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ショーンは、スコットと羽柴が笑顔で最後の抱擁をしているのを少し離れた場所でじっと見つめた。
その様子が、まるで夢の中の光景のように見えた。やけに遠く感じる。
それはきっと『別れたくない』という自分の気持ちを認めたくないんだということの表れなんだと思ったが、ショーンはその思いからすぐに焦点を外した。そんなことを僅かでも考えることが嫌だった。
その感覚は恐怖にも似ている。
そんなことを考えていると、恥も外聞もなく暴れ出してしまいそうだから。
けれどここで今までの自分の努力や羽柴の好意を無にする訳にはいかない・・・。
「 ── 本当に楽しかったです。ありがとう」
「こちらこそ」
スコットと羽柴が笑顔で再度握手を交わし、互いの肩を叩き合う。
その仕草はまるでアメフトチームの同窓生が交わす、如何にも男らしい挨拶だった。
たった一日の間だけだったが、それでも羽柴とスコットは随分親しい間柄になれたらしい。
元々二人とも同じスポーツをしていたし、体育会系の性分をしているせいかもしれない。
クリスはこの日、どうしても劇場の後始末を確認しなければならず、先に羽柴との別れは済ませていた。家を出際、「昨夜はうまくいったかい?」とクリスから確認されたが、それに答える余裕はショーンになかった。
事実、『うまく』は行かなかったし。
それに、『コウとは、これが最後だ』という事実を受け入れるのに必死だったからだ。
── 結局。
新年というにはあまりにも穏やかだった日の夕刻、天気予報で雪のマークが出ていたので、本格的に雪が降り出す前にと羽柴はクーパー家を後にすることになった。
ショーンやスコットも、そしてあのクリスでさえも、羽柴にもっと長居していくように勧めたが、彼は彼で予定が入っているとのことで、一泊のみの滞在となった。
昨夜。
狭いベッドで久しぶりに羽柴と寄り添って眠った。
クリスには「せいぜいアピールしろ」だなんて冷やかしを言われたが、いざ横になってみると、余程ショーンは疲れていたのだろうか。まるで泥のように身体が溶けていくように、ずるずると眠りに引き釣り込まれていった。
身近に感じる羽柴の体温と懐かしい香りがするベッドの心地に絆されて、まるで母親の胎内に還ったかのような究極の安らぎを感じることができた。
これが最後なんだからコウの身体の感覚をしっかり記憶に残さなきゃ、と頭の中では抵抗をしてみたが、睡眠という本能からは逃れられず、夢を見ることもないほど熟睡してしまった。だから当然羽柴の寝顔なんて見られなかったし、羽柴が最後に自分をどんな風に包み込んでくれたかも分からない。
朝起きてその現実に気づき、あまりのショックにただただ呆然としてしまったが、幸いベッドにはショーンしかおらず、そのマヌケ顔を羽柴に見られることはなかった。
壁掛け時計に視線をやると、自分が起きた時間が正確にはもう昼に近づいていることに気づき、ショーンは更にショックを受けた。
そのショーンの耳に、階下で盛り上がっているスコットと羽柴の声が聞こえてきた。どうやら、テレビで元旦のアメフト恒例行事ローズ・ボウルの観戦をしているらしい。
「・・・まったく、何してんだろ、俺・・・」
羽柴と過ごせる時間はあと少ししかないっていうのに、随分無駄に時間を捨ててしまった。
ショーンはそう思って自己嫌悪に陥り、グシャグシャの髪のまま一階に下りた。そして羽柴の朗らかな笑顔を見た瞬間に、さっきまでの陰鬱な気分があっという間に快晴になる自分の現金さに更に自己嫌悪に陥った。
── 魔法の時間はもう終わりだって、あれほど自分で決めたくせに。
けれどそんなことをこの時点で誰に言う訳にもいかず、結局今日、こうして別れる時間が訪れるまで、なんだかショーンはギクシャクしたまま時間を過ごしてしまった。かえってスコットの方が羽柴と話す時間が多かったほどだ。
ショーンは苦々しく思う。
── ハッピーなニューイヤーの始まりなのに、こんなの、ロクデモナイ。
この期に及んで、まるで他人行儀になってしまうだなんて本当にひねくれた子どものすることだし、こんなの全然可愛らしくない、と。けれど、そんな自分を止めることもできずに・・・。
「ショーン」
最後に羽柴に声をかけられて、ショーンは咄嗟に笑顔を浮かべた。
きっと酷く硬い笑顔だったろうと思う。
それでも、羽柴は変わらずショーンを抱きしめてくれた。
本当に大きくて、優しくて、温かい腕。
ショーンにできることといえば、泣かずに明るく応えることだった。
それが精一杯だった。
ショーンもスコットがしたように、少し乱暴に羽柴の背中を叩いた。すると羽柴も、同じようにしてくれた。そのお陰で、何とか友人としての別れができるような勇気が持てた。
「バイ、コウ」
「ああ。風邪なんかひくなよ」
「うん」
「十分お父さんに甘やかせてもらって、すっかり元気になったら、また皆の前でギターを弾いてくれ。プレッシャーを与えるつもりはないけど、それが君の天職だと思うから。きっと君の音楽を必要としている人が世界中にたくさんいる。俺もその一人だよ」
「ホントに?」
「お世辞は、言わない主義。信用してもらえるかは別として」
羽柴はそう言うと、コミカルな笑みを浮かべた。ショーンもつられて笑う。
「じゃ、元気で」
羽柴がクーパー家のポーチを降りて車の側まで行く姿を、ショーンは見つめ続けた。
彼が振り返って手を振るのにも笑顔で応えて、彼は安心したように車に乗り込み、静かに車は走り去っていった。
赤いテールランプが見えなくなるまで、ショーンはポーチの欄干に寄りかかったまま、見つめた。
後に残ったのは、ぽっかりとした冷たい空気と、震えるように吐き出される自分の白い息。
── あ~あ・・・。遂に行っちゃった・・・。
声に出すのも辛くて、ショーンは心の中で呟いた。
── 行っちゃった。コウも、人生で最も幸せだったと思えた日々も。
「それは流石に思い過ぎか・・・」
浮かんだ失笑と共に、今度は声が出た。
その声に応えるかのように、ポンと肩を叩かれる。
振り返ると、スコットがいた。
スコットは何も言わなかったけれど、その穏やかな瞳がショーンの心の中を全て見透かしているように思えた。
スコットに無言で両腕を広げられ、ショーンは堪えていたものが堰を切って溢れ出してくるのが判った。
「・・・ダディ!!」
まるで幼少時代に還ったかのように泣きじゃくるショーンを、スコットは何も言わず抱きしめてくれた。
今年でもう二十歳になるっていうのに、こんな泣き方はないよなぁと思いながらも、涙を止めることはできなかった。
車のライトに照らされては流れ行く緑色の看板をぼんやりと捉えながら、羽柴は左手親指の爪を噛んでいた。
右手は軽くハンドルを握り、無意識のうちに車のバランスを保っている。
幸い道路は混雑していなかったので、多少運転に集中しなくても許された。
道路の繋ぎ目が刻む単調なリズムは、いつもなら羽柴を眠気に誘うところだが、今日はなぜか思考する方向に向けさせた。── つまり、ショーン・クーパーのことを。
別れ際、ショーンも自分も「もう一度会おう」というような類の言葉は一切出さなかった。
それは決して無意識ではなく、意識的に行われたことだ。
羽柴には十分に分かっていた。
ただし、その奥にあるショーンの気持ちについては、些か理解できていないのだが。
実を言うと・・・。
昨夜、久しぶりにショーンと眠ることになって、羽柴はある変化に気が付いていた。
風呂から上がってショーンの部屋に入ると、ショーンはもう既に眠る支度を整えていて、一緒にベッドに入ると、あっという間に深い眠りについてしまった。
ようやく本当に安心できる我が家に帰ってきたのだ。
予想に反してマスコミ連中はまったくいなかったし、穏やかな帰宅が彼をリラックスさせていた。
今まで二年間、心ゆくまで安心できない空間にいたのだから、当たり前だ。
自分も誘われるように睡魔に襲われ、以前のようにショーンの腰に手をやった時、捲れ上がったショーンのTシャツの隙間から肌に触れた羽柴の指先が、ザラザラした感触を探り当てた。
── ん?
その感触に目が覚めた。
羽柴は首を傾げる。
以前にもその箇所に触れたことはあったが、そんな感触は今までに感じたことはない。
ケガをしているのだろうか。
そう思った羽柴は、ショーンの履いているスウェットを指で少しずり下げて、そこを覗き見た。
ドキリとした。
天使の羽。
背骨の付け根を中心として、左右に広げられた美しい羽。
それは決して大きくはなかったが、明らかに見る者をドキリとさせる存在感を持って、そこに存在していた。
── 刺青なんて・・・。
羽柴は思いを巡らせた。
確か・・・確かバスルームでローブを彼から引き剥がした時にはなかった。これは。
だったらその後。
そうか。あの日だ。
やたら羽柴に甘えてきた日。
腰が痛いと庇う素振りをしてみせていた。
本人は打ち身だと言っていたが、本当は刺青を彫った痛みを堪えていたんだ。
── なんでまた・・・。
その刺青は、やんちゃな男の子達が競い合っていれる乱暴なものではなく、非常に繊細でエキゾチックなものだった。
けれど同じ時を過ごしていた間に、自分に黙って知り合いが刺青をしていただなんて、やはり驚く。
何だかんだ言って、羽柴は日本人だ。
刺青は羽柴ぐらいの世代の日本人にはまだポピュラーなものではないし、刺青には特別な意味があるようについ思ってしまう。
それに、よりにもよって、『羽』だなんて。
羽柴は、いつかの会話を思い出していた。
そう、あれはまだ、ショーンが声を取り戻す前。
よくあるハンバーガーショップで、ポテトを頬張りながらショーンが訊いてきた。
『羽柴耕造の意味って何?』
── あの話がきっかけで、この天使の羽を身体に刻み込んだのだとしたら・・・。
パキリ。
ふいに噛んでいた爪が変な音を立てて、歪に割れてしまった。
そこで羽柴は、自分が爪を噛んでいることに気が付いた。
── しまった。この癖は、中学生の時に封印していた筈なのに。
中学時代、羽柴は約一年半の間イギリスに留学していた。
留学のきっかけは両親の離婚で、親権を争う二人から逃げ出したかったのだ。
たまたま伯父の料亭に来る客の一人にイギリスの大学で教鞭を篩っている日本人教授がいて、その人を頼りに飛び出していった。
二人の争う声が及ばないところならどこでもいいと思っていたが、いざ英国に行って一人きりで寄宿舎にいると今度はホームシックにかかってしまい、羽柴の心は揺れた。
そのせいで精神的に不安定になるとすぐ爪を噛んだ。それは幼い時からの悪い癖だった。
それを当時自分の担任になった女性教師に窘められたのだ。
とても厳しくしつけられた。
もう六十を過ぎていたその老婦人は、例え羽柴が外国人であろうと、そして困難な家庭環境が彼の背後にあったにせよ、一人前の紳士を育てるという姿勢を崩さなかった。それは他の少年達も同じで、彼女が誰かを特別扱いすることはまったくなかった。
感受性の強い時期に、厳しいルールの中に押し込められるのは正直辛かった。
留学を終えて後、高校生になった頃には、逆に自由なアメリカの風土に惹かれたのだが、その実、今思えば、羽柴の逞しさを鍛え上げてくれたのはイギリスでの生活だったように思える。
アメリカの文化に触れ始めて20年。そして本格的に暮らし始めて5年になるが、それでも羽柴はいまだに硬いブリティッシュ・イングリッシュの発音を好んで使う。
何だかんだ言って、お堅い日本人の羽柴には、如何にも自由奔放なアメリカの快晴の空よりも、少々気難しい英国の曇り空の方が性分に合っているのかもしれない。
そんなことはさておき、少なからず羽柴は、昔の悪癖が再燃したことに驚いた。
長年自分がそんな癖を持っていたことすら忘れていたというのに。
嫌な苛立ちが羽柴を包んでいた。
── お前は考え過ぎ。考え過ぎなんだよ。
羽柴は、再び運転に気を集中させながら思った。
ショーンが羽の刺青をいれたからって、そこにどんな意味があるというんだ。
彼は、沈んだ気持ちを変えるきっかけをただ単に掴みたかったのかもしれない。
それとも、今までいれたかったが、あまりにも忙しくてそれをする暇がなかったから、だとか。
だって、ショーンが羽柴の家で過ごした時間は、彼がショービズの世界にデビューしてから始めてまともに取ることのできた休暇だったはずだ。
大した意味がないからこそ、そのことを敢えて羽柴に言わなかったに違いない。
そう考える一方で・・・。
── もし、あの刺青に特別な意味があって、そしてそれが自分の名前を指しているのだとしたら。
いろんな瞬間が羽柴の脳裡を過ぎる。
羽柴だけに見せてくれた屈託のない笑顔。壊れそうなほど純粋に輝いて見えた涙。見つめると吸い込まれそうに真摯的な輝きを湛えるビー玉のような赤い瞳。
明らかに羽柴へのメッセージと取れる歌。突然の口づけ。意味深な言葉。別れの時のあの寂しさに捕らわれた表情。── そして、腰元の刺青。それら全てが、あるひとつのことを指しているのだとしたら。
ショーンは、ひょっとして俺のことを『好き』、なのだろうか。
しかもそれは、『Like』でなく『Love』だとしたら。
羽柴は、大きく息を吐き出した。
懐から煙草を取り出して銜え、車のシガレットライターで火をつけながら、羽柴は失笑した。
── いやぁ、それはない。それはないよ。
いくらなんでも、それは自惚れ過ぎだ。
出会ってそんなに時間も経っていないのに、そんなはずはない。
そりゃぁ俺が真一に恋をするまであっという間だったが、真一と自分はほぼ同い年。ショーンと自分は、親子ほども年が離れているのだ。
今まで数々の素晴らしく魅力的な女の子達と付き合ってきているショーンが、今更同性のしかも17も離れたおじさんに恋をする訳がない。
よくよく考えりゃ、時間なんてものも関係ない。元々、そんな可能性はないんだから。
彼は、別れ際、再会の言葉を言わなかった。
もし自分に恋をしているのなら、またきっと会いたいと思うはずだ。
どんな障害があろうと、自分なら会いたいと思う。事実、真一との恋愛はそうだった。
あの時、羽柴が再会の言葉を出さなかったのは、自分が側にいたのなら彼を甘やかすことしかできないと思ったからだ。
彼の父親であるスコットと親睦を深めるにつれ、やはり彼の肉親である(例え血は繋がっていなくても)スコットの深い愛情をまざまざと見せつけられた。スコットは時に優しく、そして時に厳しくショーンに接してきた。
やはり甘やかすだけでは、人間は困難を乗り越えられない。その点は、羽柴が一番心配していたことだ。
自分は怖くて、ショーンに厳しくできない。
そこまでの間柄ではないし、それをするなら、それなりの責任が必要だと思うからだ。
一時の感情だけでよかれと思って厳しい言葉を言ったとしても、言いっぱなしでは逆効果である。
それに赤の他人の、知り合って幾ばくもない人間に、許されることでないのかもしれない。ただ単に彼を傷つけるだけではないのか。
── いや・・・。
本当は。
本当は自分が傷つくのが怖いのだ。
あのバスルームで自分が涙した時みたいに、また自分の弱さを目の前に突きつけられるのが怖いのだ。
ショーンの純粋で真摯な瞳は、大人の中の後ろめたい嘘を暴く力が備わっている。
だからこそ、仕事場で彼の周辺にいる大人達は、彼の瞳をまともに見ようとしなかったんじゃないか。
そしてそれがもし、ショーンをあそこまで苦しめてしまった現況なのだとしたら。自分もまた、その大人達と同じようになりはしないか・・・。
結局のところ、あの別れ方はショーンのためなのか、自分のためなのか分からない。
いや、やはりあれは自分を守るためだったのかも・・・。
ただはっきりしていることは、「また会おう」という一言が、あの場で出なかったということ。
そしてそれは互いに意図的だったこと。
そこに隠された理由はどうであれ、答えはそれなのだ。
羽柴は、苦々しい気持ちのまま、車を走らせた・・・。
その様子が、まるで夢の中の光景のように見えた。やけに遠く感じる。
それはきっと『別れたくない』という自分の気持ちを認めたくないんだということの表れなんだと思ったが、ショーンはその思いからすぐに焦点を外した。そんなことを僅かでも考えることが嫌だった。
その感覚は恐怖にも似ている。
そんなことを考えていると、恥も外聞もなく暴れ出してしまいそうだから。
けれどここで今までの自分の努力や羽柴の好意を無にする訳にはいかない・・・。
「 ── 本当に楽しかったです。ありがとう」
「こちらこそ」
スコットと羽柴が笑顔で再度握手を交わし、互いの肩を叩き合う。
その仕草はまるでアメフトチームの同窓生が交わす、如何にも男らしい挨拶だった。
たった一日の間だけだったが、それでも羽柴とスコットは随分親しい間柄になれたらしい。
元々二人とも同じスポーツをしていたし、体育会系の性分をしているせいかもしれない。
クリスはこの日、どうしても劇場の後始末を確認しなければならず、先に羽柴との別れは済ませていた。家を出際、「昨夜はうまくいったかい?」とクリスから確認されたが、それに答える余裕はショーンになかった。
事実、『うまく』は行かなかったし。
それに、『コウとは、これが最後だ』という事実を受け入れるのに必死だったからだ。
── 結局。
新年というにはあまりにも穏やかだった日の夕刻、天気予報で雪のマークが出ていたので、本格的に雪が降り出す前にと羽柴はクーパー家を後にすることになった。
ショーンやスコットも、そしてあのクリスでさえも、羽柴にもっと長居していくように勧めたが、彼は彼で予定が入っているとのことで、一泊のみの滞在となった。
昨夜。
狭いベッドで久しぶりに羽柴と寄り添って眠った。
クリスには「せいぜいアピールしろ」だなんて冷やかしを言われたが、いざ横になってみると、余程ショーンは疲れていたのだろうか。まるで泥のように身体が溶けていくように、ずるずると眠りに引き釣り込まれていった。
身近に感じる羽柴の体温と懐かしい香りがするベッドの心地に絆されて、まるで母親の胎内に還ったかのような究極の安らぎを感じることができた。
これが最後なんだからコウの身体の感覚をしっかり記憶に残さなきゃ、と頭の中では抵抗をしてみたが、睡眠という本能からは逃れられず、夢を見ることもないほど熟睡してしまった。だから当然羽柴の寝顔なんて見られなかったし、羽柴が最後に自分をどんな風に包み込んでくれたかも分からない。
朝起きてその現実に気づき、あまりのショックにただただ呆然としてしまったが、幸いベッドにはショーンしかおらず、そのマヌケ顔を羽柴に見られることはなかった。
壁掛け時計に視線をやると、自分が起きた時間が正確にはもう昼に近づいていることに気づき、ショーンは更にショックを受けた。
そのショーンの耳に、階下で盛り上がっているスコットと羽柴の声が聞こえてきた。どうやら、テレビで元旦のアメフト恒例行事ローズ・ボウルの観戦をしているらしい。
「・・・まったく、何してんだろ、俺・・・」
羽柴と過ごせる時間はあと少ししかないっていうのに、随分無駄に時間を捨ててしまった。
ショーンはそう思って自己嫌悪に陥り、グシャグシャの髪のまま一階に下りた。そして羽柴の朗らかな笑顔を見た瞬間に、さっきまでの陰鬱な気分があっという間に快晴になる自分の現金さに更に自己嫌悪に陥った。
── 魔法の時間はもう終わりだって、あれほど自分で決めたくせに。
けれどそんなことをこの時点で誰に言う訳にもいかず、結局今日、こうして別れる時間が訪れるまで、なんだかショーンはギクシャクしたまま時間を過ごしてしまった。かえってスコットの方が羽柴と話す時間が多かったほどだ。
ショーンは苦々しく思う。
── ハッピーなニューイヤーの始まりなのに、こんなの、ロクデモナイ。
この期に及んで、まるで他人行儀になってしまうだなんて本当にひねくれた子どものすることだし、こんなの全然可愛らしくない、と。けれど、そんな自分を止めることもできずに・・・。
「ショーン」
最後に羽柴に声をかけられて、ショーンは咄嗟に笑顔を浮かべた。
きっと酷く硬い笑顔だったろうと思う。
それでも、羽柴は変わらずショーンを抱きしめてくれた。
本当に大きくて、優しくて、温かい腕。
ショーンにできることといえば、泣かずに明るく応えることだった。
それが精一杯だった。
ショーンもスコットがしたように、少し乱暴に羽柴の背中を叩いた。すると羽柴も、同じようにしてくれた。そのお陰で、何とか友人としての別れができるような勇気が持てた。
「バイ、コウ」
「ああ。風邪なんかひくなよ」
「うん」
「十分お父さんに甘やかせてもらって、すっかり元気になったら、また皆の前でギターを弾いてくれ。プレッシャーを与えるつもりはないけど、それが君の天職だと思うから。きっと君の音楽を必要としている人が世界中にたくさんいる。俺もその一人だよ」
「ホントに?」
「お世辞は、言わない主義。信用してもらえるかは別として」
羽柴はそう言うと、コミカルな笑みを浮かべた。ショーンもつられて笑う。
「じゃ、元気で」
羽柴がクーパー家のポーチを降りて車の側まで行く姿を、ショーンは見つめ続けた。
彼が振り返って手を振るのにも笑顔で応えて、彼は安心したように車に乗り込み、静かに車は走り去っていった。
赤いテールランプが見えなくなるまで、ショーンはポーチの欄干に寄りかかったまま、見つめた。
後に残ったのは、ぽっかりとした冷たい空気と、震えるように吐き出される自分の白い息。
── あ~あ・・・。遂に行っちゃった・・・。
声に出すのも辛くて、ショーンは心の中で呟いた。
── 行っちゃった。コウも、人生で最も幸せだったと思えた日々も。
「それは流石に思い過ぎか・・・」
浮かんだ失笑と共に、今度は声が出た。
その声に応えるかのように、ポンと肩を叩かれる。
振り返ると、スコットがいた。
スコットは何も言わなかったけれど、その穏やかな瞳がショーンの心の中を全て見透かしているように思えた。
スコットに無言で両腕を広げられ、ショーンは堪えていたものが堰を切って溢れ出してくるのが判った。
「・・・ダディ!!」
まるで幼少時代に還ったかのように泣きじゃくるショーンを、スコットは何も言わず抱きしめてくれた。
今年でもう二十歳になるっていうのに、こんな泣き方はないよなぁと思いながらも、涙を止めることはできなかった。
車のライトに照らされては流れ行く緑色の看板をぼんやりと捉えながら、羽柴は左手親指の爪を噛んでいた。
右手は軽くハンドルを握り、無意識のうちに車のバランスを保っている。
幸い道路は混雑していなかったので、多少運転に集中しなくても許された。
道路の繋ぎ目が刻む単調なリズムは、いつもなら羽柴を眠気に誘うところだが、今日はなぜか思考する方向に向けさせた。── つまり、ショーン・クーパーのことを。
別れ際、ショーンも自分も「もう一度会おう」というような類の言葉は一切出さなかった。
それは決して無意識ではなく、意識的に行われたことだ。
羽柴には十分に分かっていた。
ただし、その奥にあるショーンの気持ちについては、些か理解できていないのだが。
実を言うと・・・。
昨夜、久しぶりにショーンと眠ることになって、羽柴はある変化に気が付いていた。
風呂から上がってショーンの部屋に入ると、ショーンはもう既に眠る支度を整えていて、一緒にベッドに入ると、あっという間に深い眠りについてしまった。
ようやく本当に安心できる我が家に帰ってきたのだ。
予想に反してマスコミ連中はまったくいなかったし、穏やかな帰宅が彼をリラックスさせていた。
今まで二年間、心ゆくまで安心できない空間にいたのだから、当たり前だ。
自分も誘われるように睡魔に襲われ、以前のようにショーンの腰に手をやった時、捲れ上がったショーンのTシャツの隙間から肌に触れた羽柴の指先が、ザラザラした感触を探り当てた。
── ん?
その感触に目が覚めた。
羽柴は首を傾げる。
以前にもその箇所に触れたことはあったが、そんな感触は今までに感じたことはない。
ケガをしているのだろうか。
そう思った羽柴は、ショーンの履いているスウェットを指で少しずり下げて、そこを覗き見た。
ドキリとした。
天使の羽。
背骨の付け根を中心として、左右に広げられた美しい羽。
それは決して大きくはなかったが、明らかに見る者をドキリとさせる存在感を持って、そこに存在していた。
── 刺青なんて・・・。
羽柴は思いを巡らせた。
確か・・・確かバスルームでローブを彼から引き剥がした時にはなかった。これは。
だったらその後。
そうか。あの日だ。
やたら羽柴に甘えてきた日。
腰が痛いと庇う素振りをしてみせていた。
本人は打ち身だと言っていたが、本当は刺青を彫った痛みを堪えていたんだ。
── なんでまた・・・。
その刺青は、やんちゃな男の子達が競い合っていれる乱暴なものではなく、非常に繊細でエキゾチックなものだった。
けれど同じ時を過ごしていた間に、自分に黙って知り合いが刺青をしていただなんて、やはり驚く。
何だかんだ言って、羽柴は日本人だ。
刺青は羽柴ぐらいの世代の日本人にはまだポピュラーなものではないし、刺青には特別な意味があるようについ思ってしまう。
それに、よりにもよって、『羽』だなんて。
羽柴は、いつかの会話を思い出していた。
そう、あれはまだ、ショーンが声を取り戻す前。
よくあるハンバーガーショップで、ポテトを頬張りながらショーンが訊いてきた。
『羽柴耕造の意味って何?』
── あの話がきっかけで、この天使の羽を身体に刻み込んだのだとしたら・・・。
パキリ。
ふいに噛んでいた爪が変な音を立てて、歪に割れてしまった。
そこで羽柴は、自分が爪を噛んでいることに気が付いた。
── しまった。この癖は、中学生の時に封印していた筈なのに。
中学時代、羽柴は約一年半の間イギリスに留学していた。
留学のきっかけは両親の離婚で、親権を争う二人から逃げ出したかったのだ。
たまたま伯父の料亭に来る客の一人にイギリスの大学で教鞭を篩っている日本人教授がいて、その人を頼りに飛び出していった。
二人の争う声が及ばないところならどこでもいいと思っていたが、いざ英国に行って一人きりで寄宿舎にいると今度はホームシックにかかってしまい、羽柴の心は揺れた。
そのせいで精神的に不安定になるとすぐ爪を噛んだ。それは幼い時からの悪い癖だった。
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とても厳しくしつけられた。
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アメリカの文化に触れ始めて20年。そして本格的に暮らし始めて5年になるが、それでも羽柴はいまだに硬いブリティッシュ・イングリッシュの発音を好んで使う。
何だかんだ言って、お堅い日本人の羽柴には、如何にも自由奔放なアメリカの快晴の空よりも、少々気難しい英国の曇り空の方が性分に合っているのかもしれない。
そんなことはさておき、少なからず羽柴は、昔の悪癖が再燃したことに驚いた。
長年自分がそんな癖を持っていたことすら忘れていたというのに。
嫌な苛立ちが羽柴を包んでいた。
── お前は考え過ぎ。考え過ぎなんだよ。
羽柴は、再び運転に気を集中させながら思った。
ショーンが羽の刺青をいれたからって、そこにどんな意味があるというんだ。
彼は、沈んだ気持ちを変えるきっかけをただ単に掴みたかったのかもしれない。
それとも、今までいれたかったが、あまりにも忙しくてそれをする暇がなかったから、だとか。
だって、ショーンが羽柴の家で過ごした時間は、彼がショービズの世界にデビューしてから始めてまともに取ることのできた休暇だったはずだ。
大した意味がないからこそ、そのことを敢えて羽柴に言わなかったに違いない。
そう考える一方で・・・。
── もし、あの刺青に特別な意味があって、そしてそれが自分の名前を指しているのだとしたら。
いろんな瞬間が羽柴の脳裡を過ぎる。
羽柴だけに見せてくれた屈託のない笑顔。壊れそうなほど純粋に輝いて見えた涙。見つめると吸い込まれそうに真摯的な輝きを湛えるビー玉のような赤い瞳。
明らかに羽柴へのメッセージと取れる歌。突然の口づけ。意味深な言葉。別れの時のあの寂しさに捕らわれた表情。── そして、腰元の刺青。それら全てが、あるひとつのことを指しているのだとしたら。
ショーンは、ひょっとして俺のことを『好き』、なのだろうか。
しかもそれは、『Like』でなく『Love』だとしたら。
羽柴は、大きく息を吐き出した。
懐から煙草を取り出して銜え、車のシガレットライターで火をつけながら、羽柴は失笑した。
── いやぁ、それはない。それはないよ。
いくらなんでも、それは自惚れ過ぎだ。
出会ってそんなに時間も経っていないのに、そんなはずはない。
そりゃぁ俺が真一に恋をするまであっという間だったが、真一と自分はほぼ同い年。ショーンと自分は、親子ほども年が離れているのだ。
今まで数々の素晴らしく魅力的な女の子達と付き合ってきているショーンが、今更同性のしかも17も離れたおじさんに恋をする訳がない。
よくよく考えりゃ、時間なんてものも関係ない。元々、そんな可能性はないんだから。
彼は、別れ際、再会の言葉を言わなかった。
もし自分に恋をしているのなら、またきっと会いたいと思うはずだ。
どんな障害があろうと、自分なら会いたいと思う。事実、真一との恋愛はそうだった。
あの時、羽柴が再会の言葉を出さなかったのは、自分が側にいたのなら彼を甘やかすことしかできないと思ったからだ。
彼の父親であるスコットと親睦を深めるにつれ、やはり彼の肉親である(例え血は繋がっていなくても)スコットの深い愛情をまざまざと見せつけられた。スコットは時に優しく、そして時に厳しくショーンに接してきた。
やはり甘やかすだけでは、人間は困難を乗り越えられない。その点は、羽柴が一番心配していたことだ。
自分は怖くて、ショーンに厳しくできない。
そこまでの間柄ではないし、それをするなら、それなりの責任が必要だと思うからだ。
一時の感情だけでよかれと思って厳しい言葉を言ったとしても、言いっぱなしでは逆効果である。
それに赤の他人の、知り合って幾ばくもない人間に、許されることでないのかもしれない。ただ単に彼を傷つけるだけではないのか。
── いや・・・。
本当は。
本当は自分が傷つくのが怖いのだ。
あのバスルームで自分が涙した時みたいに、また自分の弱さを目の前に突きつけられるのが怖いのだ。
ショーンの純粋で真摯な瞳は、大人の中の後ろめたい嘘を暴く力が備わっている。
だからこそ、仕事場で彼の周辺にいる大人達は、彼の瞳をまともに見ようとしなかったんじゃないか。
そしてそれがもし、ショーンをあそこまで苦しめてしまった現況なのだとしたら。自分もまた、その大人達と同じようになりはしないか・・・。
結局のところ、あの別れ方はショーンのためなのか、自分のためなのか分からない。
いや、やはりあれは自分を守るためだったのかも・・・。
ただはっきりしていることは、「また会おう」という一言が、あの場で出なかったということ。
そしてそれは互いに意図的だったこと。
そこに隠された理由はどうであれ、答えはそれなのだ。
羽柴は、苦々しい気持ちのまま、車を走らせた・・・。
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けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
はじまりの朝
さくら乃
BL
子どもの頃は仲が良かった幼なじみ。
ある出来事をきっかけに離れてしまう。
中学は別の学校へ、そして、高校で再会するが、あの頃の彼とはいろいろ違いすぎて……。
これから始まる恋物語の、それは、“はじまりの朝”。
✳『番外編〜はじまりの裏側で』
『はじまりの朝』はナナ目線。しかし、その裏側では他キャラもいろいろ思っているはず。そんな彼ら目線のエピソード。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
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お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
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✻改稿版を他サイトにて投稿公開中です。
Take On Me
マン太
BL
親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。
初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。
岳とも次第に打ち解ける様になり…。
軽いノリのお話しを目指しています。
※BLに分類していますが軽めです。
※他サイトへも掲載しています。
僕たち、結婚することになりました
リリーブルー
BL
俺は、なぜか知らないが、会社の後輩(♂)と結婚することになった!
後輩はモテモテな25歳。
俺は37歳。
笑えるBL。ラブコメディ💛
fujossyの結婚テーマコンテスト応募作です。
消えない思い
樹木緑
BL
オメガバース:僕には忘れられない夏がある。彼が好きだった。ただ、ただ、彼が好きだった。
高校3年生 矢野浩二 α
高校3年生 佐々木裕也 α
高校1年生 赤城要 Ω
赤城要は運命の番である両親に憧れ、両親が出会った高校に入学します。
自分も両親の様に運命の番が欲しいと思っています。
そして高校の入学式で出会った矢野浩二に、淡い感情を抱き始めるようになります。
でもあるきっかけを基に、佐々木裕也と出会います。
彼こそが要の探し続けた運命の番だったのです。
そして3人の運命が絡み合って、それぞれが、それぞれの選択をしていくと言うお話です。
宵にまぎれて兎は回る
宇土為名
BL
高校3年の春、同級生の名取に告白した冬だったが名取にはあっさりと冗談だったことにされてしまう。それを否定することもなく卒業し手以来、冬は親友だった名取とは距離を置こうと一度も連絡を取らなかった。そして8年後、勤めている会社の取引先で転勤してきた名取と8年ぶりに再会を果たす。再会してすぐ名取は自身の結婚式に出席してくれと冬に頼んできた。はじめは断るつもりだった冬だが、名取の願いには弱く結局引き受けてしまう。そして式当日、幸せに溢れた雰囲気に疲れてしまった冬は式場の中庭で避難するように休憩した。いまだに思いを断ち切れていない自分の情けなさを反省していると、そこで別の式に出席している男と出会い…
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