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第四章 やくそく
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潮の匂いを運ぶ風が、セットした髪を浮かす。最初は乱れるたびにいちいち直してたけど、キリがないと気付いてやめた。ノースカロライナにも東部に行けば海はあるけど、子どもの頃家族で行ったくらいで最近は全然海を見てなかった。元々そんなに好きなほうじゃないし。だからこの海が、アメリカのと何か違うのか、同じなのか、おれにはよくわからない。飽きもせずに何度も何度も打ち寄せる波をぼんやりと見ていたら、冷たくて硬いものが耳に触れた。
「はい、こんな山なのに自販機充実してるね、ちょっと迷っちゃった。それでよかった?お茶もあるよ」
「もう帰ってこないかと思った」
「遭難して?」
「ふ、シャレにならないね」
子どものころ迷った、じいちゃんちの裏にある山を越えると、一気に海が開く。もうすぐ高校二年と一年になるおれたちは、暇つぶしに自力でここまで来れるようになっていた。ごうが瓶の蓋を捻って、昔は飲めなかった炭酸飲料をごくごくと飲み干す。おれが浜辺に座ってごうが立ってるってこともあるけど、ずいぶん大きくなったなぁ、としみじみ思う。
ぼんやり感慨にふけっていると、シャツの胸ポケットでスマホが振動した。取り出して、メッセージアプリを開く。【今ごうと海】短いメッセージのあと適当なスタンプを返してしまうと、ごうが隣に座りながら言った。
「……アンちゃん?」
「ブー。レイラ。情報古いよごう」
「イオの更新が早すぎるんだよ」
「ごめんねチャペル・ヒル一のモテ男で」
「ジュース返してもらっていい?」
「残念、もう飲みました~」
十四の誕生日にコクハクしてきた同級生の女の子と初めて付き合った。キスも、デートも、互いの身体に触れ合うことも、青春映画なんかでさぞ素晴らしいモノとして描かれまくってる何を体験してもピンとこなくて、何だこんなもんかと思ってたら、「イオリは冷たい」と言われてすぐフラれた。それを皮切りに、何故か急にモテだした。でも二人目の彼女にも大体同じニュアンスのことを言われて先月別れた。今やりとりしているレイラとも同じ感じで終わるんだろう、と思う。多分。
ごうの恋愛遍歴を詳しくは知らない。ただごうも、日ごろの行動を見る限り恋(と言っていいてのか、未だにおれのはあやしいけど)の終わり方は多分おれと似たような感じなんじゃないかなと思っている。「ゴウはやさしすぎる」捨て台詞は、きっと正反対だと思うけど。ごうは誰にでもやさしいけど、誰にも執着を見せない。一度ふと軽い調子で「今付き合ってる人いるの?」って聞いたら「昨日フラれた」って何でもないみたいに笑ってた。「へぇ。理由は?」「『やさしすぎてつまんない』だそうです」「ずいぶんいい女と付き合ってたんだね」前日はごうが高校に入って試合で最多得点をたたき出した日だった。
ふと隣を見ると、ごうもスマホを取り出して同じメッセージアプリで文字を打っている。
ごうの付き合ってきた相手は、おれの観察できる範囲では多分みんなオンナだと思う。電話の声、服の選択、カバンに入れられた贈り物。同じ屋根の下、壁一枚隔てただけの部屋で、恋愛事情を隠しきるのはむずかしい。今もちょっと目を凝らせば、バッチリメイクを施した自撮りのアイコンが目に入るように。でも、試合に行けばごうのことを熱心に見ているのは女だけじゃないし、たまに男からのファンレターも見るから、アプローチはされてるんだと思う。
あの夜、こぼれてしまった想いと混乱の中でくちびるを重ねたことは、おれたちの間で触れられることはなかった。おれは渾身の努力をして、ごうはたぶん、自然な選択として。
どこまでいったって、おれたちは家族で、兄弟なんだ。ごうのことをこれ以上〝おかしい〟目で見て嫌われたくなくて、もう二度とごうを失うかもしれないなんて怖い思いはしたくなくて、おれはオトナへの階段を駆け足気味に上っている。どうしたって夢中になれない相手に触れるとき、いつも胸のどこかが軋むけど、そんな痛みもあの夜の苦しみに比べればなんてことはなかった。
「暑い? 大丈夫? イオ」
ごうが黙りこんだおれの顔を心配そうに覗き込む。「大丈夫だよ、こんな歩いたの久しぶりだな~」立ち上がって伸びをしたとき、百メートルくらい離れた浜辺にさっきは見なかった集団を見つけた。
「ね、アレ撮影かな?」
「あ、ホントだ。さっきはいなかったよね。テレビかな?」
テレビで見るようなデカいカメラを抱えた男の人、照明の板みたいなのを持った人、撮影される俳優なのかモデルなのか、スラっとした男女に、役割のわからない何人かのスタッフ。住んでる田舎町ではめったにお目にかかれない光景に(まあここも田舎だけど)興味を引かれたおれたちは、特にすることもないのでちょっとだけ近づいてそれを見ていた。どうもミュージックビデオのようなものを撮っているらしい。海辺の男女ってベタすぎる気もするけど、カラオケ用の映像とかかな。
二人で並んでぼんやり見ていると、「ねぇお兄さんたち、ちょっと立ってみてくれない?」デカいグラサンをした黒髪ショートの、ちょっと年齢不詳な感じの女の人が近づいてきた。暑いのにパリッとした黒のジャケットとサルエルパンツ、黒のブーツを履いていて、唇だけが赤い。まったく海が似合ってないな、と思っていたら言われたとおりにごうが立ったので、立つんだ、と思いながらしぶしぶおれも立ち上がった。
「大きいね、百八十…二ってとこ?」
「あ、はいピッタリです」
「そっちの子は百七十五」
「こわ」
「イオ」
「ねぇ、今時間ある?ちょっとスチール撮ってみたいんだけど付き合ってくれる?」
「ないでーす」
「…スチールって?」
「ごぉ」
肘で突いても、ごうは人懐っこい目をやめない。女の人はおかしそうに笑って、「ごめんね、静止画ってこと。あっちは動画撮ってんだけど、静止画用のカメラも持ってきてるから記念にちょっとだけ、悪いようにはしないから! ね、お願い!」
「まぁ別に、時間ならあるし」
「初対面で悪いようにはしない、とか言ってくるオトナ信用しちゃダメだよごう」
「それはそうね、キミは正しい。せめて素性を明かさないと。はいコレどーぞ」
そう言って女の人は、ジャケットの胸ポケットから二枚のカードを出した。真っ白な視覚に、名前と黒猫のマークが印刷されている。
「東京でメンズモデルの事務所をやってます。MARIです。本名は田中真理子、五十歳独身。これでどう?信用に足るオトナになれたかな、ゴウくん、イオくん」
グラサンを外した女の人は、完璧にカールした長い睫毛の下、くっきりとアイラインの引かれた目でおれとごうを交互に見た。
「あ、青田豪、十六です」
「つられなくていーから」
おれの突っ込みに、楽しそうに笑う。完璧にキまったメイクと対極の自然な、くしゃくしゃの笑顔に、断る気力とタイミングを失ったおれは「まぁ……ちょっとだけなら」とその誘いを受けた。
ごうと二人、それと一人ずつ。結局一時間くらい、写真に撮られた。「まずはカメラの前にただ立ってみて。意識しなくていい、って言っても難しいと思うけど。カメラの後ろの、そうね……あの木に止まってる鳥を見て」
言われるがままに何枚か撮られていると、ごうと二人で撮られているときはそんなことなかったのにだんだん自分がいる場所がどこなのか輪郭がぼやけてきた。暑いせいか、いや違う。マリさん(田中さんと呼ぶとイヤな顔をしてマリって呼んで、と言われた。彼女かよ)や、ごうや、カメラマンや他のスタッフや。いくつかの視線が自分に向いているのをはっきりと感じながら、それでいて生まれたてのまだ何もない世界に一人で立っているような、不思議な感覚。ごうの「イオかっこいい……」なんて気恥しいつぶやきも、他のスタッフが機材を運ぶ音や指示する声も、波の音すら、だんだんおれのいる世界とは別のところに飛んで行ったような、圧倒的に一人、なのにぜんぜん寂しくはないような――。
「はい、付き合ってくれてありがと~! 二人ともいいわ、うん、方向性の違いがとってもいい。二人ともモデルにならない?」
いや話が早いな、と思いながら「おれたちアメリカに住んでて。こっちへは夏休みでじいちゃん家に遊びに来てるんですよ」とごうが丁寧に事情を説明するのを聞いていると、「アメリカか~まぁフライトで通えなくはないよね」と無茶苦茶なことを言われて思わず笑ってしまう。
「遠すぎるでしょ」
「そう? 長期休暇のたびにレッスン、とかでも全然いいよ。どっちにしろ今は学業優先の年だし。こっちに帰ってくる予定はないの?」
「あ……おれは大学はこっちにしよっかなって」
「え」
おれの声に、ごうが「あ」みたいな顔をする。何それ、ぜんぜん聞いてないんだけど。
「こっちに来たのは、じいちゃんに会うのとこっちの大学の練習にクラブの招待生として参加するからって言ってなかった?」
だから明日は飛行機で東京に移動して、ごうが練習に参加する三日間、おれは東京観光なんかしつつのんびりホテル滞在を楽しむ予定だ。
「うんそれはそう。今その大学のコーチにちょっと誘われてて。まあまだ卒業も先だし、これからの結果とか出来次第で話なくなるかもだけど。悪くないかなって」
「おれはてっきりごうはノースカロライナ大に行くと思ってたんだけど」
「う~ん、アメリカの大学バスケは今のおれにはちょっとハードル高いと思う」
「そんなこと……っ」
「とりあえず」
揉め始めたおれたちを一声で黙らせて、マリさんはにっこり笑った。見る人間をどっか油断させる、大きな笑顔だ。
「連絡先、聞いちゃっていい?東京に来るならデータじゃなくて紙焼きの写真渡すよ。記念になるでしょ」
その後駅に行くっていうマリさんに「ついでだから」とじいちゃんの家まで車で送ってもらった。後部座席で名刺を見ながら「これってスカウト?」と聞くと楽し気にハンドルを切りながらマリさんは言う。
「そうね。久々で興奮したわ」
「こういうのって普通ハラジュクとかでやるんじゃないの?」
「原宿だろうが高知だろうが、光るモン見つけたら飛びつくのが私たちの仕事でね」
イオ、キラキラしてたもんねぇってうれしそうにごうが笑う。自分だって相当、撤収作業してるスタッフの視線集めてたくせに。
「じゃあまた東京でね」
「行くとは言ってないけどね」
「期待してるよ~」と歌うような声を残し、颯爽と走り去って行く赤いスポーツカーを見送って、じいちゃんの住む日本家屋に戻ってきた。
「なんかつかれた…」
「ん、刺激的だったね」
「こんなとこに刺激なんてあったか?」
畑仕事をしていたのか縁側で長靴を脱いで上がってきた、おかしそうに笑う日に焼けたじいちゃんの目尻のシワを見ていたら、妙に安心して。畳の匂いを吸い込みながら、居間でそのまま眠ってしまった。
どれくらい眠っただろう。豆電球のついた部屋は薄暗くて、隣にはごうはいなくて、じいちゃんが掛けてくれたタオルケットが畳まれていた。
まだぼんやりとした意識の中、二人の声が縁側から聞こえた。声のするほうから、なつかしいような、蚊取り線香の匂いがする。目が慣れてきて、障子の向こうに二人の背中の影が見えた。じいちゃんも年の割に背が高い方だけど、ごうの方が大きくなったんだな、と思いながら障子を開けようとして、手を止める。
「じいちゃん、変な話していい?」
「なんだ改まって。いいよ」
「おれさ…おれ…、」
聞いたことのない、迷いを押し殺すような掠れた声。
この会話を聞いたらダメだ。直感的に思う。ごうが、おれにでもパパママにでもなく、子どもの頃から大好きだったじいちゃんにだけする打ち明け話を、こんなふうに、立ち聞きしちゃいけない。頭の中にアラームが鳴ったみたいに、反射的に耳を塞ぐ。でも、理性以外の部分は、ごうの告白を聞きたがっているみたいに、二人の息遣いや、身じろぎする音や、微かな情報でも全身で拾おうとする。
「おれね、おれ……、もしかしたら、男の人が好き、なのかもしれない……」
ごうの声は微かに震えていた。おれは膝から力が抜けて、ずるずると座り込む。
「女の子と付き合ったりもしてみて、かわいいな、大事にしたいなって思うんだけど。心の底から、その子が想ってくれてるみたいな、おれだけ見て、とか、ほかの人に渡したくない、とかそういう気持ちになれなくて」
「男で、そういう気持ちになる相手はいるのか」
息を止める。永遠かと思うような沈黙のあと、ごうの言葉に今度は全身から力が抜ける。
「………、ううん、まだ」
「じゃあ決めつける必要はない。なるべく先入観は持たずに、心をやわらかくもって、いろんな人に出逢いなさい。その結果、心から愛せる人が見つかったら、相手の性別なんかはどっちでもいい」
「そうなのかな…でも、将来子どもとか、じいちゃんにもひ孫とかさぁ」
「豪」
じいちゃんの、落ち着いた声。それは確かにごうの名前なのに、自分まで呼びかけられているような気分になって、おれはうでを抱える。
「今、大切なモンを、大切にできてたらそれでいい」
「それは豪、お前自身も含めて、じゃけぇ」
元々は東京生まれ東京育ち、あっちでバリバリ働いてたらしいから、たまにしか出ない土佐弁でじいちゃんはやさしく言う。じいちゃんの長いうでの影が、ごうの背中を撫でる。
おれは目を閉じて、じいちゃんの言葉を反すうして。ごうの子どもみたいな泣き声と風鈴の音を聴きながら、昼間にマリさんに言われた言葉を思い出す。
じいちゃんちに送ってもらう途中、トイレに行きたくなって道の駅で停めてもらった。「おれは大丈夫」って言ってたごうは、おれが帰ってきたらすっかり意気投合していたマリさんに手を合わせて「やっぱおれも! マリさんごめんなさい!」ってトイレに走って行く。二人きりって気まずいんだけど……って思いながら後ろに座ると、マリさんは伸びをしながらこう言った。
「ごうくん、あっさりフラれたわ、まぁ何かスポーツやってるんだろうな、とは一目見た時思ったんだけど、未来のNBA選手だったか~」
サイン貰っとかないとね、と笑いながら、バックミラー越しに目が合う。
「イオくんは?バレーやってたんだって?」
「もうやってない」
「うん、そういう手じゃないね」
「でも、モデルはいい」
「なんで?」
「別に……考えたことなかったし」
「今から考えてよ」
「ごうがやらないならいい」
「〝ごう〟がやるバスケはやらなかったのに?」
ミラー越しに睨むと、ふふ、と目を伏せてマリさんが笑う。
「ごめん、煙草吸っていい?」
言う前から火つけてんじゃん。
「本当に仲良いのね、あなたたち」
「……耳タコ」
「だろうね、だって珍しいもん、年が近くて、こんな仲良くて、二人ともキレイで」
「容姿は関係ないでしょ」
「悪い、でも見ちゃうのよねぇ仕事柄……って言い訳か。フツーに二人揃ってキレイな兄弟なんてめったにお目にかかれないからね、しかもこんな田舎で。高知に来てよかった~」
「……」
めんどくさくなって窓の外を見る。ごうまだかな、腹でも壊してんのかな、って男子トイレのほうを見ても、たまに地元の買い物客が通るくらいでごうの姿は見えない。
「いい選手なんだろうね」
少しトーンの変わった声が前から聞こえて、視線を戻す。
「ゴウくんとバスケの話したらね、私も見てみたくなった。てか見えたね、コートを駆ける彼が。誰よりもボールがだいすき! って感じで追いかけてるんだろうなって」
「犬じゃん」
「ふふ、でも彼は化けると思うわ。いずれコートを支配するライオンに。ねぇイオくん」
グラサンをとったマリさんが振り返る。視界の端に、ペットボトルを両手に持ったごうが戻ってくるのが見えた。ごめんお待たせ、マリさんお茶飲みます? そんな声が、聞こえてきそうな人懐っこい笑顔。
「ゴウくんの闘う場所はコートの上よね。じゃああなたは?」
「あなたのコートは、どこ?」
翌朝、軽トラで空港まで送ってくれたじいちゃんに手を振って、東京に移動した。二人で観光がてら飯食いに行って、ごうの練習する大学を見て。ホテルをとった渋谷の書店に寄っておれは明日からのおこもり用のマンガをどっさり、ごうは日本のCDを買い漁ってホテルに帰ってきたら二人ともそれなりに疲れてたみたいでベッドで爆睡して、起きたらどっぷり夜だったけど、でもまだまだ全然明るい街に、「トーキョーってすごいね」「昨日まで見てた景色と違いすぎる」って言い合った。じいちゃんちも安心感あって大好きだけど、ごうと二人で過ごす都会の夜はなんか特別で、ゼータクな感じがする。牧歌的な地元の雰囲気も好きなんだけどさ、やっぱり若者だし、キラキラしたもんにテンション上がるのはまぁ当然っちゃあ当然で。目を輝かせながら四角い窓の外を見ているごうの横顔に、あーこんな時間がずっと続けばいいのにな、って思ってしまった。
「ねぇイオ」
「ん?」
「日本に帰ったら……一緒に住んじゃう?」
「へ?」
「や、イオがアメリカに残りたいなら……っていうか結構先の話、だけ」
「住む」
「え?」
「ごうと住みたい」
それはほんの少し、本音を変えた言葉だった。都会の、いろんな色の宝石をちりばめたみたいな夜景に、二人だけの時間に、ごうのやさしいまなざしに、酔ってしまわないように、ギリギリのところで変えたwant。おれの本音は、きっと誰よりも速く駆けていくごうには重すぎるから。
〝ごうと行きたい〟
〝ごうと、生きたい〟
「……ママ、許してくれるかな」
「ママよりパパじゃない?」
「ああ……」
「パパ、ノースカロライナ大入れたがってるよ絶対」
「マイケルジョーダン好きだからなぁ」
「グッズ一式貢ぐ?」
「バイトしないとね」
くふくふ笑って、子どもっぽい未来予想図を描く。この夜に見たものが、どうか目が覚めても消えませんようにと祈りながら。
「こないだはゴメンね、シラフなのにめんどくさいお説教みたいなことしちゃって」
年だわ~と言いながらすっぴんのマリさんが頭を掻く。マリさんに言われて訪ねた事務所兼スタジオは、ホテルからそう遠くはなかった。
「何で寝起き?ここ家なの?」
「いやいや。月の半分はちゃんと帰ってるよん」
「それ〝ちゃんと〟って言うんだ」
マリさんからマグカップを受け取って、濃いブラックを顔をしかめて飲んだ。おかしそうに笑うマリさんが「はいこれ」と写真を渡してくれて、黙ってそれを見つめる。大体カメラに向かってただつっ立ってる写真だけど、一枚だけ、海を見つめるおれを、目を細めて見ているごうの写真があった。
「ゴウくんはイオくんのこと大好きなんだよね」
「は?いや逆でしょ」
思わず反射で言い返してしまって、だいぶ恥ずかしいこと言ったなと後悔する。
「や、ごうは……おれがどうってか昔からほんっとに誰にでも好かれるし、どこ行ったってモテるし、好きって言うより言われる方が向いてるっていうか……おれなんか、ごうに比べたら全然だし」
これ言い訳になってんのかな、と思いながらごにゃごにゃ言ってると、マリさんが「ちょっと待ってて」と立ち上がり、部屋の奥のクローゼットルームみたいなとこに消えた。人のこと動揺させといて最後まで聞かないって何なの、と思いながら、テーブルに置かれたごうの写真を見る。背が伸びて、ちょっと前までひょろっとしてた身体つきも逞しくなって、ちょっと髪の伸びたごうはまた男らしくなった。女の子がほっておくわけない容姿で、でも性嗜好は同性かもしれなくて。
ずいぶん悩んだだろうな、と思う。そしてその悩みに、『……気持ち悪い』あの日のおれの言葉もきっと加担してる。じいちゃんちの縁側、押し殺したようなごうの泣き声が耳にずっと残っていて、「……ごめんね」もう何度目かになるかわからない無意味な謝罪を、動かないごうに、落とした。
「お待たせ、よし、まずはコレ着て! その次はコレ」
底のほう、どこまでも引き摺られていきそうな罪悪感は、大量に洋服を抱えてきたマリさんに驚いてるうちに引っ込んだ。
「え、……なにそれ」
「せっかくだから撮ってこうよ、上スタジオだから」
「いやそんなつもりで来てないんだけど」
「じゃあ今からそのつもり作ってこ、とりあえず好きなのに着替えて。あっち向いとくから」
「えーー……」
「ホラ早く! ゴウ帰ってきちゃうよ!」
それでしぶしぶ着替えて、どこからか現れたカメラマンのおじさん(私のパートナー、かっこいいでしょ、と髭だらけのその人を指してマリさんは笑った)に写真を撮られた。
寡黙な、痩せたクマみたいなその人は、テレビで見たことある「いいよ!」「セクシーだね!」みたいにはやしたてるうるさいカメラマンのイメージと違って。だけどときどきマリさんだけに何かを囁いて、そのたびにマリさんがおれの髪をいじったり、「ホラ、深呼吸、最後にココ力入れる」と腹を軽く叩いたりする。
(あ、まただ……)
そうして何枚も撮られていくうちに、またあの真っ白な時間が訪れる。世界にたった一人、だけど心地よくて、ぜんぜん孤独じゃない。いろんな感情が混ざって一つになって、す、と空に抜けるような、あのカンカク。
「私、嘘吐けないから言うけど」
撮影が終わったと思ったら、「ちょっとココ歩いてみて」ってスタジオの中を何往復も歩かされて。さすがに疲れて用意された椅子に座り込んだら、横から引っ張ってきた椅子にどっかり座ってマリさんがおれの顔を覗き込んだ。
「庵、あなた絶対モデルになるべきだわ」
そう思うよね、っておれの後ろに声をかける。振り返ったら、スタジオのドアのとこにジャージ姿のごうが立っていた。「はい、そう思います」まるで教科書みたいな返答。だけど熱のこもりすぎた真っ直ぐな目で頷いて、おれを見る。
「めちゃくちゃ、めちゃくちゃかっこよかったよ、イオ」
長期休暇、できればまとまった休みがとれるタイミングでレッスンのために帰国してほしい。レッスン料は無料でいい。飛行機代は出せるかどうか、来年までちょっと待って。秋にいくつかショーの依頼もあるし、頑張ってみるから。
でもまずご両親に話してみてね、必要なら私もお話しさせてもらうから。マリさんにそう言われて、おれたちは帰国した。
「練習どうだった?」
「ばっちり。アメリカは個の力だけど、日本はチーム一丸、って感じ」
「性格的にはそっちのほうが向いてるのかもね」
「ん、おれもそう思う。パス出す楽しさを知ったよね」
そんな会話をしながら家に帰って、その日の夜に日本で起こったことをそれぞれパパとママに報告した。
「やっぱり大学はA大にしようと思う」
晩ごはんの時間、ごうの言葉に一瞬寂し気な顔をしたパパは、うん、うんと何度か頷いて、「豪のやりたい道を進みなさい」と言った。その声は、縁側のじいちゃんの声とそっくりで、ごうが目を丸くするのに共感しながら「バイトしなくて済むね」と小声で囁く。
久しぶりに味わうママの料理(日本食は一杯食べたでしょ、といたずらっぽく笑うママのごはんは、焼いた豚肉を細かく裂いて、それにビネガーや唐辛子のソースをかけて食べる、地元の名物料理だった)、おれたちは食欲を刺激するその味を腹いっぱい味わって、久しぶりの自宅のベッドで時差ボケを解消するべくぐっすりと眠った。
一人日本に帰って、レッスンを受ける。信じられないくらい厳しい講師に人生で経験したことないレベルで怒られて、自分より小柄な練習生がサクサク真っ直ぐに歩いていくのにロクに歩けなくて。何やってんだおれ、こんなことしてどうなるんだって思うたびに、二つの言葉が頭をよぎった。
『あなたのコートはどこ?』
『かっこよかったよ、イオ』
ごうと生きたい。おれだけ見て、なんて言わないから、そういう人がごうの前に現れるまで傍にいたい。でもそのためには、今みたいにごうが全て、じゃきっとダメ。おれはおれのコートを見つけなくちゃ。若くて蒼い、世間知らずな頭で、それでも俺は必死だった。
時間が足りない。アメリカに戻ってもマリさんから送られてきた動画を研究して、撮られたスチールを見て、授業の傍らブランドの歴史や服飾の勉強をして。家から通えるキョリにはレッスンを受けられるようなところはなかったから、日本に帰れる休みが待ち遠しかった。
*
高知に行った日から一年が過ぎて、卒業まであと二年を切ったごうはスポーツ推薦の対策を始めた。といってももうほとんどスカウトをもらってるような感じで、よっぽどのことがない限り卒業後は秋入学で大学に進学する、らしい。もう冬以外のシーズンも他のスポーツはやらずにますますバスケに精を出していて、遠征で数日家を空けることも増えた。
そんな中でもおれが雑誌を見たり動画を見たりしてモデルの勉強をしていると、荷造りの手を止めてまぶしそうな目でしばらく見つめて、日本から持ち帰った写真を「コレ貰っていい?」なんて言って『ごうのたからばこ』にしまう。そんな姿を見て「あなたたちは相変わらずねぇ」ってママも苦笑している。「おれは割とオトナになってるつもりだけど」「置いてかないでイオ~」なんてじゃれ合ってはいるけれど、ごうがおれを置いていくことは明白で、おれはその覚悟をちょっとずつしていった。たった一年。ごうが日本に帰って一年後におれが卒業したら、ごうのいる場所で一緒に暮らす。それが今のおれの希望だ。
「卒業したら、イオ……、庵を日本に連れて帰りたいんだけど」
ごうがそんなことを言ってパパとママを驚かせたのは、おれが十六歳になった夜だった。三月三日。子どもの頃「女かよ」ってさんざんからかわれた誕生日は、五月生まれで二歳差になってしまう時間の方が長いごうに一歩近づける、大切な日だ。
その場にいた全員がごうの意外すぎる言葉に固まった。おれですらそうだ。パパは口が空きすぎて、機嫌よく呑んでいたシャンパンを溢してママにハンドタオルを渡されていた。
「庵は、豪が卒業してもまだ一年学校があるだろ」
「うん……日本の高校に編入できないかな。一応いくつか問い合わせて、帰国子女受け入れOKのとこ見つけたけど」
「豪、豪ちょっと待ってくれ、パパ理解が追っつかない」
「ママもまだ動揺してるわ、順番に話してくれる?」
「イオは早く、日本に帰ってモデルになるべきだと思う。別に年齢が全てじゃないけど、ショーに出るなら早い方がいいって。このペースだとちょっと何年かかるかわかんないけど、ってマリさん……田中さんも言ってて」
マリさんとごうがそんな話をしてたなんて知らなかった。連絡先は交換してたから、別に驚くようなことじゃないんだけど。
「いやそれは高校を卒業してからでも」
「カメラの前に立つイオと、ランウェイ? って言うんだっけ。衣装着て歩くイオ見たことある?パパ。凄いよ、めちゃくちゃかっこよくて、時間が止まったみたいになって」
「たった一年、だぞ」
「おれたちにとっては、一年は長いよ」
「ちょっと待って、庵の気持ちが大事でしょ、豪は庵にその話したの?」
「されてない」
「ほら」
「けど、うれしい」
「へ?」
パパとママの声が重なる。おれは鼻を啜って、隣に座るごうの端正な横顔を見つめる。ケーキにささったロウソクの火が映った、真っ直ぐなまなざしを。
「おれ……行きたいな、ごうと」
「簡単に言ってくれるわねぇ」
ママが、力抜けたみたいに椅子に背を預けて笑う。そのおおらかな笑みに空気がやわらいだけど、パパは真剣な表情を崩さなかった。
「責任はとれるのか」
「あなた……?」
うでに触れるママの手をやさしく外して、パパは真っ直ぐにごうを見た。
「庵はまだ高校生で、日本のことも、社会のことも何も知らない。豪、お前だってそうだ。でも、いざ連れ帰ったらそれを言い訳にすることは許されない。進路だって限定される。なぁ豪、言ってることわかるか?お前は庵の兄じゃない、〝保護者〟になるんだぞ」
いつもお茶らけてる明るいパパが出す硬い声に、おれはたじろいだ。『日本に帰ったら……一緒に住んじゃう?』『住む』あの夜交わした約束が、とたんに実現不可能な絵空事に変わって行くのを感じて、ぎゅ、と膝の上の両手を握る。子どもの頃、アメリカに行くって言われて抵抗したごうの指を握ったことを思いだした。あの頃から、おれたちはどれくらい成長できたんだろう。
「とります」
ごうがきっぱりと言った言葉に、おれは視線を上げた。「庵のこと、絶対に……何があっても守ります」パパの目が揺らぐ。ママが口を押さえて、長い睫毛が震えるのが見えた。
「だから庵を連れて行かせてください。おれ、バスケも勉強も家事も全部頑張るから。バイトもするし」
「おれも……もっと雑誌とか出れるようになって稼ぐから」
パパとママの目が明らかに揺れている。微かに感じる胸の痛みは、圧倒的な幸福と興奮、隣に座るごうの熱に押されるようにしてあっけなく消えた。
その夜、喉が渇いて一階に降りると、ダイニングでパパとママが静かに話す声が聞こえた。
「間違ってるってわかってて、それを回避させないのは親失格かな」
「……あの子たちにだって間違える権利だってあるわ。それに、この選択が間違いだとは限らない」
「……うん」
「ねぇ、豪のワガママ、ひょっとしたら初めて聞いた気がしない?」
「……豪は優しすぎるからな」
「庵もね、豪よりちょっとわかりにくいけど。……本当にとってもいい子たち」
「うん」
「だからきっと大丈夫よ」
水は飲まずに、そっと階段を上がる。布団にもぐって、きっとごうも眠れてないだろうなと思いながら壁を叩くことはせず、一人で目を閉じた。
翌朝、目が覚めて下に降りていくと、ごうとパパはもう出かけていて、ママがリビングで前日の洗濯物を畳んでいた。
「おはよう」
「おはよ、ねぇ庵」
「ん?」
コップに水を入れて、飲む。キレイに片付いたシンク。昨日のパーティーの名残はもうどこにもない、白くて眩しいいつも通りの朝。ソファの前に座ったママは、落ち着いた声で言う。
「一応言っとくけど、ママはついて行かないわよ、パパの傍にいたいし、仕事もあるし」
ママはあんまり自分の話をしないけど、昔ちょっとだけモデルをやってたことがある、というのをじいちゃんから聞いたことがある。おれの進む道にまったく知識がないわけではないだろうけど、モデルの勉強をするおれをいつも眩しそうに見てるだけで何も言わない。こっちでの生活が慣れてきたころ始めた料理家の仕事は、最初は知り合いのホームパーティーのケータリングから始めて、近頃では主婦向けの料理スクールの講師として呼ばれることもある。
思えばおれたちが小さいころから、気付けば鼻歌とともにキッチンに立ってる人だった。最初から、おれたちの選択肢に両親に頼る、というのはなかった。もちろん編入や引っ越しで、どうしたって金銭的な負担をかけてしまうのは申し訳ないけど――。
「うん」
「あっさりねぇ」
苦笑されて「ごめん」と言うと「謝ることじゃないでしょ」と手招きして洗濯物を渡される。
「手伝って。家のこと自分のやり方でやるのが好きでつい長々と教えるのサボっちゃった。これから叩き込むわよ」
悪戯っぽく笑うママは、「料理は庵より豪のほうが仕込み甲斐がありそうね」と歌うように言った。
「料理を教えてください!」
その晩、帰ってくるや否やママに頭を下げたごうに、おれとママは目を合わせて笑った。
料理の指導となると意外と手厳しいママにダメだしされながら一生懸命野菜の皮をむくごうと「ごうおれそのサイズのにんじんはムリ」茶化してママに「庵は黙ってそこ片付ける」と叱られるおれ。パパはいないけど、なんだかんだずっとバスケで忙しいごうを交えた、久しぶりの三人の時間は楽しかった。きっとママもそうだったと思う。ごうにゲキを飛ばしながら、「……もっと早くやればよかったわね」って独り言みたいに呟いて鼻を啜るのを見て、目が合ったごうが手を拭いてママの細い肩を抱く。
ごうが初めて作ったカレーはおれには具が多すぎたけど、ルーもちょっと少ない気がしたけど、ママは「技術的にはまだまだだけど一番大事な真心がこもってる」とOKサインを出しておれもおかわりした。ごうだけは眉をひそめながら「ママ、ホントにこれだけの材料で作ってるの?何がちがうのかなぁ……」ってしきりに首を捻ってたけど。
マリさんにも「私が唆したみたいになってるけど」と苦い顔をされた。いや電話だから顔はわかんないけど。絶対そういう顔してるだろうなって声だった。
「そんなんじゃないよ、おれたちがそうしたいって」
「わかってるよ、親御さんもそう言ってくれた」
「話したの?」
「話すでしょ、そりゃあ。ていうか前から連絡はとってたわよ、一年に数日とはいえ、大事な息子さん海越えて預かってるんだから」
「マリさんってそういうことできるオトナだったんだ」
「ちょっと、何だと思ってたの」
苦笑交じりに言ったあと、咳ばらいをして「とにかく」とマリさんは少し作ったような硬い声を出す。
「そっちにいる間は学業優先、文句言われない成績で帰ってきなさい。それで帰ってきたらめちゃくちゃ扱くから」
「マリさんが言うとマジで怖い」
「庵」
「はい」
「私の船に乗ったからには、トップモデルになってもらうわよ」
「……Yes, Boss」
トップモデル、なんて正直想像もできない。でも、生まれて初めて自分から新しい世界に飛び込むような、胸の高鳴りがあった。きっと思ってるよりずっと険しい道だけど、隣に、ごうがいてくれるなら。
「イオー、ごはんできたよ、あ、ごめん電話中?」
「ふふ、食べといで。好き嫌いせずにバランスよく食べんのよ、じゃあね~」
「今終わった。今日のごはん何?」
「今日は和食、魚料理に挑戦してみました」
「いきなりハードル上げたねぇ」
階段を降りてくと、キッチンから出汁の良い匂いがする。さばのみそ煮かな。目を閉じてそれを吸い込んで、
「……うまそ」思わずつぶやくと、「うまいよ、おいで」とごうがうれしそうに笑っておれの手を引いた。リビングの窓から、少しあたたかさの混じった風が入ってくる。もうすぐ春、庭のハナミズキが咲く季節だ。
「はい、こんな山なのに自販機充実してるね、ちょっと迷っちゃった。それでよかった?お茶もあるよ」
「もう帰ってこないかと思った」
「遭難して?」
「ふ、シャレにならないね」
子どものころ迷った、じいちゃんちの裏にある山を越えると、一気に海が開く。もうすぐ高校二年と一年になるおれたちは、暇つぶしに自力でここまで来れるようになっていた。ごうが瓶の蓋を捻って、昔は飲めなかった炭酸飲料をごくごくと飲み干す。おれが浜辺に座ってごうが立ってるってこともあるけど、ずいぶん大きくなったなぁ、としみじみ思う。
ぼんやり感慨にふけっていると、シャツの胸ポケットでスマホが振動した。取り出して、メッセージアプリを開く。【今ごうと海】短いメッセージのあと適当なスタンプを返してしまうと、ごうが隣に座りながら言った。
「……アンちゃん?」
「ブー。レイラ。情報古いよごう」
「イオの更新が早すぎるんだよ」
「ごめんねチャペル・ヒル一のモテ男で」
「ジュース返してもらっていい?」
「残念、もう飲みました~」
十四の誕生日にコクハクしてきた同級生の女の子と初めて付き合った。キスも、デートも、互いの身体に触れ合うことも、青春映画なんかでさぞ素晴らしいモノとして描かれまくってる何を体験してもピンとこなくて、何だこんなもんかと思ってたら、「イオリは冷たい」と言われてすぐフラれた。それを皮切りに、何故か急にモテだした。でも二人目の彼女にも大体同じニュアンスのことを言われて先月別れた。今やりとりしているレイラとも同じ感じで終わるんだろう、と思う。多分。
ごうの恋愛遍歴を詳しくは知らない。ただごうも、日ごろの行動を見る限り恋(と言っていいてのか、未だにおれのはあやしいけど)の終わり方は多分おれと似たような感じなんじゃないかなと思っている。「ゴウはやさしすぎる」捨て台詞は、きっと正反対だと思うけど。ごうは誰にでもやさしいけど、誰にも執着を見せない。一度ふと軽い調子で「今付き合ってる人いるの?」って聞いたら「昨日フラれた」って何でもないみたいに笑ってた。「へぇ。理由は?」「『やさしすぎてつまんない』だそうです」「ずいぶんいい女と付き合ってたんだね」前日はごうが高校に入って試合で最多得点をたたき出した日だった。
ふと隣を見ると、ごうもスマホを取り出して同じメッセージアプリで文字を打っている。
ごうの付き合ってきた相手は、おれの観察できる範囲では多分みんなオンナだと思う。電話の声、服の選択、カバンに入れられた贈り物。同じ屋根の下、壁一枚隔てただけの部屋で、恋愛事情を隠しきるのはむずかしい。今もちょっと目を凝らせば、バッチリメイクを施した自撮りのアイコンが目に入るように。でも、試合に行けばごうのことを熱心に見ているのは女だけじゃないし、たまに男からのファンレターも見るから、アプローチはされてるんだと思う。
あの夜、こぼれてしまった想いと混乱の中でくちびるを重ねたことは、おれたちの間で触れられることはなかった。おれは渾身の努力をして、ごうはたぶん、自然な選択として。
どこまでいったって、おれたちは家族で、兄弟なんだ。ごうのことをこれ以上〝おかしい〟目で見て嫌われたくなくて、もう二度とごうを失うかもしれないなんて怖い思いはしたくなくて、おれはオトナへの階段を駆け足気味に上っている。どうしたって夢中になれない相手に触れるとき、いつも胸のどこかが軋むけど、そんな痛みもあの夜の苦しみに比べればなんてことはなかった。
「暑い? 大丈夫? イオ」
ごうが黙りこんだおれの顔を心配そうに覗き込む。「大丈夫だよ、こんな歩いたの久しぶりだな~」立ち上がって伸びをしたとき、百メートルくらい離れた浜辺にさっきは見なかった集団を見つけた。
「ね、アレ撮影かな?」
「あ、ホントだ。さっきはいなかったよね。テレビかな?」
テレビで見るようなデカいカメラを抱えた男の人、照明の板みたいなのを持った人、撮影される俳優なのかモデルなのか、スラっとした男女に、役割のわからない何人かのスタッフ。住んでる田舎町ではめったにお目にかかれない光景に(まあここも田舎だけど)興味を引かれたおれたちは、特にすることもないのでちょっとだけ近づいてそれを見ていた。どうもミュージックビデオのようなものを撮っているらしい。海辺の男女ってベタすぎる気もするけど、カラオケ用の映像とかかな。
二人で並んでぼんやり見ていると、「ねぇお兄さんたち、ちょっと立ってみてくれない?」デカいグラサンをした黒髪ショートの、ちょっと年齢不詳な感じの女の人が近づいてきた。暑いのにパリッとした黒のジャケットとサルエルパンツ、黒のブーツを履いていて、唇だけが赤い。まったく海が似合ってないな、と思っていたら言われたとおりにごうが立ったので、立つんだ、と思いながらしぶしぶおれも立ち上がった。
「大きいね、百八十…二ってとこ?」
「あ、はいピッタリです」
「そっちの子は百七十五」
「こわ」
「イオ」
「ねぇ、今時間ある?ちょっとスチール撮ってみたいんだけど付き合ってくれる?」
「ないでーす」
「…スチールって?」
「ごぉ」
肘で突いても、ごうは人懐っこい目をやめない。女の人はおかしそうに笑って、「ごめんね、静止画ってこと。あっちは動画撮ってんだけど、静止画用のカメラも持ってきてるから記念にちょっとだけ、悪いようにはしないから! ね、お願い!」
「まぁ別に、時間ならあるし」
「初対面で悪いようにはしない、とか言ってくるオトナ信用しちゃダメだよごう」
「それはそうね、キミは正しい。せめて素性を明かさないと。はいコレどーぞ」
そう言って女の人は、ジャケットの胸ポケットから二枚のカードを出した。真っ白な視覚に、名前と黒猫のマークが印刷されている。
「東京でメンズモデルの事務所をやってます。MARIです。本名は田中真理子、五十歳独身。これでどう?信用に足るオトナになれたかな、ゴウくん、イオくん」
グラサンを外した女の人は、完璧にカールした長い睫毛の下、くっきりとアイラインの引かれた目でおれとごうを交互に見た。
「あ、青田豪、十六です」
「つられなくていーから」
おれの突っ込みに、楽しそうに笑う。完璧にキまったメイクと対極の自然な、くしゃくしゃの笑顔に、断る気力とタイミングを失ったおれは「まぁ……ちょっとだけなら」とその誘いを受けた。
ごうと二人、それと一人ずつ。結局一時間くらい、写真に撮られた。「まずはカメラの前にただ立ってみて。意識しなくていい、って言っても難しいと思うけど。カメラの後ろの、そうね……あの木に止まってる鳥を見て」
言われるがままに何枚か撮られていると、ごうと二人で撮られているときはそんなことなかったのにだんだん自分がいる場所がどこなのか輪郭がぼやけてきた。暑いせいか、いや違う。マリさん(田中さんと呼ぶとイヤな顔をしてマリって呼んで、と言われた。彼女かよ)や、ごうや、カメラマンや他のスタッフや。いくつかの視線が自分に向いているのをはっきりと感じながら、それでいて生まれたてのまだ何もない世界に一人で立っているような、不思議な感覚。ごうの「イオかっこいい……」なんて気恥しいつぶやきも、他のスタッフが機材を運ぶ音や指示する声も、波の音すら、だんだんおれのいる世界とは別のところに飛んで行ったような、圧倒的に一人、なのにぜんぜん寂しくはないような――。
「はい、付き合ってくれてありがと~! 二人ともいいわ、うん、方向性の違いがとってもいい。二人ともモデルにならない?」
いや話が早いな、と思いながら「おれたちアメリカに住んでて。こっちへは夏休みでじいちゃん家に遊びに来てるんですよ」とごうが丁寧に事情を説明するのを聞いていると、「アメリカか~まぁフライトで通えなくはないよね」と無茶苦茶なことを言われて思わず笑ってしまう。
「遠すぎるでしょ」
「そう? 長期休暇のたびにレッスン、とかでも全然いいよ。どっちにしろ今は学業優先の年だし。こっちに帰ってくる予定はないの?」
「あ……おれは大学はこっちにしよっかなって」
「え」
おれの声に、ごうが「あ」みたいな顔をする。何それ、ぜんぜん聞いてないんだけど。
「こっちに来たのは、じいちゃんに会うのとこっちの大学の練習にクラブの招待生として参加するからって言ってなかった?」
だから明日は飛行機で東京に移動して、ごうが練習に参加する三日間、おれは東京観光なんかしつつのんびりホテル滞在を楽しむ予定だ。
「うんそれはそう。今その大学のコーチにちょっと誘われてて。まあまだ卒業も先だし、これからの結果とか出来次第で話なくなるかもだけど。悪くないかなって」
「おれはてっきりごうはノースカロライナ大に行くと思ってたんだけど」
「う~ん、アメリカの大学バスケは今のおれにはちょっとハードル高いと思う」
「そんなこと……っ」
「とりあえず」
揉め始めたおれたちを一声で黙らせて、マリさんはにっこり笑った。見る人間をどっか油断させる、大きな笑顔だ。
「連絡先、聞いちゃっていい?東京に来るならデータじゃなくて紙焼きの写真渡すよ。記念になるでしょ」
その後駅に行くっていうマリさんに「ついでだから」とじいちゃんの家まで車で送ってもらった。後部座席で名刺を見ながら「これってスカウト?」と聞くと楽し気にハンドルを切りながらマリさんは言う。
「そうね。久々で興奮したわ」
「こういうのって普通ハラジュクとかでやるんじゃないの?」
「原宿だろうが高知だろうが、光るモン見つけたら飛びつくのが私たちの仕事でね」
イオ、キラキラしてたもんねぇってうれしそうにごうが笑う。自分だって相当、撤収作業してるスタッフの視線集めてたくせに。
「じゃあまた東京でね」
「行くとは言ってないけどね」
「期待してるよ~」と歌うような声を残し、颯爽と走り去って行く赤いスポーツカーを見送って、じいちゃんの住む日本家屋に戻ってきた。
「なんかつかれた…」
「ん、刺激的だったね」
「こんなとこに刺激なんてあったか?」
畑仕事をしていたのか縁側で長靴を脱いで上がってきた、おかしそうに笑う日に焼けたじいちゃんの目尻のシワを見ていたら、妙に安心して。畳の匂いを吸い込みながら、居間でそのまま眠ってしまった。
どれくらい眠っただろう。豆電球のついた部屋は薄暗くて、隣にはごうはいなくて、じいちゃんが掛けてくれたタオルケットが畳まれていた。
まだぼんやりとした意識の中、二人の声が縁側から聞こえた。声のするほうから、なつかしいような、蚊取り線香の匂いがする。目が慣れてきて、障子の向こうに二人の背中の影が見えた。じいちゃんも年の割に背が高い方だけど、ごうの方が大きくなったんだな、と思いながら障子を開けようとして、手を止める。
「じいちゃん、変な話していい?」
「なんだ改まって。いいよ」
「おれさ…おれ…、」
聞いたことのない、迷いを押し殺すような掠れた声。
この会話を聞いたらダメだ。直感的に思う。ごうが、おれにでもパパママにでもなく、子どもの頃から大好きだったじいちゃんにだけする打ち明け話を、こんなふうに、立ち聞きしちゃいけない。頭の中にアラームが鳴ったみたいに、反射的に耳を塞ぐ。でも、理性以外の部分は、ごうの告白を聞きたがっているみたいに、二人の息遣いや、身じろぎする音や、微かな情報でも全身で拾おうとする。
「おれね、おれ……、もしかしたら、男の人が好き、なのかもしれない……」
ごうの声は微かに震えていた。おれは膝から力が抜けて、ずるずると座り込む。
「女の子と付き合ったりもしてみて、かわいいな、大事にしたいなって思うんだけど。心の底から、その子が想ってくれてるみたいな、おれだけ見て、とか、ほかの人に渡したくない、とかそういう気持ちになれなくて」
「男で、そういう気持ちになる相手はいるのか」
息を止める。永遠かと思うような沈黙のあと、ごうの言葉に今度は全身から力が抜ける。
「………、ううん、まだ」
「じゃあ決めつける必要はない。なるべく先入観は持たずに、心をやわらかくもって、いろんな人に出逢いなさい。その結果、心から愛せる人が見つかったら、相手の性別なんかはどっちでもいい」
「そうなのかな…でも、将来子どもとか、じいちゃんにもひ孫とかさぁ」
「豪」
じいちゃんの、落ち着いた声。それは確かにごうの名前なのに、自分まで呼びかけられているような気分になって、おれはうでを抱える。
「今、大切なモンを、大切にできてたらそれでいい」
「それは豪、お前自身も含めて、じゃけぇ」
元々は東京生まれ東京育ち、あっちでバリバリ働いてたらしいから、たまにしか出ない土佐弁でじいちゃんはやさしく言う。じいちゃんの長いうでの影が、ごうの背中を撫でる。
おれは目を閉じて、じいちゃんの言葉を反すうして。ごうの子どもみたいな泣き声と風鈴の音を聴きながら、昼間にマリさんに言われた言葉を思い出す。
じいちゃんちに送ってもらう途中、トイレに行きたくなって道の駅で停めてもらった。「おれは大丈夫」って言ってたごうは、おれが帰ってきたらすっかり意気投合していたマリさんに手を合わせて「やっぱおれも! マリさんごめんなさい!」ってトイレに走って行く。二人きりって気まずいんだけど……って思いながら後ろに座ると、マリさんは伸びをしながらこう言った。
「ごうくん、あっさりフラれたわ、まぁ何かスポーツやってるんだろうな、とは一目見た時思ったんだけど、未来のNBA選手だったか~」
サイン貰っとかないとね、と笑いながら、バックミラー越しに目が合う。
「イオくんは?バレーやってたんだって?」
「もうやってない」
「うん、そういう手じゃないね」
「でも、モデルはいい」
「なんで?」
「別に……考えたことなかったし」
「今から考えてよ」
「ごうがやらないならいい」
「〝ごう〟がやるバスケはやらなかったのに?」
ミラー越しに睨むと、ふふ、と目を伏せてマリさんが笑う。
「ごめん、煙草吸っていい?」
言う前から火つけてんじゃん。
「本当に仲良いのね、あなたたち」
「……耳タコ」
「だろうね、だって珍しいもん、年が近くて、こんな仲良くて、二人ともキレイで」
「容姿は関係ないでしょ」
「悪い、でも見ちゃうのよねぇ仕事柄……って言い訳か。フツーに二人揃ってキレイな兄弟なんてめったにお目にかかれないからね、しかもこんな田舎で。高知に来てよかった~」
「……」
めんどくさくなって窓の外を見る。ごうまだかな、腹でも壊してんのかな、って男子トイレのほうを見ても、たまに地元の買い物客が通るくらいでごうの姿は見えない。
「いい選手なんだろうね」
少しトーンの変わった声が前から聞こえて、視線を戻す。
「ゴウくんとバスケの話したらね、私も見てみたくなった。てか見えたね、コートを駆ける彼が。誰よりもボールがだいすき! って感じで追いかけてるんだろうなって」
「犬じゃん」
「ふふ、でも彼は化けると思うわ。いずれコートを支配するライオンに。ねぇイオくん」
グラサンをとったマリさんが振り返る。視界の端に、ペットボトルを両手に持ったごうが戻ってくるのが見えた。ごめんお待たせ、マリさんお茶飲みます? そんな声が、聞こえてきそうな人懐っこい笑顔。
「ゴウくんの闘う場所はコートの上よね。じゃああなたは?」
「あなたのコートは、どこ?」
翌朝、軽トラで空港まで送ってくれたじいちゃんに手を振って、東京に移動した。二人で観光がてら飯食いに行って、ごうの練習する大学を見て。ホテルをとった渋谷の書店に寄っておれは明日からのおこもり用のマンガをどっさり、ごうは日本のCDを買い漁ってホテルに帰ってきたら二人ともそれなりに疲れてたみたいでベッドで爆睡して、起きたらどっぷり夜だったけど、でもまだまだ全然明るい街に、「トーキョーってすごいね」「昨日まで見てた景色と違いすぎる」って言い合った。じいちゃんちも安心感あって大好きだけど、ごうと二人で過ごす都会の夜はなんか特別で、ゼータクな感じがする。牧歌的な地元の雰囲気も好きなんだけどさ、やっぱり若者だし、キラキラしたもんにテンション上がるのはまぁ当然っちゃあ当然で。目を輝かせながら四角い窓の外を見ているごうの横顔に、あーこんな時間がずっと続けばいいのにな、って思ってしまった。
「ねぇイオ」
「ん?」
「日本に帰ったら……一緒に住んじゃう?」
「へ?」
「や、イオがアメリカに残りたいなら……っていうか結構先の話、だけ」
「住む」
「え?」
「ごうと住みたい」
それはほんの少し、本音を変えた言葉だった。都会の、いろんな色の宝石をちりばめたみたいな夜景に、二人だけの時間に、ごうのやさしいまなざしに、酔ってしまわないように、ギリギリのところで変えたwant。おれの本音は、きっと誰よりも速く駆けていくごうには重すぎるから。
〝ごうと行きたい〟
〝ごうと、生きたい〟
「……ママ、許してくれるかな」
「ママよりパパじゃない?」
「ああ……」
「パパ、ノースカロライナ大入れたがってるよ絶対」
「マイケルジョーダン好きだからなぁ」
「グッズ一式貢ぐ?」
「バイトしないとね」
くふくふ笑って、子どもっぽい未来予想図を描く。この夜に見たものが、どうか目が覚めても消えませんようにと祈りながら。
「こないだはゴメンね、シラフなのにめんどくさいお説教みたいなことしちゃって」
年だわ~と言いながらすっぴんのマリさんが頭を掻く。マリさんに言われて訪ねた事務所兼スタジオは、ホテルからそう遠くはなかった。
「何で寝起き?ここ家なの?」
「いやいや。月の半分はちゃんと帰ってるよん」
「それ〝ちゃんと〟って言うんだ」
マリさんからマグカップを受け取って、濃いブラックを顔をしかめて飲んだ。おかしそうに笑うマリさんが「はいこれ」と写真を渡してくれて、黙ってそれを見つめる。大体カメラに向かってただつっ立ってる写真だけど、一枚だけ、海を見つめるおれを、目を細めて見ているごうの写真があった。
「ゴウくんはイオくんのこと大好きなんだよね」
「は?いや逆でしょ」
思わず反射で言い返してしまって、だいぶ恥ずかしいこと言ったなと後悔する。
「や、ごうは……おれがどうってか昔からほんっとに誰にでも好かれるし、どこ行ったってモテるし、好きって言うより言われる方が向いてるっていうか……おれなんか、ごうに比べたら全然だし」
これ言い訳になってんのかな、と思いながらごにゃごにゃ言ってると、マリさんが「ちょっと待ってて」と立ち上がり、部屋の奥のクローゼットルームみたいなとこに消えた。人のこと動揺させといて最後まで聞かないって何なの、と思いながら、テーブルに置かれたごうの写真を見る。背が伸びて、ちょっと前までひょろっとしてた身体つきも逞しくなって、ちょっと髪の伸びたごうはまた男らしくなった。女の子がほっておくわけない容姿で、でも性嗜好は同性かもしれなくて。
ずいぶん悩んだだろうな、と思う。そしてその悩みに、『……気持ち悪い』あの日のおれの言葉もきっと加担してる。じいちゃんちの縁側、押し殺したようなごうの泣き声が耳にずっと残っていて、「……ごめんね」もう何度目かになるかわからない無意味な謝罪を、動かないごうに、落とした。
「お待たせ、よし、まずはコレ着て! その次はコレ」
底のほう、どこまでも引き摺られていきそうな罪悪感は、大量に洋服を抱えてきたマリさんに驚いてるうちに引っ込んだ。
「え、……なにそれ」
「せっかくだから撮ってこうよ、上スタジオだから」
「いやそんなつもりで来てないんだけど」
「じゃあ今からそのつもり作ってこ、とりあえず好きなのに着替えて。あっち向いとくから」
「えーー……」
「ホラ早く! ゴウ帰ってきちゃうよ!」
それでしぶしぶ着替えて、どこからか現れたカメラマンのおじさん(私のパートナー、かっこいいでしょ、と髭だらけのその人を指してマリさんは笑った)に写真を撮られた。
寡黙な、痩せたクマみたいなその人は、テレビで見たことある「いいよ!」「セクシーだね!」みたいにはやしたてるうるさいカメラマンのイメージと違って。だけどときどきマリさんだけに何かを囁いて、そのたびにマリさんがおれの髪をいじったり、「ホラ、深呼吸、最後にココ力入れる」と腹を軽く叩いたりする。
(あ、まただ……)
そうして何枚も撮られていくうちに、またあの真っ白な時間が訪れる。世界にたった一人、だけど心地よくて、ぜんぜん孤独じゃない。いろんな感情が混ざって一つになって、す、と空に抜けるような、あのカンカク。
「私、嘘吐けないから言うけど」
撮影が終わったと思ったら、「ちょっとココ歩いてみて」ってスタジオの中を何往復も歩かされて。さすがに疲れて用意された椅子に座り込んだら、横から引っ張ってきた椅子にどっかり座ってマリさんがおれの顔を覗き込んだ。
「庵、あなた絶対モデルになるべきだわ」
そう思うよね、っておれの後ろに声をかける。振り返ったら、スタジオのドアのとこにジャージ姿のごうが立っていた。「はい、そう思います」まるで教科書みたいな返答。だけど熱のこもりすぎた真っ直ぐな目で頷いて、おれを見る。
「めちゃくちゃ、めちゃくちゃかっこよかったよ、イオ」
長期休暇、できればまとまった休みがとれるタイミングでレッスンのために帰国してほしい。レッスン料は無料でいい。飛行機代は出せるかどうか、来年までちょっと待って。秋にいくつかショーの依頼もあるし、頑張ってみるから。
でもまずご両親に話してみてね、必要なら私もお話しさせてもらうから。マリさんにそう言われて、おれたちは帰国した。
「練習どうだった?」
「ばっちり。アメリカは個の力だけど、日本はチーム一丸、って感じ」
「性格的にはそっちのほうが向いてるのかもね」
「ん、おれもそう思う。パス出す楽しさを知ったよね」
そんな会話をしながら家に帰って、その日の夜に日本で起こったことをそれぞれパパとママに報告した。
「やっぱり大学はA大にしようと思う」
晩ごはんの時間、ごうの言葉に一瞬寂し気な顔をしたパパは、うん、うんと何度か頷いて、「豪のやりたい道を進みなさい」と言った。その声は、縁側のじいちゃんの声とそっくりで、ごうが目を丸くするのに共感しながら「バイトしなくて済むね」と小声で囁く。
久しぶりに味わうママの料理(日本食は一杯食べたでしょ、といたずらっぽく笑うママのごはんは、焼いた豚肉を細かく裂いて、それにビネガーや唐辛子のソースをかけて食べる、地元の名物料理だった)、おれたちは食欲を刺激するその味を腹いっぱい味わって、久しぶりの自宅のベッドで時差ボケを解消するべくぐっすりと眠った。
一人日本に帰って、レッスンを受ける。信じられないくらい厳しい講師に人生で経験したことないレベルで怒られて、自分より小柄な練習生がサクサク真っ直ぐに歩いていくのにロクに歩けなくて。何やってんだおれ、こんなことしてどうなるんだって思うたびに、二つの言葉が頭をよぎった。
『あなたのコートはどこ?』
『かっこよかったよ、イオ』
ごうと生きたい。おれだけ見て、なんて言わないから、そういう人がごうの前に現れるまで傍にいたい。でもそのためには、今みたいにごうが全て、じゃきっとダメ。おれはおれのコートを見つけなくちゃ。若くて蒼い、世間知らずな頭で、それでも俺は必死だった。
時間が足りない。アメリカに戻ってもマリさんから送られてきた動画を研究して、撮られたスチールを見て、授業の傍らブランドの歴史や服飾の勉強をして。家から通えるキョリにはレッスンを受けられるようなところはなかったから、日本に帰れる休みが待ち遠しかった。
*
高知に行った日から一年が過ぎて、卒業まであと二年を切ったごうはスポーツ推薦の対策を始めた。といってももうほとんどスカウトをもらってるような感じで、よっぽどのことがない限り卒業後は秋入学で大学に進学する、らしい。もう冬以外のシーズンも他のスポーツはやらずにますますバスケに精を出していて、遠征で数日家を空けることも増えた。
そんな中でもおれが雑誌を見たり動画を見たりしてモデルの勉強をしていると、荷造りの手を止めてまぶしそうな目でしばらく見つめて、日本から持ち帰った写真を「コレ貰っていい?」なんて言って『ごうのたからばこ』にしまう。そんな姿を見て「あなたたちは相変わらずねぇ」ってママも苦笑している。「おれは割とオトナになってるつもりだけど」「置いてかないでイオ~」なんてじゃれ合ってはいるけれど、ごうがおれを置いていくことは明白で、おれはその覚悟をちょっとずつしていった。たった一年。ごうが日本に帰って一年後におれが卒業したら、ごうのいる場所で一緒に暮らす。それが今のおれの希望だ。
「卒業したら、イオ……、庵を日本に連れて帰りたいんだけど」
ごうがそんなことを言ってパパとママを驚かせたのは、おれが十六歳になった夜だった。三月三日。子どもの頃「女かよ」ってさんざんからかわれた誕生日は、五月生まれで二歳差になってしまう時間の方が長いごうに一歩近づける、大切な日だ。
その場にいた全員がごうの意外すぎる言葉に固まった。おれですらそうだ。パパは口が空きすぎて、機嫌よく呑んでいたシャンパンを溢してママにハンドタオルを渡されていた。
「庵は、豪が卒業してもまだ一年学校があるだろ」
「うん……日本の高校に編入できないかな。一応いくつか問い合わせて、帰国子女受け入れOKのとこ見つけたけど」
「豪、豪ちょっと待ってくれ、パパ理解が追っつかない」
「ママもまだ動揺してるわ、順番に話してくれる?」
「イオは早く、日本に帰ってモデルになるべきだと思う。別に年齢が全てじゃないけど、ショーに出るなら早い方がいいって。このペースだとちょっと何年かかるかわかんないけど、ってマリさん……田中さんも言ってて」
マリさんとごうがそんな話をしてたなんて知らなかった。連絡先は交換してたから、別に驚くようなことじゃないんだけど。
「いやそれは高校を卒業してからでも」
「カメラの前に立つイオと、ランウェイ? って言うんだっけ。衣装着て歩くイオ見たことある?パパ。凄いよ、めちゃくちゃかっこよくて、時間が止まったみたいになって」
「たった一年、だぞ」
「おれたちにとっては、一年は長いよ」
「ちょっと待って、庵の気持ちが大事でしょ、豪は庵にその話したの?」
「されてない」
「ほら」
「けど、うれしい」
「へ?」
パパとママの声が重なる。おれは鼻を啜って、隣に座るごうの端正な横顔を見つめる。ケーキにささったロウソクの火が映った、真っ直ぐなまなざしを。
「おれ……行きたいな、ごうと」
「簡単に言ってくれるわねぇ」
ママが、力抜けたみたいに椅子に背を預けて笑う。そのおおらかな笑みに空気がやわらいだけど、パパは真剣な表情を崩さなかった。
「責任はとれるのか」
「あなた……?」
うでに触れるママの手をやさしく外して、パパは真っ直ぐにごうを見た。
「庵はまだ高校生で、日本のことも、社会のことも何も知らない。豪、お前だってそうだ。でも、いざ連れ帰ったらそれを言い訳にすることは許されない。進路だって限定される。なぁ豪、言ってることわかるか?お前は庵の兄じゃない、〝保護者〟になるんだぞ」
いつもお茶らけてる明るいパパが出す硬い声に、おれはたじろいだ。『日本に帰ったら……一緒に住んじゃう?』『住む』あの夜交わした約束が、とたんに実現不可能な絵空事に変わって行くのを感じて、ぎゅ、と膝の上の両手を握る。子どもの頃、アメリカに行くって言われて抵抗したごうの指を握ったことを思いだした。あの頃から、おれたちはどれくらい成長できたんだろう。
「とります」
ごうがきっぱりと言った言葉に、おれは視線を上げた。「庵のこと、絶対に……何があっても守ります」パパの目が揺らぐ。ママが口を押さえて、長い睫毛が震えるのが見えた。
「だから庵を連れて行かせてください。おれ、バスケも勉強も家事も全部頑張るから。バイトもするし」
「おれも……もっと雑誌とか出れるようになって稼ぐから」
パパとママの目が明らかに揺れている。微かに感じる胸の痛みは、圧倒的な幸福と興奮、隣に座るごうの熱に押されるようにしてあっけなく消えた。
その夜、喉が渇いて一階に降りると、ダイニングでパパとママが静かに話す声が聞こえた。
「間違ってるってわかってて、それを回避させないのは親失格かな」
「……あの子たちにだって間違える権利だってあるわ。それに、この選択が間違いだとは限らない」
「……うん」
「ねぇ、豪のワガママ、ひょっとしたら初めて聞いた気がしない?」
「……豪は優しすぎるからな」
「庵もね、豪よりちょっとわかりにくいけど。……本当にとってもいい子たち」
「うん」
「だからきっと大丈夫よ」
水は飲まずに、そっと階段を上がる。布団にもぐって、きっとごうも眠れてないだろうなと思いながら壁を叩くことはせず、一人で目を閉じた。
翌朝、目が覚めて下に降りていくと、ごうとパパはもう出かけていて、ママがリビングで前日の洗濯物を畳んでいた。
「おはよう」
「おはよ、ねぇ庵」
「ん?」
コップに水を入れて、飲む。キレイに片付いたシンク。昨日のパーティーの名残はもうどこにもない、白くて眩しいいつも通りの朝。ソファの前に座ったママは、落ち着いた声で言う。
「一応言っとくけど、ママはついて行かないわよ、パパの傍にいたいし、仕事もあるし」
ママはあんまり自分の話をしないけど、昔ちょっとだけモデルをやってたことがある、というのをじいちゃんから聞いたことがある。おれの進む道にまったく知識がないわけではないだろうけど、モデルの勉強をするおれをいつも眩しそうに見てるだけで何も言わない。こっちでの生活が慣れてきたころ始めた料理家の仕事は、最初は知り合いのホームパーティーのケータリングから始めて、近頃では主婦向けの料理スクールの講師として呼ばれることもある。
思えばおれたちが小さいころから、気付けば鼻歌とともにキッチンに立ってる人だった。最初から、おれたちの選択肢に両親に頼る、というのはなかった。もちろん編入や引っ越しで、どうしたって金銭的な負担をかけてしまうのは申し訳ないけど――。
「うん」
「あっさりねぇ」
苦笑されて「ごめん」と言うと「謝ることじゃないでしょ」と手招きして洗濯物を渡される。
「手伝って。家のこと自分のやり方でやるのが好きでつい長々と教えるのサボっちゃった。これから叩き込むわよ」
悪戯っぽく笑うママは、「料理は庵より豪のほうが仕込み甲斐がありそうね」と歌うように言った。
「料理を教えてください!」
その晩、帰ってくるや否やママに頭を下げたごうに、おれとママは目を合わせて笑った。
料理の指導となると意外と手厳しいママにダメだしされながら一生懸命野菜の皮をむくごうと「ごうおれそのサイズのにんじんはムリ」茶化してママに「庵は黙ってそこ片付ける」と叱られるおれ。パパはいないけど、なんだかんだずっとバスケで忙しいごうを交えた、久しぶりの三人の時間は楽しかった。きっとママもそうだったと思う。ごうにゲキを飛ばしながら、「……もっと早くやればよかったわね」って独り言みたいに呟いて鼻を啜るのを見て、目が合ったごうが手を拭いてママの細い肩を抱く。
ごうが初めて作ったカレーはおれには具が多すぎたけど、ルーもちょっと少ない気がしたけど、ママは「技術的にはまだまだだけど一番大事な真心がこもってる」とOKサインを出しておれもおかわりした。ごうだけは眉をひそめながら「ママ、ホントにこれだけの材料で作ってるの?何がちがうのかなぁ……」ってしきりに首を捻ってたけど。
マリさんにも「私が唆したみたいになってるけど」と苦い顔をされた。いや電話だから顔はわかんないけど。絶対そういう顔してるだろうなって声だった。
「そんなんじゃないよ、おれたちがそうしたいって」
「わかってるよ、親御さんもそう言ってくれた」
「話したの?」
「話すでしょ、そりゃあ。ていうか前から連絡はとってたわよ、一年に数日とはいえ、大事な息子さん海越えて預かってるんだから」
「マリさんってそういうことできるオトナだったんだ」
「ちょっと、何だと思ってたの」
苦笑交じりに言ったあと、咳ばらいをして「とにかく」とマリさんは少し作ったような硬い声を出す。
「そっちにいる間は学業優先、文句言われない成績で帰ってきなさい。それで帰ってきたらめちゃくちゃ扱くから」
「マリさんが言うとマジで怖い」
「庵」
「はい」
「私の船に乗ったからには、トップモデルになってもらうわよ」
「……Yes, Boss」
トップモデル、なんて正直想像もできない。でも、生まれて初めて自分から新しい世界に飛び込むような、胸の高鳴りがあった。きっと思ってるよりずっと険しい道だけど、隣に、ごうがいてくれるなら。
「イオー、ごはんできたよ、あ、ごめん電話中?」
「ふふ、食べといで。好き嫌いせずにバランスよく食べんのよ、じゃあね~」
「今終わった。今日のごはん何?」
「今日は和食、魚料理に挑戦してみました」
「いきなりハードル上げたねぇ」
階段を降りてくと、キッチンから出汁の良い匂いがする。さばのみそ煮かな。目を閉じてそれを吸い込んで、
「……うまそ」思わずつぶやくと、「うまいよ、おいで」とごうがうれしそうに笑っておれの手を引いた。リビングの窓から、少しあたたかさの混じった風が入ってくる。もうすぐ春、庭のハナミズキが咲く季節だ。
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