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火の章

晴信、将軍・義輝に拝謁する

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晴信たちは漸く近江おうみ朽木くちきへとたどり着く。待っていたのは使者として遣わされた男。すぐに御所へと案内された。

「こちらでお待ち下され」

晴信たちは広間に通される。そこで待つこと四半刻。遂に将軍・義輝との謁見えっけんが叶ったのである。

「上様にはご機嫌麗しゅう……」
「堅苦しい挨拶は抜きじゃ。が義輝である」

晴信が顔を上げると上座に座ったのは年若い青年であった。人々が足利将軍のことを【公方くぼう】と呼ぶだけあって色白で細身な義輝。おおよそ武士とは言い難いその姿に晴信は眉根を寄せる。

(このような脆弱な男が【武家の棟梁】だというのか?)

晴信はその思いを心の奥底にしまい、臣下としての仮面を被る。それを勘助も昌秀も感じ取ったようだった。

「晴信、そなたの嫡男の偏諱へんきについては追って沙汰さたをいたす」
「はっ」
「これからも忠勤に励めよ」
「かしこまりました」

晴信は深々と頭を下げる。義輝は満足げに頷くとその場を後にしたのだった。



晴信たちは宛がわれた部屋へと案内され、しばらくくつろぐ。
と、いってもあのような意味のない謁見に満足出来るはずもなく、その腹の内は苛立っていた。

「あの態度は何でございますか?!」
「確かに。何のために御館様を呼びつけたのか……」

昌秀はいらだちを隠せず、今にもそこかしこに怒りをぶちまけようとしていた。平静を装っている勘助も内心腸は煮えくりかえっている。手にした扇がギリギリと音を立てるほど握りしめている。

「まぁ、落ち着け」
「御館様!!」

その中にあって晴信だけは冷静である。それは義輝が終始周りを気にしている素振りがあったからだ。晴信は何かあると感じでいた。

「上様は幼少期から苦労をされている。それ故、公の場では明言を避けておられるのかもしれぬ」
「ですが!」

昌秀が食ってかかろうとした。それを勘助が制した。辺りの気配を探る仕草と共に晴信に合図を送る。

「隠れてないで出てこい」

晴信は鋭い口調で外に声をかける。すると、庭の奥から人影が現れる。それが近づき、燭台の明かりに照らされたとき、三人は息を飲んだ。

「このような真似をしてすまぬ」

現れたのは将軍義輝本人であった。ザッと周りを気にしながらもすぐに室内に入り、戸を閉める。そして、声を潜めながらも、懐から一通の書状を取り出す。

「武田晴信、そなたを呼び出した本当の理由はこれだ」
「上様?」

義輝はその書状を晴信に差し出す。それを手に取り、視線で読んで良いか聞く。義輝は頷き、それを許した。晴信は書状をゆっくりと開き読み進める。そして、最後まで読み終えたところで目を見開き顔を上げた。

「上様、これは?!」
「晴信、何も言わず受けてくれ」
「しかし!」

晴信は動揺して書状を落としてしまう。それを勘助が拾い【失礼】と断りを入れて読む。読み始めてある一点で勘助の視線が止まった。

「御館様……」

勘助は驚愕の表情で晴信を見つめた。晴信はそれに気付かず、ただ義輝の顔をジッと見ている。

「晴信。そなたの有能さは信虎から聞いている」
「上様……」
「その昔、父も信虎を頼りにしていた。その息子であるそなたを余は頼りとしたい」
「し、しかし!」
「わかっておる。今川や吉良を差し置いて、武田にこのようなことを頼むのは間違っておる。だが、余が後事を任せられるのは武田をおいて他にはおらぬのだ」

義輝の懇願に晴信は何も言えなくなる。
義輝より渡された書状。それに書かれていたのは【この後、義輝に何かあったときは武田晴信の嫡男・太郎を次期将軍に立てるべし】との事であった。

「幸い、そなたは精華七家・転法輪三条家から妻を娶っておる。その妻との嫡子であるならば誰にも文句は言われぬであろう」
「……」
「何より、甲斐武田と言えば新羅三郎義光公より続く源氏の名門。任せて何の不足があろう」

義輝の懇願に晴信の心は揺れる。と、同時にまたとない機会を得たとも思った。

(これを受ければ武田の切り札となる。如何に先を越されようともこれがあれば我らの悲願を確かなものに出来よう)

晴信の心は決まった。義輝に向き直り、居住まいを正す。

「上様よりの申し出。謹んでお受けいたします」

晴信は両の拳を脇につき、深々と頭を下げたのである。その姿に義輝は満足そうな笑みを浮かべ頷いた。
こうして、【次期将軍への推挙】という最大の切り札を晴信は得たのだった。



翌日、晴信たちは帰国の挨拶のため再び御所を訪れた。

「信濃守護職についてだが、信濃全土を制した暁には考えても良い」
「誠にございますか?」
「うむ。残るは木曽と村上とか。その両氏を抑えることが出来れば任じよう」
「有り難き幸せ」
「これよりも幕府への忠勤に励め」
「はっ!」

それは実質晴信の信濃守護職を約束するものであった。義輝への拝謁は一定の成果を上げたのである。



帰国の途についた晴信たちは未だ信じられぬ思いであった。

「まさかこのような【土産】を持たされるとはな」
「ですな」
「しかし、これでいざという時の大義名分が立ちます」
「うむ。武田の悲願達成に一歩近づいたな」

晴信たちは意気揚々と甲府を目指す。その途中、津島神社に寄った。祭神の牛頭天王ごずてんのうと言えば厄除けの神。義輝からの【土産】が災いをもたらさぬようにとの考えからであった。

「これで牛頭天王ごずてんのうの加護も賜りましょう」
「左様でございますか」
「はい。安心して国へ帰られると宜しかろう」

晴信は神官からお墨付きをもらい、安堵した。勿論、それに対しても寄進も忘れはしない。見合うだけの【金】は持参していた。

「これで、万事上手くいきましょう」

勘助の言葉に頷く晴信であった。



その夜のこと。晴信は何者かに呼ばれた気がして目が覚める。辺りは未だ暗く、丑三つ時を思わせた。

(誰だ?)

晴信は導かれるようにして床から起き上がる。すると、蛍のような小さな明かりが晴信にまとわりつくように飛ぶ。その光は誘うようにして外へと飛び出す。晴信はそれに導かれ歩を進めた。導かれた先は津島神社。
何故、ここに導かれたのか分からず晴信は首をかしげる。すると、本殿の奥から人影が現れた。

「よぉ、お前か?武田晴信って言うのは?」
「だ、誰だ?」

そこに現れたのは衣袴姿の男。熊の毛皮を羽織り、手にしているのは身の丈ほどの大剣。ただならぬ気を放っている。晴信は気圧されて後ずさる。

「そんなに驚くこたぁねぇだろ」

男はふて腐れたように口をとがらせる。晴信は深呼吸をして声を発した。

「何者だ?!」
「俺はお前らが牛頭天王って呼ぶ存在よ」
「牛頭天王?」
「又の名を素戔嗚尊スサノオノミコト……」

晴信が驚きに目を瞠ると男はニヤリと口の端を上げる。

「まぁ、座れ」
「はぁ……」
「話は思兼おもいかねの婆さんから聞いている」
「思兼?」
「お前、建御名方タケミナカタからこれから先のことについて聞かされてただろう?」

そう言われ、いつぞや建御名方から言われたことを思い出した。あれから随分と時が過ぎたことと今川・北条との同盟の模索、信濃の攻略などですっかり忘れていた。

「その分だと忘れていたか……」
「それ以上にやらねばならぬ事がありましたので」
「そりゃ、そうだな」

素戔嗚スサノオは胡座を掻く。晴信もそれに続いた。

「さて、お前は義光と信義の願いを聞き届けた閻魔えんまの力で魂を過去へと戻されたわけだが……」

晴信はゴクリと唾を飲み込み、素戔嗚スサノオの次の言葉を待った。晴信の鬼気迫る表情に素戔嗚スサノは少し困った顔をする。

素戔嗚スサノオ様?」
「そんなに畏まるなって」
「これより先の自分の人生がかかっておるのです。自ずとそうなります」
「それはそうなんだが……」

素戔嗚スサノオは後ろ頭を掻きながら、話を続けた。

「実はここに来てマズいことが起きてる」
「マズいこと?」
「うむ。これから産まれてくるはずのお前の子供たちに関わることだ」

そこで晴信はあることを思い出した。それはあと二人いた側室、油川氏の娘と禰津氏の娘だ。特に油川の娘は五男・盛信、六男・信貞、四女・菊、五女・松の母である。どの子も晴信の戦略に欠かせぬ存在である。

(盛信は仁科・信貞は葛山を懐柔するために養子に出した。菊は一向宗との縁のため、松は織田との同盟強化のために婚約を決めた)

自分の過去の記憶をたぐり、皆それぞれに武田にとって大事な子供たちであった。それに関わることと言うことはどういうことなのであろうか……。晴信の不安は増すばかりであった。

「まぁ、禰津ねづの姫は元々諏訪の姫が養女として入ったものではないかとも伝わっておるから存在しなかったとしても誤魔化しはきく」
「そのようなものでしょうか?」
「後世に残る資料が少ない上、実名も伝わっておらぬことが幸いしておるのだ」
「なるほど……」
「だが、油川あぶらかわの姫はそうはいかぬ」

それまでのと雰囲気の一変した素戔嗚の様子に晴信は背筋に冷たいものが流れる感覚に襲われる。

「ここに来てお前が変えてきたことの【歪み】が生じた」
「【歪み】ですか……」
「それも特大に厄介な【歪み】だ。それを正そうとしているのだが、如何いかんせん面倒でな」
「俺はどうすれば良いのでしょう」
「本来あるべき姿に戻すしかない」
「例えば?」

その問いに素戔嗚スサノオは暗く沈んだ顔をする。一つため息を吐いて、重い口を開く。

「本来、二年のち諏訪の姫は死ぬ。その事実をそのまま受け入れることだ」
「!!!」

それは香姫の死についてだった。晴信が最も変えたかった現実。だが、それは今までの改変で生じた【歪み】を正すためには曲げることが出来ない。素戔嗚スサノオはそう言っているのだ。
晴信はその事実に衝撃を受け、崩れ落ちそうになる。気付けば、両の瞳からは涙が溢れていた。

「そんな……。なら、俺は何のために……」

ガックリと肩を落とし、流れる涙もそのままに泣き崩れる晴信。だが、素戔嗚スサノオは一つ咳払いをして、話を続けようとした。

「そう悲観するな」
「ですが!!」
「それを変えるために我らが色々と動いておるのだ」
「え?」
「とりあえず、だ。俺がそなたの嫡男に加護を授ける。国に帰ったらこれを渡すが良かろう」

そう言って懐から取り出したのは濃紺の勾玉であった。晴信はそれを受け取り、握りしめる。

「諏訪の姫の死とそなたの嫡男の死は連なっておるようでな。それを断ち切ってやろうと思う」
素戔嗚スサノオ様……」
「その勾玉はそのためのものだ。故に肌身離さず持ち歩くように伝えるのだ」

素戔嗚の言葉に晴信は頷いた。今一度その勾玉を握りしめ、懐に収める。

「諏訪の姫の方は八坂やさか刀売姫とうりひめに見守るように伝えておく」
「はい……」
「そう悲観することはない。必ずや道はある。そなたのやり直しは諏訪の姫の事も含まれておるのだからな」

素戔嗚スサノオは優しげな笑みを浮かべ、晴信の苦痛を和らげようとした。晴信もそれに応えようと笑顔を作ろうとするが上手くいかない。

「晴信よ。今は目の前のことに集中せよ。今宵の話はそれからだ」
「はい」

素戔嗚スサノオは立ち上がると踵を返し、本殿に向かい歩き始めた。それを晴信はただ見送る。
と、素戔嗚スサノオは何かを思い出したように立ち止まり、振り返った。

素戔嗚スサノオ様?」
「忘れておった」
「?」
「諏訪の姫だが、彼の者が産んだ子共々高遠へ移せ」
「高遠へですか?」
「そうだ。あそこは諏訪下社の庇護下にある。降りかかる災いから守れるはずだ」
「わかりました」
「義光・信義の悲願のためにそなたは戻ってきた。それを叶えるためにそなたの我が儘の一つや二つ聞き入れるだけの度量はある」
素戔嗚スサノオ様……」
「多少の見返りは求めるかもしれぬがな」
「俺で出来ることなら何でもします」
「その言葉、忘れぬなよ!」

素戔嗚スサノオはそれだけ言うと本殿の中へと消えていった。後に残った晴信は白み始めた東の空を見上げ、妻と子のことを思うのであった。

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