Please Say That

国沢柊青

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 マックス・ローズ医師の家は、C市の郊外にあった。
 新興住宅地の一角で、羽柴が住んでいた地域と随分雰囲気が違う。
 芝生と二階建ての木造建築が並ぶ、典型的なアメリカのスイート・ホームだ。
 ガレージに車を入れて、玄関ポーチに回ると真新しいペンキの香りがした。
 ショーンの家ほど古い訳ではないが、マックスの家もそれなりに年数は経っているようだ。それでもよく手入れされている。
 何だか自分の家と雰囲気が似ているので、ショーンはホッとした。
「もっと凄いところに住んでると思った?」
 マックスは鍵を開けながら、ショーンを振り返って言う。
 ショーンが思わず笑みを浮かべて頷くと、
「ここはパートナーがずっと暮らしていた家なんだよ。俺がそこに転がり込んだって訳。確かに医者のサラリーはいいし、それ以上にパートナーのサラリーの方が上なんだけど、二人とも何だかここが離れがたくてね。この家には思い出がいっぱい詰まってるから」
 と答えてくれた。
 まるでスコットが頑なにあの家に固執しているのと似ていて、益々ショーンは微笑む。
「さ、入って。今コーヒー淹れる」
 家は、とてもこざっぱりとして上品だった。
 若草色の壁紙、オフホワイトの階段の手すり。床はきちんとワックス引きされていて、木製の家具は極めてシンプルなデザインのものばかりだ。
 壁には至る所にモノクロの印象的な写真が数多く飾られ、その写真達が室内をモダンな印象にしている。ナチュラルな雰囲気の室内に、程良いスパイスとなっていた。
 ショーンは思わず写真に見入る。
 夏の眩しい日差しを撮ったもの、冬の雪に埋もれるベンチ、風に靡く洗濯物。ひまわりの花、空に奇怪な模様を描く異国の電線、繊細な形の雲・・・。
 白と黒のコントラストが効いた、ドラマティックな写真達。
 まるで廊下や階段の壁面がちょっとしたギャラリーのようだった。
「あれ? まだそんなところにいたの?」
 キッチンの方からマックスが顔を覗かせて言う。
 ショーンは写真を指さして言った。
「凄く素敵だから、思わず見入っちゃって・・・」
 マックスがキッチンから出て来てショーンの隣に立ち、腕組みをする。
「そうだろう。これ、彼の娘が撮った写真なんだよ」
「娘?」
 ショーンがギョッとしてマックスを見る。
「そうか。言ってなかったね。そう、彼、娘がいるんだ。そうだなぁ、君より三つぐらい年上かな。今は大学生なんだけど、写真撮るのに填っちゃって、休学してるみたい。彼女の父親と一緒で、夢中になったら頑ななんだよね」
 マックスはそう言いながらも、幸せそうな微笑みを浮かべている。
 ショーンはそれを信じられないような目で見つめた。
 だって、子どものいる同性の人と、しかも12歳も離れているのに付き合ってるだなんて・・・。
「 ── なんか言いたげだね」
 マックスが、写真を見たまま言う。
「え?!」
 ショーンがギクリとして声を上げると、マックスはニヤリと笑みを浮かべショーンを見つめてくる。
「いいんだよ。はっきり言っても」
「マックスみたいな人が、どうしてこんなに障害のある恋愛をしてるのかが、俺には分からないよ」
 マックスは、フフフと今度は声を出して笑った。
「恋愛っていうのは、障害があるほど燃えるものなんだよ。君も、そうじゃない?」
「俺の場合は、その障害に物怖じし過ぎて、逃げちゃってる感じ・・・」
「ふむ。暴走特急の俺と繊細な君を一緒にするのはマズイみたいだね」
 マックスは肩を竦めて、ショーンの肩に手を置くと、リビングルームにショーンを誘った。
 リビングには、一際大きな写真が飾ってあった。
 一見すると、上半分の淡いグレイと下半分の濃いグレイのツートンカラーでしか見えないが、よく目を凝らすとそれが、水平線の写真だということが分かる。
「なんて穏やかな海なんだろう・・・」
 ショーンは思わず呟いた。
 まるで心が洗われるようだ。
 静かで、穏やかで、それなのに力強い。
 なぜだかショーンは、羽柴の家で見た羽柴の愛する人の顔を思い起こしていた。
 この海の写真は、『彼』を想像させた。
 思わず、涙が滲んでくる。
 その涙が苦しみから出てくるのか、悲しみから出てくるのか、それとも別の感情からくるのか、ショーンには分からなかった。
「風景の写真ではベストショットだって彼女が言っていた写真だ。俺もこの写真を初めて見た時は泣いたんだよ。そういう力が、この写真にはあるね。・・・ホントいうと、彼女は人物を撮る方が得意だって言ってるんだけど」
 ふいにコーヒーのいい香りがリビングまで立ちこめてきて、マックスは「ちょっと待ってて」と席を外した。
 ショーンは写真全体をもう一度見たいと思って、ゆっくり後ずさった。その拍子に後ろのローテーブルが膝裏に当たり、思わずテーブルの上に尻餅を突いてしまう。同時にマックスがマグカップとブラウニーがのったトレイを手に持ってリビングに入ってきたから、ショーンは恥ずかしくなって慌てて立ち上がった。
 顔が真っ赤になり、冷や汗が流れる。
「ご、ごめんなさい」
 ショーンが謝ると、マックスはハハハと朗らかな笑い声を上げて、「ケガはない?」と訊いてくれた。ショーンが首を横に振ると、ローテーブルの向こうの三人掛けソファーに座るよう促してくれる。
「君はビッグスターの筈なのに、こうしているとそんな感じ全然しないね。・・・勿論、いい意味でだよ」
 ショーンにコーヒーを渡しながら、マックスが言う。勿論、それはショーンにも分かっていたので、ショーンはすぐに微笑んで頷いた。
「先生も昔よくテレビとかに出てたよね」
「ああ・・・。あれは俺が、じゃなくて、俺の写真が勝手に出てたんだけどね」
 マックスはコーヒーを啜りながら言う。
「よく覚えてないけど・・・。確か爆弾犯に狙われたとか・・・」
「そうだね。今でもその時の傷が残ってるんだよ、ここに」
 マックスはそう言ってブロンドの前髪を掻き上げると、額に残る傷を見せてくれた。
「・・・なんでそんなことになったの?」
「まぁ、いろいろあってね。きっかけは、連続爆弾事件の被害者をたまたま俺が助けたからだっていう説があるけれど、俺は医者だからね。目の前に傷ついている人がいれば、それを助けることは義務だよ。それをなぜだか大げさに報道されちゃって。なぜなんだろうね」
 そう言って苦笑いするマックスの横顔を見て、ショーンは何となくその意味が分かった。
 皆、この美しい人の姿を見たかったのだ。理由はどうにせよ、ただ単純に。
 人にそうさせる魅力が、この医師にはあった。
 そんな魅力的な人が、そうまでして想う相手って、一体・・・。
 ショーンは、自然に沸き上がってくる疑問を訊いた。
「ねぇ、先生の恋人ってどんな人?」
「え? 恋人? ええと、そうだなぁ・・・。一言で言うと、荘厳な感じかな。表現としては変だけど」
「荘厳?」
「うん。なんか神秘的な人なんだ。付き合い始めてもう5年ぐらい経つけど、いまだにそう思う。気品があって、重厚で神々しくて。でも・・・俺にはとても人間くさい優しさを見せてくれる」
 マックスはそう言って、ニヤリと笑う。
 本当にノロケた笑顔の見本といった表情。
 彼が本当に恋人のことを愛していることが分かる。
「ねぇ、写真はないの? 娘さん、写真撮ってないの?」
 ショーンがそう訊くと、途端にマックスの返事の歯切れが悪くなった。
「スナップ写真はうち、あんまりないんだ。彼は写真が苦手で・・・。シンシアが撮った写真は特別なものなので、二階の寝室にしまってある」
 娘さんの名前はシンシアっていうのか・・・なんて思いながら、ショーンはさらにマックスに詰め寄った。
「じゃ、写真あるんじゃん。ねぇ、見せて。見たい」
「でも、その写真、俺も写ってるから・・・」
「いいよ! これだけ凄い写真撮る人が撮影したんだもん、いい写真に決まってるよ。ね、お願い」
 ショーンが上目遣いでマックスをじっと見上げると、マックスは顰めツラで呟いた。
「・・・君のその目は、ある意味武器だね」
 マックスが溜息をついて腰を上げる。
 二階から、重い足取りで帰ってきたマックスの手には、黒くて薄いアルバムがあった。
 大きさは丁度、ファッション雑誌程度のサイズだ。
 表紙には、『マックス、30歳の誕生日おめでとう。シンシア』と白いペンで書かれてある。
 ドキドキしながら表紙を捲ると、ベッドの上で微笑んでいるマックスと彼の恋人の姿が写っていた。
 それはモノクロ写真ではなく、カラー写真だった。
 朝の光に輝くマックスの黄金色の髪。それと対照的な彼の漆黒色の髪。その髪色が羽柴を思い起こさせて、少しチクリとする。
 マックスの恋人は12歳年上だというからこの時は42歳ということだが、老けて衰えたおじさんという感じはまったくなかった。
 むしろマックス同様魅力的な人で、その笑顔は本当に優しそうである。
 びっくりするほど深い蒼色の瞳が、本当に美しい。
 腕に少し傷跡があるのが分かったが、自然光の柔らかい色のトーンで気にならなかった。
 起き抜けのところを激写されたのか、二人ともぼさぼさの髪でベッドの上に身体を起こし、マックスはテレくさそうにカメラを見つめていて、そんなマックスを彼氏が優しげに見つめながら微笑んでいる。立て膝をした姿勢の二人の身体は大部分真っ白なシーツに包まれていたが、むき出しの肩は何も着ていない。
 まさに素顔の二人が見せる、究極に幸せな瞬間を切り取った写真で、撮影した者の愛情溢れる視線がひしひしと伝わってくるものだった。
 こんな写真を彼氏の娘である人間が撮影したというのも驚きだが・・・何せ、自分の父親が男の恋人と同じベッドで過ごしているところを撮影するだなんて・・・、何よりショーンには羽柴が撮影した『彼』の写真を彷彿とさせるもので、思わずショーンはポロポロと大粒の涙を零したのだった。
「ショーン?! だ、大丈夫かい? ちょっと刺激が強過ぎたかな・・・」
 オロオロとするマックスの腕を掴んで、ショーンは首を横に振った。
「・・・違う・・・。そんなんじゃない・・・、そんなんじゃないよ・・・」
 ショーンは涙に充血している瞳をマックスに向け、顔をくしゃくしゃにして微笑んだ。
「とても、とても綺麗な写真だね・・・」
 マックスは指でショーンの涙を拭うと、「写真が綺麗なだけで、そんなに泣いたりはしないでしょ? ・・・訊いてよければ、訊くよ」と言った。
「でも・・・。迷惑じゃない?」
「たまには赤の他人の方が話しやすい時だってあるよ。もし、君が俺を信用してくれたら、だけど」
「もちろん! 信用はしてるよ! じゃないと家まで来ない」
 マックスはローテーブルの上に置かれてあるティッシュボックスを取ると、ショーンに渡した。
「スターが洟をかんだことも秘密にしておいてあげる。もちろん、そのティッシュもオークションにかけない」
 まるで宣誓式のように手を挙げるマックスを見て、ショーンはフフと笑いながら、洟をかんだ。
「 ── 実は・・・。コウ・・・俺の好きな人だけど・・・彼、昔恋人を病気で亡くした経験があって。彼、今でも彼のことが好きみたいなんだ。俺も写真見たんだけど、それはそれはとても綺麗な人で・・・。コウが撮った写真の中に、丁度これと同じ様なシチュエーションの写真があったから、それで・・・」
 新たな涙が零れ出てくる。
 マックスは溜息をつく。
「そうかぁ・・・。彼は恋人を病気で喪ってるの・・・。それはなかなか辛いね。まだ若かっただろうに・・・」
 ショーンは頷く。
「コウは日本人なんだ。もちろん、恋人も日本人で。コウが海外赴任している間に、亡くなったんだって。だからコウは、恋人の最期に間に合わなかったって言ってた」
「それは・・・。思いが残るね・・・」
「そうなんだ。俺バカだから、コウがそれほど傷ついているなんて分からなくて、ついその傷を引きずりだしちゃったんだよ。コウが痛いのを我慢してたのに、それを暴いてしまった。先生は、コウが普段は凄く強靱な人だって、分かるでしょ?」
 マックスは、あの日ショーンを抱きしめていた彼の眼差しを思い起こす。そして深く頷いた。
「そんなあの人が、声も出さずに、まるで魂が抜けていくように涙を流すんだ。彼は今でも心にぽっかりとした穴を持ってる。その穴はとても大きくて、俺なんかが到底埋められないほど深いんだ。彼の想いは本当に強くて眩しくて・・・。とてもじゃないけど、俺なんかが適う訳ない。それに、俺が一緒にいて逆にコウが傷つくんだとしたら、そんなのって相手に負担をかけるだけでしょ? だから俺は・・・」
「身を引いた」
 ショーンの言葉を、マックスが繋いだ。
 ショーンがマックスを見る。
 マックスは少し苦い微笑みを浮かべていた。
「その気持ちよく分かるよ・・・。冗談でも口裏合わせでもなく、本当にね。だって、彼にもそういう人がいたから」
 マックスはそう言って、写真の中の彼に目を落とした。ショーンもつられて写真の中の彼を見る。
「え? この人も、コウと似た経験をしているの?」
 マックスは頷いた。
「シンシアのお母さん。まだシンシアが幼い時に壮絶な死を迎えたんだ。彼の場合は、それを目の前で見ていた。シンシアの母親は、シンシアと彼を守るために、自ら命を絶ってしまったんだよ」
 あまりのことに、ショーンは言葉を失った。
 ショーンがもう一度写真を見ると、写真の中の微笑みは確かに、様々な人生の苦しみの中を生き抜いてきた人間の持つ穏やかさがあった。
「それを聞いた時は、さすがの俺もへこんでね。彼女の存在を越えることなんて、自分にできる訳がないと思ったよ。── だって、命がけで彼らを守った女性だ。そんなに凄い人は、世界中でそんなにいやしない」
「じゃ、マックスはどうやって乗り越えたの?」
 マックスは再びショーンを見て言った。
「乗り越える必要はないことに気が付いたんだよ」
「乗り越える必要がない?」
 思わずショーンは訊き返す。
 マックスは頷いた。
「そうだ。人間は、一人ひとり違うんだもの。だからその人の真似をして乗り越える必要はないし、大切な人を喪った穴を無理に埋めようとする必要もないんだ。だって、俺が彼を好きになった時、彼の中には彼女の存在があった。だから言ってしまえば俺は、彼女の存在を含めた彼を好きになったんだ。自分に彼女の代わりも、彼女を喪った喪失感を補うこともできなかったけれど、他に自分ができることがあると気が付いたんだ。それはねぇ・・・」
 ショーンは、食いつくようにマックスを見た。
 まるでこれから降ってくる言葉が神言だと言わんばかりの、それはそれは真摯な瞳で。
 その期待に答えるマックスも、まるで聖母のような面差しをしていた。
「新しい結晶を彼と一緒に積み上げていくこと。そのぽっかり空いた穴のすぐ隣にね」
「新しい結晶・・・」
「そう。誰にも真似のできないもの。俺と彼だけにしか積み上げられない、日々の結晶。亡くなってしまった人は偉大だけれど、それはできないだろ?」
 まるでショーンの目の前から曇天の雲が一気に晴れたかのような感覚があった。
 空から陽が差し込み、頬を照らし出される温かさ。
 ショーンは、ヒクッと喉を鳴らした。
 どうやら涙もしゃっくりに取って代わったようだ。
「ショーンは確かに、彼の中の傷を引きずり出してしまったようだけど、彼が今でもそんな様子なら、彼の心の傷からはまだ新たな血が流れてる。穴埋めはできないけれど、その血は誰かが止めてあげなきゃね。未消化の思い出は、辛いだけだよ。だから君はある意味、彼がわざと避けているその未消化の思いを自覚させたんじゃないかな。確かに互いに辛いことだけれど、それはいつの時期か、必ず生き残った人間が向き合わなければならないことだと思うよ。君が彼に、そのチャンスを与えたんだ」
「・・・そうかな・・・」
「う~ん・・・。まぁ、俺も彼をそこまで知ってる訳ではないから、確信は持てないけれど。でも少なくとも、彼は君の思いを知らない訳だから、伝えることは必要なんじゃないかな。そうでないと、そのことが今度はショーンの中に未消化の思いを作ることになるよ」
 マックスはそう言うと、指でショーンの胸を押した。
 ショーンはグスッと鼻を鳴らし、名残の涙を袖口で拭った。
「・・・何か、元気出てきたかも」
 マックスがにっこり微笑む。
「そ? それはよかった。世界を虜にしてるショーン・クーパーだもの。本気を出せば、君の誠意は伝わるよ。大切なのは、彼に何を伝えたいかってこと。別に気取る必要はない。思ったことを素直に正直に。これが一番。君のやりやすいやり方で、一生懸命やれば、物事はきっといい方向に進むよ。どんな結果が出たとしてもね」
 マックスはそこまで言うと、大きくひとつ欠伸をした。
 考えればマックスは、夜勤明けでもう十数時間睡眠を取っていないのだった。
「先生、ごめん! 夜勤明けで寝てないのに、俺・・・」
「大丈夫、大丈夫。こんなの慣れてるから。一時間半ぐらい仮眠を取ったら、君を送っていけるぐらいにはなるから・・・」
 そうは言っても、彼の瞼はそろそろ限界に近づきつつある様子だった。
「いいよ、先生。俺、バスで帰れる」
「時間が中途半端だよ・・・。大丈夫だから、一時間半したら起こして? その間、家の中で好きなように過ごしてもらっていいからね・・・」
 マックスはそこまで言うと、ソファーにバタッと倒れ、たちまち寝息を立て始めた。
「・・・え・・・。ど、どうしよ・・・」
 ショーンはアルバムを持ったまま、その場で固まるしかなかった。
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