?」


 その夜、眠ろうとするとコンコン、と壁が鳴った。ごうからその合図が来るのはかなり珍しい。おれからだって、中学に上がってからはほとんど送ったことのない「まだ起きてる?」の合図。何だろう、ドキドキしながら、しばらくためらったあと控えめにコンコン、と二回叩くと、しばらくの静寂のあとごうがドアを開ける音がした。

「イオ」

 暗がりで聞く、静かな声。さっきも思ったけど、ごうの声はいつのまにかパパみたいに低い、大人の声になっていた。ノックを返した以上寝たふりしたって意味ないのに、何を言われるのか怖くて、頭まで布団を被ってしまう。ごうはゆっくりと近付いてきて、さっきみたいにベッドの横にヒザをついた。ポン、と布団のふくらみに、やさしい圧がかかる。

「おれはね、イオ……」

 何を聞きたくないのか、何を言われたいのか。自分でもわからないまま、ごうから見えないのをいいことに目をかたくつむって耳をふさいだ。なのに、ごうの声をどうにか拾おうと息を殺してる。心臓がバクバクと音を立てて、いっそ布団ごと、心臓になったような気分だった。ごうの手にゆだねられてる、命のモト。

「ずっといちばん……大切だよ、イオが」

 ジャマしてごめんね、心臓になったおれを軽くポンポンとなでるように叩いて、ごうが立ち上がった。そんなの、おれだって、おれの方が。
 だけど何かを言おうとすると途端にいろんなものがあふれてしまいそうで、おれは布団の中でただ唇をかんで、ごうが立ち上がって部屋に戻る音を聞いていた。
 
 その夜、おれは夢をみた。ちいさいころの夢だった。ごうは、高知の川で見つけたまんまるな石や、じいちゃんからのハガキや、お菓子についてるカードや、サンタさんからの手紙や、お気に入りの車のおもちゃをお菓子の缶に入れて大事にしていた。『ごうのたからばこ』子どもらしいヘタクソな文字で書かれた文字、「か」が左右ひっくり返ってたことまで覚えてる。 
 ごうは、その中身をときどき大事そうに取り出しては、光に当てたり、読み返したり、ティッシュで拭いたりしていた。大切な儀式のようなそれが全部終わって、缶にしまって、ふたを閉めるときにいつも言うんだ。くすぐったそうな、やさしい笑顔で。『でもおれのいちばんのたからものは、イオだけどね』。そう言われたときにそのまま、ちいさくなってあの缶の中に入ってしまえたらよかったのに。夢の中のおれは、半分本気でそんなことを考えている。〝あなたたちってやっぱりおかしい〟小学校を卒業して以来会っていないメアリーの声が、やけにはっきりと聞こえる。
  


 バレーを始めてよかった。そんな風に思うなんて一年前は想像もしてなかった。でも子どものころみたいにずっと家にいたら、昨日のごうの言葉を何度も何度もリフレインして平気な顔なんてできなかっただろう。
 試合の前の軽いアップのあと、二人一組になってパス練をやる。手は三角、膝を使ってやわらかく上げる。ボールを回転させないことに集中していれば、余計な感情や欲はいっとき鳴りをひそめる。
 集合の笛が鳴る。「いいトス頼むぜ」背中を叩くジョゼフに、「いいトスほしかったらサーブちゃんと返してね」と言うとまたあの白い歯が見えた。円陣を組んで、コートに散らばる。サーブの位置について、息を吸う。吐く。ボールを上げた瞬間、世界から音が消える。

 
「今日どうした?」
「どうしたって何が」
「調子が良すぎた。サーブも、トスも鬼気迫ってた。最終セットのツーは最初から狙ってたのか? 俺も気付かなかった」
「勝ちへの執念じゃない?」
「おかしいな、仮にもうちの正セッターなのに似合わなすぎて笑える」

 試合後、ストレッチをしながらジョゼフと軽口を叩く。フルセットにもつれ込んでの逆転勝ち。今日は相手のサーブが良くて、どっちかというと守備が硬いうちのチームのサーブレシーブがあっちこっち飛んだ。珍しくたくさん動いたせいで、途中ちょっとつりそうだった腿の裏にまだ違和感がある。

「いって……」
「どうした?」
「や、だいじょぶ」
「大丈夫じゃないだろ、見せろ」

 ジョゼフがおれの腿を抱えるようにして、「つったか?」と顔をのぞきこむ。仕方ないけどちょっと近いな、と顎を引きそうになったとき、その声が上から落ちてきた。

「イオ!」
「え……?」

 客席から身を乗り出しておれを呼ぶごうがいた。ごうも今日はバスケの、クラブの方の試合だったはず。チームのジャージを着て、タオルを頭に巻いている。来るなんて言ってなかったのに。ていうか全然気づかなかった――。ごうは少し細めた目でジョゼフを見て、「任せて、今降りるから」と言うとほんとにあっという間に降りてきた。代わって、と低い声でジョゼフに言うと、気の良いチームメイトは肩を竦めてその位置を譲った。

「脚伸ばせる? ゆっくり。息吐いて、そう」

 ごうの手の熱が、腿の裏に触れて。さっきまでまったく感じなかった感覚が腰からぞわぞわと上がってきて、おれは身を捩った。

「ごぉ、……だいじょうぶだから」
「ダメ。こういうのちゃんとしないとクセになるから」
 逃げようとするおれの腰を引き寄せて、真剣な顔で脚を伸ばしたり縮めたりする。耳が熱くて、隣に立つジョゼフの視線が痛くて、痛みや違和感なんてどこかへ行ってしまった。

「……うん、大丈夫そうだね」

 しばらく注意深く同じ動作を繰り返したあとホッとした顔で笑うごうは、いつも通りのやさしい目をしているのに。こんなことで居た堪れなくなっている自分がバカみたいで、まっすぐにごうの顔が見れないし、ちゃんと「ありがとう」も言えない。そんなおれの態度やジョゼフの観察するような視線を気にする様子もなく、ごうはいつもの感じでおれの頭を撫でて「がんばったね、かっこよかった」と言った。


  
 短い秋が終わって、すぐに冬が来た。バレーチームは州大会を終えて一旦解散。来シーズンは高校生になっているジョゼフは、試合後のロッカールームで「俺がいなくなっても辞めるなよ、ハイスクールでも一緒にやろうぜ」とおれに手を差し出した。青春ドラマかよ、と思いつつ「バレー、高校でも続けるかはわかんないけどね」そのデカい手を苦笑しながら握ると、「イオリはボールでも何でも、何かを追ってた方が絶対にいい。なぜなら……」と一瞬複雑な顔になって、結局、という感じでごうの名前を出した。

「別れたらしいな、彼女と」
「いや……聞いてないけど」
「噂だけどな、まぁ、モテるもんなお前のアニキ」

 何かを言いかけて、じきにすぐ恋人を見つけるさ、と明らかに適当な言葉とともにおれの背中を労わるように叩いた一つ上のチームメイトは、「いつでも話聞くからな」と妙に神妙な声で言った。「じゃあテストの山掛け手伝ってセンパイ」と小突くと「残念、それは専門外だ」と肩を竦める。成績いいくせによく言うよ。

 冬はバスケのシーズンだ。バレーが終わってヒマになったおれは(冬のスポーツをやろうという発想はなかった。もちろんバスケも)、毎週末行われるごうの試合を観に行った。行くたびに客席をくまなく探したけど、ごうの背番号を掲げて黄色い声を上げる女子生徒はたくさん見るものの、彼女の姿は見えない。ごうはそんなことは全く影響ない、って感じで、誰よりも速く生き生きとコートを駆け、声を出してパスを貰い、どんな体勢からもシュートを決めている。シーズン制のおかげでサッカーするごうも、野球をするごうもたくさん見てきたけど、やっぱり四十分間全力で走ってゴールにボールを放つごうが一番かっこいいな、としみじみ思う。

「やっぱりバスケやってるところが一番かっこいいわね」

 おれの心を読んだかのように隣でママが言うのを、気恥しさを隠すように「……親ばか」って少し笑って、コートを駆けるごうを、ごうだけを目で追った。

 

 田舎町のクリスマスのイルミネーションも板についてくる、十二月の日曜。今日はシーズンに入って、何度目かの試合だ。ママは日本人会の集まりがあるから、って来れなくて、パパも長期出張中だからジョゼフを誘って観に来た。今日の相手はアメリカ全土から留学生を集めてる結構な強豪らしい。「勝てそうか?」と聞くジョゼフに「おれが観に来た試合でごうが負けたことってほとんどないんだよね」と平然と答えると、「それはぜひ俺たちの試合も観に来てほしかったな」と真顔で言われた。

 試合前のアップと練習が終わって、選手たちがベンチに駆けていく。中学生でも二メートル近いようなのがゴロゴロいる欧米人の中、そんなちょっとしたダッシュですらごうは誰より速く、元気だ。ふとごうと目が合って、軽く手を上げると「イオリ」空席だった隣に座るために目の前を人が通り、ジャマにならないようジョゼフに肩を掴まれた。ごうは一瞬止まって、そのあとおれの方を見て笑った。

「……気付くんだな」

 ジョゼフがおれから手を離し、肩をすくめて呆れたように言う。

「結構デカいぜ、この会場」
「今日行くって言ってたし」
「……あのときも気付いてたな」
「へ?」
「サッカー。俺がお前に初めて声かけたとき。だだっ広いグラウンドでボール運んでる最中に今と同じ目されて」
「今と同じ目?」
「……まぁ今のは手の置き場が悪かったか。普段はほんとに信じられないくらい気のいいやつなんだけど」
「ごめんジョゼフ、話が読めない」
「見る角度によって全然違うものが見えることもあるって話。あとイオリは、察しはいいけどゴウのことになると」

 歓声が沸く。ジャンプボールはごうのチームのセンターが制して、最初からそれを狙ったように全力で走っていたごうにボールが渡った。一瞬面食らった敵も、すぐに戻って二人がかりで止めていく。どっちもオフェンス重視のノると手つけられないタイプのチーム同士らしい。初手が大事、ってことか。強いチーム同士で、ここがNBA選手の登竜門って言われてる大学バスケのメッカってこともあるだろうけど、開始早々場内を包んだまるでラスト数分みたいな熱気に、おれたちはそれまでの会話を忘れた。

「行け……! ごう」
 ごうが二人のディフェンスをドリブルでかわして、一旦ポイントガードに戻してスリーポイントラインまで走る。「ヘイ!」ごうがボールを放つ瞬間、おれの世界はごうと、ゴールと、ボールだけで構成される。それは、自分でパーフェクトなトスを上げる以上の快感だ。

「……ゴウが好きか?」

 三、四クオーターの合間に、ジョゼフに聞かれた。いきなりだったし、ジョゼフはなんだかんだ賢い(志望校はハーバードらしい)やつだから、その頭に似合わない質問のチープさにすこし面食らう。問いはチープかつシンプルなだけに、逆に何か含みがあるんじゃないかって。

「そりゃそうでしょ、兄弟なんだし」ジョゼフが買ってきてくれたジュースのカップをありがと、と受け取りストローに口をつけて、なんともないって声で答える。涼しい声を出せたと思うけど、〝あなたたちってやっぱり――〟メアリーの言葉は頭から消えない。おれがおれの友達におかしいって思われるのは別にいいけど、ごうの同級生がごうのことをおかしいって思うのはイヤだった。
「俺には妹がいるけど……」ジョゼフは何かを言いかけて、おれを見下ろしてやめた。「何でもない。応援しよう」そんな不安そうな顔をするなと言うように、パパみたいなでかい掌を頭に置かれたとき、何かから逃げおおせたような息が唇のすきまからもれた。何から、なんてわからないけど。

 試合は、ごうのチームが勝った。これで次は州のベスト4と闘う。その日おれは学校があって観に行けないけど、きっとごうならどんな大舞台でものびのびとプレイできる。勝っても負けても、さらにバスケを好きになって。それでまた、自分の好きな道を駆け上がって行くんだろう。これからどんどんおれが見えない試合も増えるんだろうな――。チームメイトに抱き着かれてもみくちゃにされているごうに「おめでと」と口の動きだけで言って、付き合ってくれたジョゼフに「今日はありがとね、帰ろ」と声をかけた。

 客席の階段を降りロビーを抜けて、もう会場の外に迎えがきてるってジョゼフと入り口のところで別れて、日本人会の集まりが終わったママが迎えに来てくれるのを待つ。ごうはチームのバスで一旦学校に戻るだろうし。寒いし、ロビーで待っててもよかったんだけどごう達に鉢合わせたら何となく気恥しいし。
 空は分厚い雲に覆われていて、今夜あたりもしかしたら雪が降るかもなって考えながらぼんやりと見上げた。おれたちの住んでるとこは日本の静岡あたりと同じような気候で、そんなに雪がガンガン積もるって感じでもないけど、ときどき寒波でどかんと降ることもある。小学生のときは庭に積もった雪でごうとかまくら作ったなぁ。雪が足りなくて狭くてネズミ色っぽいかまくらになっちゃったけど、それでもなんか妙に楽しかった。なかなか出てこないおれたちに業を煮やしたママが、「今日はもうそこでごはん食べたら?」っておにぎりと豚汁作ってくれたっけ――。

 中学に入ったら、お互い、というか特にごうが忙しくて、そういう時間はぐんと減った。きっと高校に入ったらもっと減るんだろう。ごうはもうすでに家からバスで一時間くらいかかる強豪校に進むって決めてるし、おれは――特に何も決めてないけど。高校まで追いかけるってのはちょっとな、なんて考え事をしながら会場の周りをぶらついて、なんとなく駐車場の方に歩いていく。ちょうど入り口の裏あたりで一瞬植木の向こうにごうと同じ髪色を見た気がして、反射的に足を止めて振り返った。

 そこに立っていたのは、やっぱりごうだった。ウインドブレーカーを着て、誰かと話している。学校の知り合いだろうか。ジャージを着てない、普通のコートとジーンズ姿だし、チームメイトとか他のチームのやつじゃないと思う。後ろ姿で顔は見えないけど、ごうより頭一つ分小さい男とごうが、向かい合っている。ごうはやさしい、でもおれから見るとわずかに他人行儀なまなざしで、何かを言っている。ごうの声までは聞こえないけど、相手に何かを言い聞かせてるような、少し戸惑ってるような、そんな感じに見えた。相手がうつむいて、手袋をした手をごうに向かって伸ばす。

(あ……)
 思わず声が出そうになった。そいつが背のびして、ごうの首にしがみ付く。まるでスローモーションみたいに、ごうの顔にそいつの顔が重なるのが見えた。ここからはハッキリ見えないけど、たぶん、キスしてる。ふざけてるとかアクシデントじゃない。くちびるとくちびるが、しっかりと触れ合う、気持ちの入ったキス。男がちいさな頭の角度を何度か変えて、ごうの口をついばむ。濡れたようなリップ音が、ここまで聞こえてくるような気がした。思わず後ずさると、少し遅れて驚いたように目を開いたごうと目が合う。思わず思いっきり後ろを向いて、アスファルトをけった。

(なに、今の……相手、だれだよ、や、だれとかじゃなくて)

 何か言いたげだったジョゼフの顔が浮かぶ。バスからごうと彼女を見たときよりずっと、心臓がうるさい。とにかく会場を離れようってことしか考えられなくて、ひたすら地面をけった。ポケットの携帯が振動してびくりと肩が跳ねる。【そろそろ着くけど、どこにいる?】ママからだった。「どこだよ……ここ……」通りにはほとんど人通りがなくて、ガソリンスタンドやアパートメントやシャッターの下りた個人店っぽいちいさな店がポツポツとあるだけ。あてもなく走り回ったほとんど知らない町で、おれはしゃがみ込んだ。街路樹の傍でかたまっていた数匹のハトが、一斉に飛び立つ。「イオ! どうしたの大丈夫?」ってごうが迎えに来てくれないかな、でも今どんな顔して話せばいいかわかんないな、なんて思いながら、飛び立ったハトたちが見えなくなるのをぼんやりと見上げていた。
 
 そのあと迷いながらもどうにか会場に戻り、ちょうど迎えに来てくれていたママの車で帰ってきた。「どうだった? ごう、かっこよかった?」ママの嬉々とした声にもうまく答えられなくて、あのときの再来だな、って乾いた笑いがもれる。こんな短期間に二回も、ごうが好意を寄せられる瞬間に出くわすなんて。家に上がって、二階の部屋に入って、ベッドの傍で膝を抱える。

『ずっといちばん……大切だよ、イオが』

 それはきっと嘘じゃない。おれだってそうだ。トシゴなのにケンカもしない、まわりが呆れるほど、仲の良い兄弟。シュクフクされた子ども、の弟のおれはだれが見たって完璧に恵まれている。
 なのにどうして、こんなに苦しいんだろう――。
 膝に額を当てておなかの下あたりに力を入れて泣こうとしてみたけど、何かに耐えるような声が歯の間からちいさくもれただけで、涙は出なかった。
  
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