Amazing grace

国沢柊青

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act.38

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 実際、USパワー誌の若手スター記者は、驚くほど気さくな性格だった。
 雑誌の取材など受けたことのないマックスの限界にまで高まった緊張は、馴染みのコーヒーショップの店先であっという間に消えていった。
 それは記者であるマーク・ミゲルの才能のひとつに他ならないのだろうが、それにしても彼が、マックスの学生時代を見知っていたことは、本当に意外なことだった。その話で、ミゲルとマックスの距離は一気に近くなったのだ。
「あの時は驚いたよ。まさか、女の子みたいな顔をした子がボクシングの選手だっただなんて」
 そう言われて、マックスは苦笑いした。
 ミゲルがその表情を敏感に読み取る。 
「ごめん。女の子って言われるの、嫌だったんだよね」
「いや、いいんですよ。それは昔のことですから」
 マックスは、そう言いいながら二杯目のコーヒーに口をつけた。
 ミゲルはマックスにそう言われても、再度「ごめん」と謝った。
 実のところ、マックスが今でもそのことを気にしていることに、彼は気づいているのだろうか。
 マックスは、USパワー誌の有名記者が自分の目の前で意気消沈しているのがおかしくて、つい吹き出してしまう。
 ここは、ワシントンやニューヨークに比べて田舎町で、なおかつどこにでもあるごく普通のカフェテリアだ。窓の外には、小さな街の生活を繰り返す人々が、寒さに凍えながら歩いていく。今しがた目の前を通り過ぎていったオフィスレディーも、ガラス一枚隔てたところに女性に熱狂的な人気を博すスター記者が座っているとは気がつかない。
 そんな奇妙なギャップがおかしくてならなかった。
「そんなに謝られると、なんか妙な感じがします。本当に記者さんなんですよね?」
 マックスがおどけて言い返すと、ミゲルは頭を掻いた。
「いや、面目ない」
 そう言う彼の口元から笑顔が零れる。
 ミゲルはよく笑う男だ。
 マックスが聞いたところによると、ミゲルはマックスと2つ違いで、ハイスクール時代から新聞部に属し、学生時代より投稿記事が雑誌に掲載されるような学生記者だったという。
 彼が母校のボクシング部インターハイ出場の取材に出かけた時に、選手として出場していたマックスを見かけていたという訳だ。
「最初は、てっきりマネージャーかと思っていたんだ。なのに、ジャージの上着を脱いでリングに上がったのは君で、本当にビックリした。自分の学校の選手が隣のリングで試合をしているのに、集中できなくてね。君が相手のパンチを食らう度になぜかヒヤヒヤしてたよ。でも、そんな思いをしてたのは、僕だけじゃなかったと思うな。同じような目で見ていた連中はたくさんいたから」
「それで妙にギャラリーが多かったのかな」
 とマックスが笑ってジョークを飛ばす。
 マックスは続けた。
「結局あの時は3回戦で負けちゃって。最後はテクニカルノックアウト負けだったから、そりゃもう悔しくて・・・」
「最後、目の上が倍に腫れ上がってたよな」
 ええ?とマックスがまじまじとミゲルを見た。 
「そんなことまで知ってるんですか?」
 ミゲルが頬杖をつきながらニヤリと笑う。
「実は、自分の学校の選手そっちのけで君を見ていたんだ。ずっと」
 大きな真っ黒い瞳が、驚き顔のマックスを見つめている。 
「だから正直、編集長が持ってきた爆発事件の現場写真を見た時、我が目を疑ったよ。あの時のあの選手とまさかまた会えるなんてね」
 ウォレスとの関係が始まったせいだろうか、今まで男性の目線というものをあまり意識することはないマックスだったが、こうも熱のこもった目で見つめられると、何だか落ち着かない気分だ。
「これはチャンスだと思ったよ。仕事に私情を挟むなんて、些か記者としては失格なんだけど」
 ミゲルの発言に、マックスはまた苦笑いする。 
「嫌だなぁ。そんなことを言うと、まるで口説かれてるみたいに聞こえますよ」 
「口説いてるんだよ」
 マックスはぎょっとしてミゲルを見入ってしまう。
 マックスのその反応をミゲルは予想していたんだろう。ミゲルは身体を起こして、マックスから距離を離すと、大きく息を吐いてにっこり笑った。
「僕はゲイなんだ」
 マックスは、唖然としてコーヒーの雫をテーブルの上に零した。「あ!」と声を上げるマックスを見て笑いながら、ミゲルが紙ナプキンでテーブルを拭いた。
「すみません・・・」
 額に冷や汗が滲むのを感じながら、マックスはカップをテーブルの上に置いた。
「いや、驚かせたのは僕の方だから」
 彼は手を軽く上げてウエイトレスを呼ぶと、テーブルの上を拭いてくれるよう頼んだ。最初は面倒くさそうな表情を見せたウエイトレスも、ミゲルの輝くばかりの笑顔を見ると機嫌よくすぐにテーブルをきれいにしてくれたばかりか、半分以上零れてしまったコーヒーを新しいカップに取り替えてくれた。
「実は、高校の頃ははっきりと自覚していなくてね。だから、当時の君に対する思いは、僕自身よくわかってなかったんだけど。大学時代にまぁ、いろいろあって。・・・本当言うとね、忘れてたんだよ、君のことは」
 テーブルの上で手を擦り合わせながらミゲルがそう言う。
 彼は窓の外に目をやり ── それは過去を思い出していた目なのだろうか ── 小さく息を吐いた。
「で、編集長からあの写真を渡されて、一気に昔の気持ちを思い出した。今頃になってわかったって言うのかな。高校の頃感じたあの感情は、そういう意味だったんだって」
 ミゲルがマックスに顔を向けた。
 真摯な瞳だった。
「血塗れの君がいた。昔と同じね。君は今も戦っていて、しかも自分の命をかけて人を助けようとしていた。正直眩しかったよ。凄く・・・。心が震えた。だから、君をこうして口説いてる。記者としては失格だとしても」
 マックスは、思わずミゲルから視線を外した。
 その拍子に、周囲のテーブルの客が自分達の会話に耳をそばだてている気配に気がついた。急にマックスは不安になった。
「い、いいんですか? そんなこと大きな声で言ってしまって・・・」
 声を潜めるマックスに、ミゲルは肩を竦めた。
「平気さ。僕は既にそのことを公にカミングアウトしている。だから、このネタを雑誌に売ろうとしても全く意味がない。僕は、いつの時も正直に生きていたいんだ。ま、時としてそのお陰で、周囲を困らせてしまうこともあるんだが・・・。で、君も困っているね? 今」
 ミゲルが上目遣いで見上げてくる。
 マックスは、一瞬なんと答えていいか、わからなかった。
 しかし、それ自体が答えだった。
「いいんだ。返事を貰いたいとか、そういうのではないから。君がゲイに対してどのような考えを持っているかもわからない。もちろん、君に恋人がいるかいないかもわからないしね。ただ、僕の気持ちを知ってもらいたかった。それが肝心なんだ。本物の僕を知ってもらわないと、その先は始まらないからね」
 マックスは、その率直過ぎるミゲルの言動に、目を丸くする他なかった。


 ドーソンは、またもイラついていた。
 今日は休むとあんなに電話で強調したのに、新聞社から電話で呼び出されたのだった。
 何でも、編集室の先輩記者アンバーがよりにもよってこんな時に、過労でぶっ倒れたのだという。
 デスクに呼び出されたことよりも、デスクに代って後で電話に出てきたレイチェルのキレようが怖かったので、思わず「わかったよ」と答えてしまった。
 どうも自分は、あの女に弱い。
 彼女の方が年下なのに、いつもそうだ。
 付き合っていた頃よりもっと酷くなったような気がする。
 ドーソンは、彼の妻がアルコール依存症克服セミナーから帰って来る前に家を出ねばならなくなった。
 妻は疑り深い人間だった。
 結婚した当初は違ったが、アルコールに溺れていくに従い情緒が不安定になり、疑心暗鬼に陥っていったようだ。
 ドーソンも彼女のノイローゼ回復に対してはそれなりの協力と努力をしてきたが、もはやもう二人の関係は引き返せないところまで来ていると感じていた。
 ドーソンの妻は、妻というよりもう、『常に病気の状態を気に掛けてあげないといけない存在』になりかわっており、そこに愛情というものは感じ得なかった。どちらかといえば、同情に近いと言える。
 残念なことだが、ドーソンは、妻のことを信用できなくなっていた。
 だからドーソンは、今回の一連の爆弾事件で自分が独自に集めたデータの扱いを特別丁寧にせねばならないと思った。
 決して家の中に、それに関する資料やデータを置いてはいけないと思った。
 これは10年に一度、あるかないかの大スクープになるかもしれない。そんな大切なものを、例え家族であろうとも、第三者の目に触れさてはいけない。
 ── 少々面倒くさいが・・・。
 ドーソンは意を決すると、デスクトップパソコンやら、折畳式の簡易ベッドやら、暖房機器やらをチェロキーの荷台に詰め込んで、車をスタートさせた。
 目指すは、スラム街にあるボロアパート。
 どうせなら、日が高いうちに物を運び込んだ方が安心だ。夜のあの一帯は、何かと物騒だから。
 新聞社には、それから行っても遅くはない。どうせアンバーが取材してきた内容を新聞に掲載できる記事にまで起す作業を任されるのだろう。午後の3時までに間に合えばいい。
 ドーソンは、いきおいよくクラクションを鳴らしながら、車を走らせた。


 ドーソンが編集部に到着すると、すぐさまデスクに呼ばれた。
 案の定、ドーソンが予想していたように、社内で倒れたアンバーの取材してきた素材を特集記事に起す作業を頼まれた。
 他の記者達は、自分の持っている仕事をこなすのが精一杯で、他人の取材してきた素材を使って、まるで本人が見てきたかのような記事が書ける男は、ドーソンをおいて他にはいなかったからだ。その点で言えば、ドーソンは優れた新聞記者だった。
 彼の動物的勘は、真実しか書いてはいけない新聞という枠の中で、最大限のドラマ性を生み出す力があった。
 妻や同僚達との人間関係を築くのに多少欠陥があったとしても、仕事ができれば必要とされる。
 仕方がない。この記事を仕上げたら、資料室にでも出向いて、爆弾事件やジェイク・ニールソンなる人物に関する情報や資料を探すのもいい。
 ドーソンは、そう自分に言い聞かせながら、仕事を引き継いだ。
 アンバーの取材メモや素材は、福祉関係のものだ。
 ── これなら楽勝だ。いかようにも、書きようがあるからな。
 ドーソンは、アンバーの取材してきた素材に一通り目を通して、すぐにパソコンのキーボードを叩き始めた。
 今しがた現像室入った同僚のレイチェル・ハートが、今日アンバーと一緒に出向いて撮影してきた福祉施設の写真をすっかり現像してしまう頃にはもう、ドーソンは記事のほとんどを書き終えていた。
 さすがのレイチェルも、ドーソンのその才能には目を見張ってしまう。
「まるで、あんたがこのグループホームに行ってきたみたいね」
 レイチェルが記事の第一稿目を読み終えた時、彼女の口からはそのような台詞が半ば呆れるような口調で零れ出たのだった。
「まさか購読者の人達も、ピンチヒッターがこれを書いたとは思わないでしょうよ」
「そんな嫌味なこと言うなよ。折角人が休み返上で助けてやってんのに」
 確かにそれはそうだったので、レイチェルも素直に「ごめん」と謝ってきた。
 レイチェルと揃ってデスクの元に出向くと、ドーソンの記事は、ピンチヒッターで第一稿目でありながらも即座にオーケーが出た。やや少し過激なイメージのする言葉尻や表現を直せば、そのまま脱稿してもいいという許しが出た。
 ドーソンはレイチェルとよく組んで仕事をしているので、彼女がどんな写真を抑えてきたのかも、何となく予想ができていたのだろう。記事内容は、レイチェルの写真ともよくマッチしていた。
 ドーソンのその集中力の源が、どういう理由からくるのかを知ることのない二人は、ドーソンを些か見直したというような表情を浮かべた。
 満更悪い気はしないドーソンだったが、今はいち早く仕事を抜け出してしたいことがあった。
 ドーソンはいつにない勤勉さで、さっさと原稿を訂正すると、すぐさま脱稿して遅いランチを食べ、そそくさと編集室を抜け出した。


 ドーソンは地下一階にある資料室に向かった。
 C市で連続的に起こった、いまだ解決がついていない爆弾事件の資料を一から見直そうと思った。どこかに事件のヒントがあるのかもしれないと思ったのだ。ジェイク・ニールソン・・・ひいては、あの謎の男、ジム・ウォレスに関わる何かが。
 膨大なデータと写真や資料が詰め込まれた地下の資料室は、さながら大きな倉庫のような様相である。
 部屋の中は背の高いスチール製の棚が横に13列並べられ、奥はずっと深い。街の図書館に引けをとらない密度がある。事実、ここにはC市の歴史が保管されているのだ。
 時間の若い順に入口手前側の棚に資料が保管されていくので、比較的簡単に目的の資料があるところまで行き着いた。入口を入って一つ目の角を曲がると、そこに前年の冬季の資料が収められてある棚がある。マイクロフィルム化された新聞とそれに付随するデータや写真、資料が二つの棚に分けられて押し込まれてある。 
 先客がいた。
 薄暗くてよくわからない。
 最初は、爆弾事件を担当しているクライスラーかと思った。だが、その服装を見て違うと思った。
 棚から写真を取り出して、静かに見入っているその男は、デニム製のくたびれたシャツにジーパンという恰好で、胸元にぶら下がっているパスの紐の色を見ると、配送係の人間だということが伺えた。
 配送係の人間が、どうしてこんなところに・・・?
 ドーソンは首を傾げた。
 そもそも配送係の人間は、資料室の中に入れるパスカードを持っていないはずだ。どうしてここに入り込めたのだろう。
 誰かに、資料室のものを取ってくるように頼まれたのか。
 確かに資料室の中のものを探すのは面倒くさい。ベテラン記者になると、ついつい人を使ってしまう傾向がある。それにしてもクライスラーともあろう記者が、見習の新人記者に頼むのならともかく、配送係の中年男にその役を頼むとは、些か不自然に思えた。 
「おい、君、そこで何をしているんだ」
 ドーソンは、男に近づきながら声をかけた。
 男が、ドーソンに顔を向ける。
 ぎょろりとした瞳が、ドーソンを捉えた。
 その男の顔は。
 あっ!と声が出なかったのは、ドーソンが気転を利かせたからではなく、純粋に驚き過ぎて声が詰まったからに他ならない。
 男の顔を見て、ようやくドーソンは謎が解けた。
 ジェイクの顔を見て、何処かで見たことがあると、ずっと思っていた理由が。
 目の前で、『ベン・スミス』という身分証明書をぶら下げた男は、年をとって皺が増えたジェイク・ニールソン、その人であった。
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