陽気な吸血鬼との日々

波根 潤

文字の大きさ
52 / 89
さよならの前のふんわりパン

五十二、

しおりを挟む
「大、丈夫……」

 咄嗟にそう言って、首を捩ってケリーを振り向いた。

(近い……。)

普段は見上げる位置にあるケリーの顔が、高さも距離もこれまでより近くにあって驚き、気恥ずかしくなって目を逸らす。後を追うように鼓動が速くなって、思ってもみなかったことで戸惑った。

(なんでドキドキなんて……踏み外してびっくりしたからかな)

胸の高鳴りの理由が分からず、無理矢理そう結論付けた。床に降りてケリーから離れたが、触れられたままの腕のせいでなぜだか緊張してしまう。

「落ちるかと思った!本当に大丈夫?」
「別に、落ちてもたかがしれてるし……」

慌てるように言うケリーに、つい素っ気ない態度をとってしまった。気恥ずかしいというのもあるが、そもそも梯子はもう何段か降りていて、床からも近い位置であった為、落ちても少し体を痛めるくらいであったはずだ。慌てるような高さでは無いし、心配しすぎだとほんの少し呆れるような気持ちもこもっていた。
 ケリーが何か言いたげな様子で口を開いたが、言葉を飲み込むように一度閉じた。ふっと表情を緩めて頭を撫でられる。

「……低い場所から落ちても怪我はするかもしれないでしょ。踏み外した時に足首とか痛めてない?」
「うん、痛くない。大丈夫」
「そっか、良かった」

普段通りのケリーの様子に、俺の気持ちも落ち着いてきた。撫でられるのは心地よいが、テーブルの上に置かれたホームベーカリーに意識を向ける。テテが興味深そうに箱を見上げていて、時折ペタペタと触っていた。

「テテ、パン食べられる?」
「食べるよ!一緒に食べられるね」
「ぴゃー!」

両手をあげてテテが嬉しそうにする。パンを作る機械というのがわかったようだ。箱から出すと、黒色で、炊飯器のような形の物が出てきた。縦に若干長く、もっと全体的に四角い。箱を開けて上から見たことしかなかったので、全体像を見るのは初めてだった。

「これでパンが焼けるんだ」
「へー!すごい!」

箱に入っていた説明書をざっと読む。大体四時間程で出来上がるようだ。昼は過ぎてしまうが、思いの外早くできるようで今日中に食べることができそうだ。
 だが、急に思い立ったが為に一つ問題があった。

「材料あるっけ?」
「どうだろ」

パン用の材料がこのアパートに常備されているはずもなく、また、何が必要なのかも詳しくは知らなかった。説明書に書いてあるのを見ると、塩や砂糖はあるがそもそも小麦粉があるかも怪しい。

(やっぱ作るの難しいかな。)
「ドライイーストだけ無いね」
「……え?」

買うもの多いと大変そうだから諦めるしかないか、と思っていた時、ケリーが説明書を見ながらそう言った。まさかと思って、驚いて聞き返す。

「ドライイーストだけ?」
「え?うん。他はあるよ」
「小麦粉は?」
「ある!カレーにも入れたし!」
「この、スキムミルクは?」
「ある!パスタのソースとかに使ってたよ!」

ケリーが普段どのような食材で料理を作っているのか把握しきれておらず予想外だったが、殆どの材料が揃っていた。いつも美味しく食べていた料理だったが随分と手が込んでいたのだと、分かっていたつもりでもしっかりと理解できていなかった気がして申し訳なくなる。

(ケリーは気にしないかもしれないけど。)
「ドライイースト、買ってくる」

謝るのは違う気がして、せめて足りない材料は買いに行こうと財布を手に取った。だが、ケリーが首を横に振る。

「俺行ってくるよ!清飛は待ってて」
「いや、でも……」

立ちあがろうとしたが、肩に手をかけられて止められてしまった。俺が返事をする前にケリーは「行ってきまーす!」と言ってアパートから出て行った。

「元気……」
「ぴゃー!」
「テテ、テテのご主人は元気だね」

俺の指にギュッと抱きつくテテを、反対の手で撫でながらそっと話しかける。
 ふと、もしかしたら二人でゆっくり話せるチャンスなこれが最後かもしれないと思った。掌を広げると、テテがピョンと乗った。顔の前で、じっとテテを見る。

「テテとも明日でお別れだね」
「ぴゃ?」
「最初はびっくりしたけど、賢くて優しくて、テテとビー玉で遊ぶの楽しかったよ」
「ぴゃー」
「好きになってくれてありがと。テテのこと大好きだよ」

頬を擦り寄せられ、指が少し濡れたような感覚がした。不思議に思って見てみると、テテが薄らと涙を浮かべているのが見えた。愛しさがこみあげ、胸がいっぱいになる。

「また泣かせちゃったね」
「ぴゃー……」
「ごめんね」

テテの小さな頬に触れて涙を拭うと、小さな掌が俺の指にそっと触れた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

  【完結】 男達の性宴

蔵屋
BL
  僕が通う高校の学校医望月先生に  今夜8時に来るよう、青山のホテルに  誘われた。  ホテルに来れば会場に案内すると  言われ、会場案内図を渡された。  高三最後の夏休み。家業を継ぐ僕を  早くも社会人扱いする両親。  僕は嬉しくて夕食後、バイクに乗り、  東京へ飛ばして行った。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

ビッチです!誤解しないでください!

モカ
BL
男好きのビッチと噂される主人公 西宮晃 「ほら、あいつだろ?あの例のやつ」 「あれな、頼めば誰とでも寝るってやつだろ?あんな平凡なやつによく勃つよな笑」 「大丈夫か?あんな噂気にするな」 「晃ほど清純な男はいないというのに」 「お前に嫉妬してあんな下らない噂を流すなんてな」 噂じゃなくて事実ですけど!!!?? 俺がくそビッチという噂(真実)に怒るイケメン達、なぜか噂を流して俺を貶めてると勘違いされてる転校生…… 魔性の男で申し訳ない笑 めちゃくちゃスロー更新になりますが、完結させたいと思っているので、気長にお待ちいただけると嬉しいです!

処理中です...