知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆の如し~武田家異聞~

氷室龍

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林の章

晴信、【甲州法度之次第】を定める

天文十六年(1547年)、晴信は向嶽寺に出世道場として門派の繁栄を図るようにとの朝廷側の内意を伝えた。五月には後奈良天皇の【興国寺に準ずべし】との綸旨りんじ(蔵人が天皇の意を受けて発給する命令書)が出される。これにより晴信は寺中法度を出して、学問に専念するようにと求めたのである。

「菜園の耕作を禁止することは開山の遺戒には背くことになる。そのことは重々承知しておるが、この甲斐を守るためと思うて受け入れてもらいたい」
「御館様。頭をお上げ下さい」

晴信は向嶽寺の僧侶たちに頭を上げて頼んだのであった。これに驚いたのは僧侶たちである。慌てて近づき、頭を上げるようにと懇願したのだ。

「そのように頭を下げられては受けぬ訳にはいきませぬ。主上の綸旨も出され、むしろこの上ない名誉にございます」
「それでは……」
「はい。御館様のご意向に添えるよう精進いたします」

住職の返事に控えておる僧侶たちも同意した。その様子に晴信が安堵したのは言うまでもない。

「これよりは学問に励み、その教えを広く子供たちに広めていただきたい」
「子供たちに、でございますか?」
「そうだ。身分は問わぬ。百姓だろうが、猟師の子であろうが関係なく学びたい者は皆受け入れてやって欲しい」
「しかし、それでは……」
「必要な物は何なりと申して下され。この晴信が寄進いたします」
「そこまでおっしゃるのでしたら……」

住職は晴信の頼みを快く受け入れたのだった。
このとき、晴信は法の整備を急いでいた。だが、それを広めるには領民たちにある程度の学が必要である。そのためにも学問に専念する官寺が必要だと考えていたのだ。それだけではない。これから信濃進攻を強めればどうしても人手が足らなくなる。信濃を確実に武田の領国としていくためには晴信の意思を正確に把握し、実行に移せる家臣が必要であった。

(これから国を大きくして行くにはまだまだ人手が足らぬ。そのためにも学問を広げ、人材を集めねば……)

その強い思いが今回の綸旨授受に繋がったとも言えた。



それと並行して行われたのが【歌会】である。駿河より冷泉為和れいぜんためかずが湯治に訪れたのに合わせて開かれた。それは晴信の教養の高さを物語っていた。勿論それだけではない。為和を通して駿河の情勢を知るためでもあった。

「さすがは晴信殿。此度も素晴らしい歌にございます」
「為和殿に褒められれば自信もつきまする」
「これならば、いつ上洛なさっても公方様にお目通り出来ましょう」

為和の言葉がお世辞だと分かっていても晴信は嬉しかった。自分も漸く為政者としてその一歩を踏み出したことを実感出来たからだ。

「とはいえ、まだまだ義元殿には……」

その一言に晴信の目つきが変わる。それは態度にも現れ、手にした扇がギリギリと音を立てて軋む。それを分かった上で為和は更に晴信を煽ってくる。

「この晴信には何が足りぬと仰せか?」
「一言で言うならば、【法】にございましょう」
「法、とな?」

為和は分かっていて敢えて指摘してくる。それを晴信はグッと堪えて耳を傾けた。
為和が示したのは今川が定めた【仮名目録かなもくろく】だった。これは元々は先々代・氏親うじちかが定めたものである。それを五男で現当主・義元が修正を加え、完成させた。これにより駿河のみならず遠江とおとうみの領国経営も順調に進められたのである。

「甲斐は国人衆による合議制。その解釈は各個人によってまちまちでしょう。更にはいつ何時、武田を見限るかもしれませぬ」

それは信虎の時代からの懸念事項であった。痛いところを突かれ、晴信は押し黙るより仕方ない。

「そのために向嶽寺を官寺に推挙されたのでありましょう?」
「為和殿……」
「学ぶ者が増えれば、法を理解する者も増えまする。法を理解出来れば国は一つに纏まります」

そこで為和は一度言葉を切る。晴信が全神経を傾けて自分の次の言葉を待っているのを確認してから再び話し始めた。

「甲斐を治める法。甲州法度とでも申しましょうか。それを定め成されるが宜しいでしょう」
「甲州法度……」

晴信に一筋の光が見えた。だが、それに釘を刺すかの如く為和は一言加える。

「法は皆が理解出来てこそ初めてその効力を得るのです。そのこと、お忘れなきよう……」



為和が甲府を去ったあと、晴信はどのように法を整備するかを蓮海東堂ら親交のある僧侶に意見を求めた。それを元に一門衆や譜代衆、国人衆とも合議を重ねる。その結果、五月末には草案が纏まった。だが、ここで一つ問題が起きる。それはこの法を如何にして領民に浸透させるかであった。

「いやはや、難題にございますなぁ」
「百姓は文字が読めぬ者も多い」
「如何したものか……」

宿老の板垣信方、甘利虎康、原虎胤が頭を悩ます。それは飯富兄弟も同じで眉間に皺を寄せて唸る。

「真田殿はどう思われますか?」
「……」

源左衛門が何か言いたげな幸綱の表情から声をかける。幸綱は宿老たちの顔をチラリと見て、どうすべきか迷っている。
晴信は幸綱が誰に遠慮しているのか分かっていた。そこで敢えて自分から意見を求めることにする。

「幸綱、何か良い策があるのか?」

虎胤の片眉がピクリと上がる。幸綱は逡巡するが、主君から意見を求められている以上答えぬ訳にはいかない。一度深く息を吸って、顔を上げて己の見解を口にした。

「恐れながら申し上げます」
「何かあるのか?」
「はい。領内に法度を記した立て札を立てるが宜しいかと」

それを聞いて虎胤が鼻で笑う。普段から幸綱のことを【小賢しい】と評していた。それ故、此度の献策も笑い飛ばしたのである。
だが、幸綱はそれを気に留めることなく、続けた。

「遠い異国ではその立て札にある文言を付ける事で法が早く広まったそうにございます」
「文言?」
「はい」

皆は顔を見合わせ、幸綱の次の言葉を待つ。幸綱は笑みを浮かべ続けたのだった。

「もし、この法に一字でも付け加えるか、削ることが出来たなら申し出よ。金百を与える」

自信に満ちた幸綱が発した言葉にどよめきが広がる。だが、その言葉を噛みしめていた昌秀がその顔を輝かせ同調する。

「御館様、良き考えかと思われます」
「そうであろうか?」
「まずは褒美欲しさに先を競って読む者が現れましょう。文字が読めぬ者は読める者から聞き、法は一気に広まります」
「ふむ」

昌秀は更に続ける。法が広まれば、その法を論じる者が現れる。論じ合う者が現れれば、何が必要で何が不要かを分かる者が現れる。そして、それを実際に申し出る者が現れる。

「取るに足らぬ者もおりましょうが、それら全てに等しく褒美を授けるのです」
「そんな者にまでくれてやるなど!!」
「虎胤、落ち着け」

激高した虎胤が昌秀の胸ぐらを掴む。それに対して全く動じることなく源左衛門は睨み返した。そんな二人に割って入る信方と虎康。虎胤は渋々といったふうで引き下がった。

「工藤、そうのように金をばらまいて何の効果がある」
「これは飯富殿とは思えぬ発言」
「なんだと?!」
「兄上!落ち着かれませ」
「むぅぅぅ」

やり玉に挙げられてしまった虎昌も窘められて座に着く。昌秀は一度咳払いをしてから話を続けた。

「例え、取るに足らぬ相手でも功には報いる。そう示すことが大事なのです。幸い甲斐は多くの金山がありまする。恩賞には事欠かぬはず」
「なるほど。それでこの法が広まるのであれば安いもの。こちらの指示に従う者も増えて一石二鳥か……」
「その通りでございます。それにより国は纏まります」

昌秀の自信に満ちた言葉に皆が納得し、頷き合う。それに付け足すように幸綱が言葉を継いだ。

「それだけではありませぬ」
「真田殿?」

幸綱は顔を上げ、一人一人の顔を見やってか持論を展開した。

「もし、見事に手を加える者がおりますればそれは人材となります」
「なるほど!」
「むぅぅ。そういうことであるなら……」

虎胤が遂に折れた。それはこの場の意見が纏まったことを意味した。晴信は最後の一押しとして異国での成果を幸綱に問いただす。

「勿論、法が人々に知れ渡り、国は一つに纏まりました。更に多くの優秀な人材を得たとのことにございます」
「そうか……」

晴信は皆を見渡す。異論はないようだった。

「では、これで決まりですな」
「即刻、触れを出せ。まずは国人衆に伝え、各々領民へ伝えるように申し渡せ」
「ははっ!!」

その日のうちに躑躅ヶ崎館から各地に向けて早馬が出された。
そして、迎えた六月。後に甲州法度と呼ばれる二十六箇条からなる【甲州こうしゅう新法度之次第しんはっとのしだい】が制定されたのだった。
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