Amazing grace

国沢柊青

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act.63

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 まるで現実感のない、夢の中をひた走っているような感覚。
 身体の感覚は、どれひとつとして麻痺はしていないはずなのに、自分の心には、目で見える光景も耳から聞える音も、まるで響いてこない。
 ウォレスは、廊下にある小さなワゴンにぶつかり、もんどりうってその場に倒れた。 
「大丈夫ですか?!」
 側にいた新人ナースが、血相を変えて飛んできた。 
「傷を見せてください!」
 看護師にそう言われ、ウォレスは初めて自分の手を見下ろした。
 床に手をついた時、床に散らばったピンセットがウォレスの手のひらに刺さっていた。全く、気がつかなかった。 
「じっとしていてください!」
 そういう看護師の言葉を無視して、ウォレスは無造作にピンセットを引き抜くと、すぐさま立ち上がって先を急いだ。
「ちょっと、あなた!! 怪我をしているのよ!」
 看護師の慌てた声。
 そんなことに構っている暇はないのだ。
 ── 一刻も早く、一刻も早くこの目で、彼の無事を確認したい・・・・。


 契約成立を記念したパーティーが華やかに盛り上がっていた頃、ベルナルド・ミラーズの元に「貴社社員の自宅で爆弾事件が発生した」という報告が入った。
 ミラーズは、その社員の名前を確認するとすぐ、ウォレスを呼んだ。
「何も言わず、チャーター機ですぐさま帰りなさい。我々が帰る足については心配無用。君はセント・ポール総合病院に向わねばならない」
 ウォレスはそこで、自分の最愛の人が事件に巻き込まれたことを知った。
『行ってらっしゃい! どうか気をつけて』
 別れ際、そう言って自分を見送ってくれたマックスの姿が目に浮かぶ・・・。
 次の瞬間には、ウォレスはレストランの前に停まっていたタクシーに飛び乗ってた。
 社長秘書という身でありながら、会社が用意したチャーター機を私用で使わせてもらうという社員にはあるまじき行為を自分がしているということにも、まるで気が回らなかった。
 いつも冷静沈着なウォレスを知っている人間なら、今の彼の取り乱し様は、信じられない光景に見えただろう。
 たった一人の乗客を乗せてとんぼ返りすることになったチャーター機の機内で、ウォレスは病院の電話番号がわからないとヒステリーを起し、そこら中の物に八つ当たりした。
 普段の彼ならば、番号案内で問い合わせれば病院の電話番号は簡単にわかることなど、即座に思いつくはずだ。
 結局彼がそのことに気がついたのは、飛行機を降りて空港でタクシーを捕まえた車内でのことだった。
 携帯電話で病院に問い合わせをすると、マックスは確かにセント・ポール総合病院に収容され、現在治療を受けているということが判明した。そして幸いにも、命に別状がないこともその時に知らされた。
 だがこの目で見ないと、安心はできない。
 手のひらの血をジャケットの裾で押えながら、ウォレスは救急治療室がある一角に走りこんだ。
 廊下の先のソファーに、痩せて小さく見えるレイチェルの姿が見えた。
「その怪我を手当てさせてください!」
 ウォレスを追ってきた看護師の声が響いた。
 その声にレイチェルが顔を起す。
 ウォレスと目が合った。
 レイチェルが肩の力を抜くように大きく息を吐き出したのが見えた。
 彼女は、当然のことながら、酷く物悲しい顔をしていた。だがそれは、熱く感情が昂ぶっているというよりは、とても静かな悲しみに見えた。
 ウォレスは、追ってきた看護師がウォレスの手にガーゼを押し付けるのも構わず、レイチェルに近づいた。ちっとも言うことを聞いてくれない患者の態度に、若い看護師は半べそをかいている。
 レイチェルは、新しい血が流れ出ているウォレスの右手を見て、失敗した子どもを見るかのように慈悲に満ちた表情を浮かべ、溜息をついた。
「どうしたの? あなたらしくない。マックスに会う前に、きちんと怪我の手当てを受けて」
「しかし・・・」
 不安に顔を歪ませるウォレスに、レイチェルは少し微笑んだ。
「マックスなら大丈夫よ。治療も無事終わって、今は寝てるところ。だから、ね」
 子どもに言い聞かせるようにレイチェルがそういうのを聞いて、ウォレスも傍らの看護師に初めて視線をやった。
「すまない」
 ウォレスは、看護師の前に手を差し出す。
 分厚いガーゼを包帯で固定される。
 看護師は苛立った様子で、過剰な治療をウォレスに施して去って行った。 
「どこで怪我したの?」
 不機嫌な看護師の後ろ姿を見送りながら、レイチェルは訊く。 
「さっき、廊下にあったワゴンにつまずいてしまって。床に落ちたピンセットが刺さってしまったんだ」
「あら、あなたそれじゃ、裁判沙汰にしたっておかしくない怪我じゃない。あの看護師もそのことに気がつかなかったのかしら」
 きっとあの看護師、新人ね・・・とレイチェルは呟いて、笑った。ウォレスも少し、緊張を解す。
「病室はこっちよ。大事を取って、まだ救急治療室のベッドにいるの」
 レイチェルは、ガラス越しにマックスのベッドを指差した。
 くしくもそのベッドは、シンシアが轢き逃げ事故の際に寝かされていたベッドだった。
「・・・マックス・・・!」 
 ウォレスは、マックスの名前を呼んだ切り、絶句してしまう。
 ガラスに触れる手が、目に見えて震えていた。 
「・・・・本当に・・・、本当に彼は・・・・?」
 レイチェルはウォレスの背中に手を置き、優しく摩った。
「ええ。本当に大丈夫。怪我自体は酷いけど、きちんと治るものばかりよ。腕を骨折していて、胸骨にも二本ヒビが入っているんですって。切り傷も浅いものばかりだから、痕に残ったとしても目立たないでしょうって。あと、左の鼓膜も破けているらしいけど、それもきちんと治るから。頭蓋骨や脳には損傷がなかったって言ってたわ。不幸中の幸いだって。病室にも入れる。どうぞ、入って」
 ウォレスが、恐る恐るベッドに近づく。
 そして彼はベッドの傍らに跪くと、傷ついたマックスの手を握って、懺悔するように自分の額に押し当てた。
「手が・・・、手が酷く冷たい・・・」
 不安げにウォレスが言う。 
「今は眠ってるから・・・。椅子に座って」
 ウォレスの余りの憔悴振りに、レイチェルは彼を気遣って彼の元に椅子を運んだ。ウォレスの身体を支えて、椅子に座らせる。
 深い悲しみに捕らわれたウォレスの横顔を見つめて、彼が心底マックスのことを愛していると ── ひょっとしたらマックスよりも、彼の方の気持ちが重いのかも知れないと思った。
 レイチェルは、自分自身不謹慎だと思いながらも、深い眠りに落ちているマックスの顔を見つめて、「よかったわね、マックス・・・」と心の中で呟いた。
 だがそのことを思うと、益々胸が痛くなる。
 レイチェルはこの先自分が言おうとしていることに自分自身が傷つくのを感じ、涙を流した。
 それは到底抑えられるものではなく、彼女は病室にウォレスを残して、病室近くのトイレに駆け込んだ。
「・・・なんで、こんな・・・」
 レイチェルは、顔をくしゃくしゃに歪めると、その場にしゃがみこんで泣いた。
 運命の残酷さに間違いなく翻弄される二人を思い、泣き崩れたのだった。


 ジェイコブは、酷く動揺していた。
 それは、あの憎たらしい金髪男が予想に反して助かったことに対してではない。
 そしてこの爆発事件も、一連の爆弾犯と同一人物であると夜のニュースで発表されたからでもない。 
 ジェイコブの震える目は、昨日起きた新聞記者宅の爆弾事件を報じる今朝の朝刊に釘付けになっていた。
 もちろん、捜査当局は昨日の爆弾事件も同一犯との見解を発表していた。
 捜査の進展状況については、ほとんど進んでいないということが見て取れた。
 現実に自分の身の回りに警察の臭いは漂ってこなかったし、爆弾が爆発した現場周辺を何気なく歩いて回るようなことをしてみても、すれ違う警官達はまるっきりジェイコブに興味を示さなかった。ジェイコブにとって、それもまた新たな快感となっていた訳だが。
 しかし、新聞記者宅の爆弾事件は、身に覚えのないことだった。
 本当にまるっきり、夢にも考えたことがない。
 事件の被害者は、ジェイコブも知っている男だった。
 あの運命の記事を書いたケヴィン・ドースン。
 彼によって、自分の新たな輝かしい人生が切り開かれたと言ってもいい。
 彼の記事によって ── その記事は結局発行されることはなかったのだが ── ジェイコブはジェームズ・ウォレスという存在を知り、彼を守ることによって、自分が優れた人間であるということが自覚できたのだから。
 感謝こそすれ、どうしてそんな彼を、家もろとも吹き飛ばすだなんて考えるだろう。
 自分がしていないことを、あたかも自分の仕業だと世間に思われるのが腹立たしかった。できることなら、「その事件だけは俺のせいじゃない」とテレビカメラの前で告白したかった。
 ── まったく、冗談じゃない。この前、少々険悪になっていたベンとの間柄も、何となく仲直りしかけていたというのに。これじゃ、向こうが俺の神経を逆撫でしているようなものじゃないか。
 ジェイコブは、あの新聞記者を死に追いやった爆弾を作ったのは、ベンであることを悟っていた。そうでないと、こんな田舎町 ── 町自体は大きいが、大都会から比べればまだまだ田舎だ ── に、何人もの爆弾魔がいることになる。 
 それに加え腹立たしいのは、新聞記者の事件の手際が一番いいという新聞の論評である。しかも、複数の新聞社が似たような社説を述べていた。
 ── じゃなにか? 俺の作った爆弾は凄くないっていうのか?
 そんな記事を書いた記者らに、自分が作った爆弾を身体に括りつけるぞと脅せば、きっとそいつらは泣いて命乞いをするだろうに・・・。 ── 腹が立つ。
 自社の社員が被害者となったCトリビューンだけは、事実だけを伝える控えめな報道を続けていた。それは、身内で起こった事件にどう対応していいかわからない・・・といった動揺が見てとれた。
 しかしジェイコブはそれを、報道する人間の『知性』だと受け取った。
 タブロイド誌とは違うはずの新聞が、まるでワイドショーが騒ぐかのように派手派手しい報道を繰り返すことを、ジェイコブは快感に思うと同時に、嫌悪感も感じていた。特に爆弾犯 ── つまり自分を“ただの気の狂った犯罪者”として扱うのには腹が立った。
 ── 自分は、大儀のために頑張っているというのに・・・。
 よりにもよってベンは、どうしてあんなことをしたのだろう。
 俺に対する嫌がらせなんだろうか。
 しばらく顔を合わせてないベンのことが気に掛かった。
 ── 余計なことをしないでくれと言わなくちゃ・・・。
 ジェイコブはそう思いながら、指の爪をガリガリと齧ったのだった。
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