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第7話
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アイルランドの夏は比較的過ごしやすい。突然の雨を除けば、人だけでなく馬にとっても素晴らしい環境と言えた。そんな中、マグワイアファームで調整を続ける雪子は仁菜の指導の元、ヨーロッパの競馬に馴染もうとしていた。
「ムッシュ・ルブランの推薦もあるから、騎乗依頼が増えてるわね」
「ありがとうございます」
事務所でコーヒーを飲みながら、タブレットでスケジュールを確認する。自身もそうだが、雪子にもそれなりの依頼が入っていた。その中にオズワルド・ハワードの依頼があった。
オズワルド・ハワード。カーライル伯爵ハワード家の末子である彼の目利きは一流である。一時期、仁菜たちは彼と険悪であったが、それも先日のキングジョージⅥ&クイーンエリザベスステークスでヴァネッサの騎乗したサクル・サハールが勝利したことで和解した。
そんな彼が初めてマグワイアファームを訪れた日。雪子の調教風景が目にとまったらしい。彼は是非とも自分の馬に乗って欲しいと依頼してきた。戸惑う雪子を励まし、仁菜が話を纏めた。
「やはり、オズワルド卿の依頼を受けたのが功を奏したようね」
「おかげで来週はイギリスで騎乗です」
雪子の顔に浮かぶのは絶対的な自信だ。その様子に仁菜は安堵したのだった。
「やはり、僕の目に狂いはなかったようだ」
そう言って賛辞を送るのはオズワルド・ハワードだ。ウィナーズサークルから戻った雪子に手を差し出している。雪子は笑顔で握手を交わした。
「これからの活躍に期待しているよ」
「ありがとうございます、ミスター・ハワード」
「父や兄達にも君のことは話しておこう。騎乗機会が増えるはずだ」
オズワルドのその言葉は社交辞令ではなかった。八月に入ると、雪子はアイルランドのみならず、イギリスでも騎乗機会が増える。重賞への依頼はまだ無いが、どの馬主からも評判は上々だった。
「良かったわね。これでフランスでの騎乗機会も貰えれば言うことなしね」
「はい!」
八月も終わりに近づいた頃、斗馬が訪ねてきた。雪子にヴァイザァブリッツの状況を伝えるためだ。
「予定通り、フランスのルフォール厩舎に入った」
「そうですか……」
斗馬に愛馬の近況を聞かされているにもかかわらず、雪子の表情はどこかくらい。それに気付かない仁菜ではない。視線でどういうことかと斗馬に尋ねる。だが、斗馬は視線を逸らすだけで何も答えなかった。
その夜、仁菜は斗馬に詰め寄った。
「よもやとは思うけど、ここまでしといて雪子を降ろす気じゃないでしょうね?」
「……」
「斗馬!」
斗馬はその場から逃げ出したかった。今、この場で真実を告げることは自身の不甲斐なさを晒すことになるからだ。
「凱旋門賞でヴァイザァブリッツの鞍上は津島直哉に決まっている」
「どういうこと?」
「それが父がゴーサインを出すための条件だったからだ」
津島直哉は年間212勝を挙げ、昨年のリーディングジョッキーとなった日本が誇るトップジョッキー。デビューしたその年にG1に初参戦し、二年目にはG1初勝利を挙げている。海外でも評価は高く、【天才】と呼ばれている。フランスのトップジョッキーでもあるジュリアンも一目置く存在だ。
「僕も何とか掛け合ってはみた。だが、決して譲らなかった。高橋を乗せるなら欧州遠征は許可しないと言われた」
ヴァイザァブリッツの登録上の馬主は鷲尾兵馬だ。いくら現場で指揮をしているのが斗馬であっても、最終的な決定権は兵馬が握っている。
「直哉は今、父には向かうことは出来ない」
「何故?」
「直哉の奥さんは妊娠8ヶ月だ。二人にとって待望の赤ん坊。父に楯突いて、騎乗機会を失う訳にはいかないんだよ」
仁菜は悔しさの余り、唇を噛む。だが、それ以上に苦しい顔をしているのは斗馬だった。彼は右拳で柱を殴りつけた。その肩は悔しさに震えていた。
(どうにかして、あの男に知らしめなくては……)
仁菜は決意を新たにしたのだった。
九月に入ると、フランスでも騎乗機会を得ることになった雪子。着実にヨーロッパ競馬になれていった。
「いよいよ、フランスでの騎乗機会が巡ってきたわね」
「はい。ムッシュ・ルブランのおかげでニエル賞までに何度か騎乗機会をいただけました」
「なら、心配なさそうね」
仁菜の言葉に雪子は力強く頷く。雪子は凱旋門賞の前哨戦、ニエル賞を目指すヴァイザァブリッツに騎乗するため、二日後にはフランスへ発つことになっていた。その顔は自信に満ちあふれており、仁菜もホッとしたのだった。
その夜、雪子のために送別会が開かれる。皆が凱旋門賞での再会を約束してエールを送ったが、当の雪子は笑顔を浮かべるがどこか表情は暗い。それに気付いた仁菜だったが、自身もアイリッシュチャンピオンステークスを控えており、深く立ち入ることしなかった。
「仁菜さん」
「どうしたの?」
「きちんとお礼をしてなかったと思って……」
「そんなの気にしなくて良いわ」
「そういうわけにはいきません! もう会うこともないかもしれませんから」
その言葉に斗真との会話が思い出された。
「凱旋門賞では津島騎手が騎乗することになっています」
「斗馬から聞いているわ」
「え?」
「先月、ここを尋ねてきっと気に問い詰めたのよ」
「そう、だったんですか……」
悲しげに笑う雪子の肩を叩いて励ます。
「ニエル賞で結果を残して、次に繋げるの。そうすれば、雪子にもチャンスが巡ってくるはずよ! なんて言ったって、あなたはNHKマイルカップ・宝塚記念を勝ったG1ジョッキーなんだから」
「仁菜さん……」
自分の戦績を評価して貰えたことで雪子は勇気を貰った。そして、胸を張ってフランスへと渡ることが出来たのだった。
「急に寂しくなったわねぇ」
何とはなしに呟いたのはマリーだった。仁菜は叔母の言葉に寂しげな笑みを浮かべた。フランスへ渡った雪子からはメールで近況を聞いている。アレクシスの紹介でパリを拠点に騎乗機会を得ているようだった。
「ユキコはあちらでホームシックになってなければいいけど……」
「あの子はそんなにヤワじゃないわ」
「でも、ここにいたときとは状況が違うでしょ?」
マリーの心配に返す言葉のない仁菜。叔母の言わんとしていることは分かっていた。今の雪子は完全なアウェイだ。アレクセイの支援がなければ、正直門前払いされてもおかしくない。ましてや、母国語で話す相手もいない状況だ。
だが、仁菜は彼女がそれしきのことで潰れるような女性ではないことを知っていた。どんな逆境にあっても弱音を吐かない。それが高橋雪子という人物だ。
「なにせ雪子は日本初の女性G1ジョッキーなんだから」
「そうね!」
仁菜の言葉に元気を取り戻したかのようにマリーは明るく笑ったのだった。
その夜、仁菜はソレイユ・ノアールの馬房を訪れた。
「ぶぅぅぅぅ」
首筋を撫でてやればソレイユ・ノアールは気持ちよさそうに鼻を鳴らした。
「いよいよ、アイリッシュチャンピオンステークスね」
もう一度、首筋を撫でると仁菜は呟いた。ソレイユ・ノアールは瞬きをしては首をかしげている。その瞳は『どうかしたの?』と気遣っているように見える。そして、彼女の顔をペロペロとなめ始めた。
「ソレイユ・ノアール……」
仁菜の心の糸が切れた。気付けば、頬を涙が流れ落ちていた。ソレイユ・ノアールはその涙を拭うように舐め続ける。
「ダメよ。あんまり舐めたら塩分の取り過ぎになるわ」
それでもソレイユ・ノアールは止めなかった。仁菜は自分の手で涙を拭った。そして、どうにか笑みを浮かべている。
「私は大丈夫」
ソレイユ・ノアールの表情は『本当に?』と聞いていたが、仁菜はその首をポンポンと叩いた。
「私は必ず勝つ。だから、力を貸してね」
ソレイユ・ノアールは鼻を膨らまして『任せておけ!』と言わんばかりに嘶き、前脚で寝わらを搔いて闘争心を剥き出しにした。
仁菜は感じ取っていた。次のレース、アイリッシュチャンピオンステークスが自分の人生において新たな分岐点となることを……。
「ムッシュ・ルブランの推薦もあるから、騎乗依頼が増えてるわね」
「ありがとうございます」
事務所でコーヒーを飲みながら、タブレットでスケジュールを確認する。自身もそうだが、雪子にもそれなりの依頼が入っていた。その中にオズワルド・ハワードの依頼があった。
オズワルド・ハワード。カーライル伯爵ハワード家の末子である彼の目利きは一流である。一時期、仁菜たちは彼と険悪であったが、それも先日のキングジョージⅥ&クイーンエリザベスステークスでヴァネッサの騎乗したサクル・サハールが勝利したことで和解した。
そんな彼が初めてマグワイアファームを訪れた日。雪子の調教風景が目にとまったらしい。彼は是非とも自分の馬に乗って欲しいと依頼してきた。戸惑う雪子を励まし、仁菜が話を纏めた。
「やはり、オズワルド卿の依頼を受けたのが功を奏したようね」
「おかげで来週はイギリスで騎乗です」
雪子の顔に浮かぶのは絶対的な自信だ。その様子に仁菜は安堵したのだった。
「やはり、僕の目に狂いはなかったようだ」
そう言って賛辞を送るのはオズワルド・ハワードだ。ウィナーズサークルから戻った雪子に手を差し出している。雪子は笑顔で握手を交わした。
「これからの活躍に期待しているよ」
「ありがとうございます、ミスター・ハワード」
「父や兄達にも君のことは話しておこう。騎乗機会が増えるはずだ」
オズワルドのその言葉は社交辞令ではなかった。八月に入ると、雪子はアイルランドのみならず、イギリスでも騎乗機会が増える。重賞への依頼はまだ無いが、どの馬主からも評判は上々だった。
「良かったわね。これでフランスでの騎乗機会も貰えれば言うことなしね」
「はい!」
八月も終わりに近づいた頃、斗馬が訪ねてきた。雪子にヴァイザァブリッツの状況を伝えるためだ。
「予定通り、フランスのルフォール厩舎に入った」
「そうですか……」
斗馬に愛馬の近況を聞かされているにもかかわらず、雪子の表情はどこかくらい。それに気付かない仁菜ではない。視線でどういうことかと斗馬に尋ねる。だが、斗馬は視線を逸らすだけで何も答えなかった。
その夜、仁菜は斗馬に詰め寄った。
「よもやとは思うけど、ここまでしといて雪子を降ろす気じゃないでしょうね?」
「……」
「斗馬!」
斗馬はその場から逃げ出したかった。今、この場で真実を告げることは自身の不甲斐なさを晒すことになるからだ。
「凱旋門賞でヴァイザァブリッツの鞍上は津島直哉に決まっている」
「どういうこと?」
「それが父がゴーサインを出すための条件だったからだ」
津島直哉は年間212勝を挙げ、昨年のリーディングジョッキーとなった日本が誇るトップジョッキー。デビューしたその年にG1に初参戦し、二年目にはG1初勝利を挙げている。海外でも評価は高く、【天才】と呼ばれている。フランスのトップジョッキーでもあるジュリアンも一目置く存在だ。
「僕も何とか掛け合ってはみた。だが、決して譲らなかった。高橋を乗せるなら欧州遠征は許可しないと言われた」
ヴァイザァブリッツの登録上の馬主は鷲尾兵馬だ。いくら現場で指揮をしているのが斗馬であっても、最終的な決定権は兵馬が握っている。
「直哉は今、父には向かうことは出来ない」
「何故?」
「直哉の奥さんは妊娠8ヶ月だ。二人にとって待望の赤ん坊。父に楯突いて、騎乗機会を失う訳にはいかないんだよ」
仁菜は悔しさの余り、唇を噛む。だが、それ以上に苦しい顔をしているのは斗馬だった。彼は右拳で柱を殴りつけた。その肩は悔しさに震えていた。
(どうにかして、あの男に知らしめなくては……)
仁菜は決意を新たにしたのだった。
九月に入ると、フランスでも騎乗機会を得ることになった雪子。着実にヨーロッパ競馬になれていった。
「いよいよ、フランスでの騎乗機会が巡ってきたわね」
「はい。ムッシュ・ルブランのおかげでニエル賞までに何度か騎乗機会をいただけました」
「なら、心配なさそうね」
仁菜の言葉に雪子は力強く頷く。雪子は凱旋門賞の前哨戦、ニエル賞を目指すヴァイザァブリッツに騎乗するため、二日後にはフランスへ発つことになっていた。その顔は自信に満ちあふれており、仁菜もホッとしたのだった。
その夜、雪子のために送別会が開かれる。皆が凱旋門賞での再会を約束してエールを送ったが、当の雪子は笑顔を浮かべるがどこか表情は暗い。それに気付いた仁菜だったが、自身もアイリッシュチャンピオンステークスを控えており、深く立ち入ることしなかった。
「仁菜さん」
「どうしたの?」
「きちんとお礼をしてなかったと思って……」
「そんなの気にしなくて良いわ」
「そういうわけにはいきません! もう会うこともないかもしれませんから」
その言葉に斗真との会話が思い出された。
「凱旋門賞では津島騎手が騎乗することになっています」
「斗馬から聞いているわ」
「え?」
「先月、ここを尋ねてきっと気に問い詰めたのよ」
「そう、だったんですか……」
悲しげに笑う雪子の肩を叩いて励ます。
「ニエル賞で結果を残して、次に繋げるの。そうすれば、雪子にもチャンスが巡ってくるはずよ! なんて言ったって、あなたはNHKマイルカップ・宝塚記念を勝ったG1ジョッキーなんだから」
「仁菜さん……」
自分の戦績を評価して貰えたことで雪子は勇気を貰った。そして、胸を張ってフランスへと渡ることが出来たのだった。
「急に寂しくなったわねぇ」
何とはなしに呟いたのはマリーだった。仁菜は叔母の言葉に寂しげな笑みを浮かべた。フランスへ渡った雪子からはメールで近況を聞いている。アレクシスの紹介でパリを拠点に騎乗機会を得ているようだった。
「ユキコはあちらでホームシックになってなければいいけど……」
「あの子はそんなにヤワじゃないわ」
「でも、ここにいたときとは状況が違うでしょ?」
マリーの心配に返す言葉のない仁菜。叔母の言わんとしていることは分かっていた。今の雪子は完全なアウェイだ。アレクセイの支援がなければ、正直門前払いされてもおかしくない。ましてや、母国語で話す相手もいない状況だ。
だが、仁菜は彼女がそれしきのことで潰れるような女性ではないことを知っていた。どんな逆境にあっても弱音を吐かない。それが高橋雪子という人物だ。
「なにせ雪子は日本初の女性G1ジョッキーなんだから」
「そうね!」
仁菜の言葉に元気を取り戻したかのようにマリーは明るく笑ったのだった。
その夜、仁菜はソレイユ・ノアールの馬房を訪れた。
「ぶぅぅぅぅ」
首筋を撫でてやればソレイユ・ノアールは気持ちよさそうに鼻を鳴らした。
「いよいよ、アイリッシュチャンピオンステークスね」
もう一度、首筋を撫でると仁菜は呟いた。ソレイユ・ノアールは瞬きをしては首をかしげている。その瞳は『どうかしたの?』と気遣っているように見える。そして、彼女の顔をペロペロとなめ始めた。
「ソレイユ・ノアール……」
仁菜の心の糸が切れた。気付けば、頬を涙が流れ落ちていた。ソレイユ・ノアールはその涙を拭うように舐め続ける。
「ダメよ。あんまり舐めたら塩分の取り過ぎになるわ」
それでもソレイユ・ノアールは止めなかった。仁菜は自分の手で涙を拭った。そして、どうにか笑みを浮かべている。
「私は大丈夫」
ソレイユ・ノアールの表情は『本当に?』と聞いていたが、仁菜はその首をポンポンと叩いた。
「私は必ず勝つ。だから、力を貸してね」
ソレイユ・ノアールは鼻を膨らまして『任せておけ!』と言わんばかりに嘶き、前脚で寝わらを搔いて闘争心を剥き出しにした。
仁菜は感じ取っていた。次のレース、アイリッシュチャンピオンステークスが自分の人生において新たな分岐点となることを……。
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