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火の章
善徳寺の会盟
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天文二十三年(1554年)秋。武田家では梅の輿入れの準備に追われていた。そんな中、晴信は駿河の善徳寺に赴く。今川家の太原雪斎の働きかけによるものであった。北条の当主・氏康も招かれていた。
「ようこそおいで下されました」
「要件なら手短にお願いしたい」
「氏康殿の言われる通りだ。雪斎殿、このようなことは家臣に任せても良かろう」
晴信は憮然とした表情で座についていた。特に長女・梅の輿入れが間近であり、海野の信親・高遠の四郞のことと悩みの尽きぬこの時期に呼び出されたのだから当然である。だが、雪斎は意に介せず、ただ微笑むのみ。それが晴信のみならず、氏康をも苛立たせた。
「雪斎、あまりお二人を煽るな」
「出過ぎた真似をいたしました」
義元の登場に雪斎は詫びを述べ下がる。三人の男はそれぞれの思惑を胸に抱いており、場に張り詰めた空気が流れる。それを打ち破るように義元が話し始めた。
「此度、わざわざお越しいただいたは我らの同盟が揺るぎないことになったところ、確かめるため」
「そのような場が必要とは思えぬが……」
氏康の棘のある言葉はもっともであり、晴信も無言でそれに同意する。だが、義元は扇で口元を覆い、嘲笑うかのように酷薄な笑みを浮かべる。その様子が我慢ならない氏康は膝の上にのせた拳を強く握りしめた。
「義元殿、御託はいい。本題に入られよ」
「晴信殿はせっかちだのぉ」
「娘の輿入れが迫っておる。早々に終わらせたい」
晴信の意思が固いことを見て取り、義元は顔から笑みを消す。
「既に我が娘・嶺が武田に嫁ぎ、此度は晴信殿の娘が北条に嫁ぐ……」
「それが?」
「以前、晴信殿は北条との和睦を熱心に説いておいでであった。そこで……」
「?」
「我が嫡男・氏真の妻に氏康殿の娘御をいただけないであろうか」
「元々、我らは義兄弟であろう」
氏康の正室は義元の同腹の姉である。つまり既に姻戚関係があり、これ以上の結びつきは不要である。それが氏康の考えのようであった。
「だが、私は家督相続後に武田と和したことで北条と険悪となった」
「……」
「晴信殿の説得に応じて和議を結んだが、それはまだ脆い。私はそう考えているのです」
「それで今一度、北条と婚姻関係を結び、更に強固なものとしたい。そうおっしゃるのか?」
氏康の言葉に義元は静かに頷く。氏康は逡巡する。しばしの沈黙の後、氏康答えを出した。
「その申し出、お受けしよう」
「氏康殿の英断に感謝いたす」
「それで、いつが良かろうか?」
「なれば、梅の輿入れと間を置かぬ方が良いのでは?」
「うむ。それが賢明か……」
「では、今年の暮れか年明けと言うことで……」
義元の言葉に氏康は頷き、誓詞を交わす。その後、氏康は【すぐにでも輿入れの支度をせねば】と言い残して、その場を辞したのであった。
「ところで晴信殿」
「なんでございましょう?」
三者の会見が終わったからと席を立とうとした晴信を義元は呼び止めた。その瞳にはどこかからかいの色が浮かんでいる。晴信は眉間に皺を寄せ、再び腰を下ろす。
「甲斐から望む【裏富士】とは如何なる物であろうか?」
「は?」
「我が駿河から見る富士こそ、【顔】であろう?」
義元はニヤリと笑みを浮かべる。口元を扇で隠し、晴信の反応を覗うその姿は【田舎武者】と侮る公家そのもの。その姿に怒りを覚えるも、敢えて心の奥底にしまい込む。ただ、真っ直ぐに答える。
「我らは【裏富士】などと思うたことはござらぬ」
「ほう。だが、山裾を森に覆われては風情もなかろう」
「【裏富士】と言われるのであれば森がなければ尻丸出しとなりましょう。それこそ風情がない」
「尻丸出し、とな?!」
晴信が真顔で答えたそれが余程可笑しかったのか、義元は腹を抱えて笑い始める。だが、晴信はそれに一切動じることなく聞き流した。その間も義元は笑い続ける。晴信はそれを横目に立ち上がる。
そのとき、控えていた太原雪斎と目が合う。その表情からは何も読み取れない。有能ではあるが今この場に合っては不快でしかない存在。晴信は雪斎を一睨みしてその場を後にした。
「殿、そのくらいになさりませ」
「雪斎、そなたは可笑しゅうないのか?」
「あれでは武田殿は不快に思われましょう」
「だが、それをおくびに出さぬが、武田晴信という男の器の大きさよ」
不意に笑いを収めたかと思えば、義元の瞳には鋭利な刃物のような冷たい輝きがあった。雪斎はため息をつかずにはいられなかった。今、目の前にいる主は敢えて相手を煽り、その反応を楽しみつつ、相手を推し量る。
(義元様は確かに大将の器。だが、この性分がいずれ災いとならねば良いが……)
そう思わずにはいられない雪斎であった。
晴信は善徳寺を後にして間もなく、北条の家人に呼び止められる。その思わせぶりな態度に晴信は感じるものがあり、後に続いた。
案内されたのは小さな山寺だった。そこの奥に作られた東屋で晴信は改めて氏康と対面した。氏康は人払いを命じる。それに応じるように晴信も従者を下がらせた。
「晴信殿、申し訳ない」
「いや、構いませぬ」
「実はまだ話していないことがある」
「?」
氏康はやや言いにくそうにしながら、晴信の顔色を覗う。晴信は投げかけられた視線を真っ直ぐに見つめ返した。
「越後のことだ」
「越後?」
「越後守護上杉氏が奥州探題・伊達家の内乱の煽りを食らって滅んだのは知っておろう」
晴信は勘助たち素波に集めさせた情報をたぐり寄せる。
本来、越後守護は上杉定実であった。だが、定実には実子がなく、縁戚に当たる奥州探題・伊達家から養子を迎えることにしたという。ところが、当の伊達家に内乱が起き、この養子縁組は立ち消えとなった。そして、後継がないまま天文十九年に定実は鬼籍に入り、越後守護・上杉氏は滅んだのである。そこで将軍・義輝は守護代である長尾景虎に実質的に支配することを認めたのだ。
「長尾景虎は厄介極まりない」
「それは同感ですな」
「あれは【私利私欲では合戦せず、道理を以て誰にでも力を貸す】などと申しておるが、結局は人の畑を荒らす夜盗よ」
「確かに……」
「だが、それを頼みとする者がなんと多いことか。現に関東管領の上杉憲政まで逃げ込んだ。これは由々しき事態だ」
「氏康殿はどうなさるおつもりか?」
「長尾景虎はいずれ山内上杉を継ぐことになるであろう。そうなれば我が北条は上杉と徹底的に戦うことになる」
その言葉に晴信は頷くより他ない。景虎が上杉を継ぐための障害など何一つないからだ。そうなると、厄介なことになる。景虎は上杉を継ぐことで必然的に【関東管領】となる。これは天下を望む晴信にとって障害となり得ることは間違いない。特に北信濃の制圧が出来ていない晴信にとって、攻め込まれる口実を与えるようなものだからだ。
「だが、奴にも欠点はある」
「どういうことでしょうか?」
「あの男には実子がおらぬ」
「なんと?!」
長尾景虎は未だに妻を娶っていない。そればかりか、側室の一人も侍らせてはいない。そのため、後継となる実子がいないのだ。一国の国主たる者がそれで如何なものかと思うが、本人が望まぬのであれば致し方ない。養子を迎えているとの話もあるのでそれで事は足りるということなのであろうか。
「この欠点。いずれ我らの最大の武器となるやもしれぬ」
「といわれると?」
「北条と武田で越後を乗っ取る、というのはどうかと思っててな」
「乗っ取る?」
「景虎が養子を取るのであれば、こちらが送り込んだ子が後継者となるように仕向ける」
氏康の策は確かに有効である。だが、それは武田と北条が手を結んだ今となっては非現実的である。故に、晴信は難色を示すように眉をひそめた。それを氏康は笑い飛ばす。
「昔から言うであろう?可愛さ余って憎さ百倍、と……」
「氏康殿?」
「我らが親密であればあるほど、決裂したときの反動は大きい」
「なるほど。表向き武田と手を切ったと思わせ、景虎と手を結ぶ」
「勿論こちらの有利になるような条件は付けますがな」
晴信は少しばかり考えを巡らす。仕える手札は多いに越したことはない。だが、果たしてそれが上手くいくであろうか?氏康は絶対的な自信を持っているようだが、晴信自身は長尾景虎という人物をまだ深く知り得てはいない。そのような状況でこの策に乗るのは危険に思えた。
その考えを氏康は読み取ったのであろうか。不敵な笑みを浮かべ、語りかける。
「実際、乗っ取るのは次の代であろうよ」
「息子らの時代でといわれるか?」
「如何にも。今はそのときのために打てる布石を打つ。それに晴信殿も加わってみないか?」
「随分と大きく出られましたな」
「この氏康。関八州を必ずや平らげる。その上で最も邪魔なのは【関東管領】だ。それを潰すためならばどのような手も使う。武田と手を結ぶのもその一環である」
氏康の偽りなき野心に晴信は苦笑する。だが、ここまであけすけと語られてはいっそ清々しい。だから、晴信は氏康の策に乗ってみる気になった。
「では、景虎を騙すために武田と北条の蜜月を演じねば何ませぬな」
「それは氏政に任せるとしよう」
「ご子息に?」
「此度の婚儀、あやつが一番楽しみにしておるのよ」
「ほう。それは初耳にございます」
「梅殿は色白で小柄な上に愛らしい姫であったと交渉役の家臣から聞き及んでな」
氏康は苦笑している。晴信は自分の娘が褒めそやされて悪い気はしない。そのせいで少しばかり頬が緩む。それを見た氏康がニヤリと笑い、話を続けた。
「わざわざ演じずとも、氏政が梅殿を溺愛すれば自ずと広がるであろう」
「そうですな」
「我らはそれを隠れ蓑に暗躍するまで」
「左様で……」
「既に風魔衆に探りを入れさせおる」
「なんと!」
「晴信殿も越後に目を光らせておくことだ」
氏康のその言葉に驚きを隠せない晴信。自分の至らなさに気付いた気がしたが、それを改める方法は指し示された。あとはそれを実行に移すだけだ。
「晴信殿、これからもよしなに……」
「こちらこそ、お願い申し上げる」
二人は固い握手を交わし、それぞれの本拠へと帰っていったのであった。
十二月、いよいよ梅の輿入れの日となった。
「姫様、御館様にご挨拶を……」
乳母に促され、進み出る。真新しい打ち掛けを身に纏い、紅をさした唇が可愛らしさの上に美しさを醸し出していた。
「父上様、母上様……」
「梅……」
言葉を詰まらせて別れの挨拶を述べようとする梅の姿に、三条は袖で顔を覆う。梅は一度大きく息を吸うと、キッと顔を上げて決意と共に別れの挨拶を述べた。
「今までお世話になりました。嫁いだ後は武田の姫としての誇りを忘れず、必ずや北条との縁を強固なものといたします」
晴信は抱きしめたい衝動に駆られたがそれをグッと堪えた。ただ、力強く頷き、【期待している】と告げるのが精一杯であった。
「行ってしまいましたね……」
「ああ、そうだな」
「また、寂しゅうなりました」
躑躅ヶ崎館は信親が海野に赴き、香姫と四郞も高遠へと移った。此度、梅も遠く小田原に嫁いでいき、三条は寂しさを募らせた。そんな妻の肩を抱き、晴信は優しく微笑む。
「なに、武田が天下を取れば、皆笑って共に過ごせる。今しばらくの辛抱だ」
「はい」
「それに梅は望まれて輿入れするのだ。幸せを願ってやろう」
「そうですね」
三条は涙を拭い、笑みを浮かべる。二人は梅をのせた輿が見えなくなるまで見送り続けた。
その後、北条の姫・春が今川家の嫡男・氏真の元に輿入れする。これにより武田・北条・今川の三国同盟は確立し、それぞれの思惑と共に激動の時代へと突入するのであった。
「ようこそおいで下されました」
「要件なら手短にお願いしたい」
「氏康殿の言われる通りだ。雪斎殿、このようなことは家臣に任せても良かろう」
晴信は憮然とした表情で座についていた。特に長女・梅の輿入れが間近であり、海野の信親・高遠の四郞のことと悩みの尽きぬこの時期に呼び出されたのだから当然である。だが、雪斎は意に介せず、ただ微笑むのみ。それが晴信のみならず、氏康をも苛立たせた。
「雪斎、あまりお二人を煽るな」
「出過ぎた真似をいたしました」
義元の登場に雪斎は詫びを述べ下がる。三人の男はそれぞれの思惑を胸に抱いており、場に張り詰めた空気が流れる。それを打ち破るように義元が話し始めた。
「此度、わざわざお越しいただいたは我らの同盟が揺るぎないことになったところ、確かめるため」
「そのような場が必要とは思えぬが……」
氏康の棘のある言葉はもっともであり、晴信も無言でそれに同意する。だが、義元は扇で口元を覆い、嘲笑うかのように酷薄な笑みを浮かべる。その様子が我慢ならない氏康は膝の上にのせた拳を強く握りしめた。
「義元殿、御託はいい。本題に入られよ」
「晴信殿はせっかちだのぉ」
「娘の輿入れが迫っておる。早々に終わらせたい」
晴信の意思が固いことを見て取り、義元は顔から笑みを消す。
「既に我が娘・嶺が武田に嫁ぎ、此度は晴信殿の娘が北条に嫁ぐ……」
「それが?」
「以前、晴信殿は北条との和睦を熱心に説いておいでであった。そこで……」
「?」
「我が嫡男・氏真の妻に氏康殿の娘御をいただけないであろうか」
「元々、我らは義兄弟であろう」
氏康の正室は義元の同腹の姉である。つまり既に姻戚関係があり、これ以上の結びつきは不要である。それが氏康の考えのようであった。
「だが、私は家督相続後に武田と和したことで北条と険悪となった」
「……」
「晴信殿の説得に応じて和議を結んだが、それはまだ脆い。私はそう考えているのです」
「それで今一度、北条と婚姻関係を結び、更に強固なものとしたい。そうおっしゃるのか?」
氏康の言葉に義元は静かに頷く。氏康は逡巡する。しばしの沈黙の後、氏康答えを出した。
「その申し出、お受けしよう」
「氏康殿の英断に感謝いたす」
「それで、いつが良かろうか?」
「なれば、梅の輿入れと間を置かぬ方が良いのでは?」
「うむ。それが賢明か……」
「では、今年の暮れか年明けと言うことで……」
義元の言葉に氏康は頷き、誓詞を交わす。その後、氏康は【すぐにでも輿入れの支度をせねば】と言い残して、その場を辞したのであった。
「ところで晴信殿」
「なんでございましょう?」
三者の会見が終わったからと席を立とうとした晴信を義元は呼び止めた。その瞳にはどこかからかいの色が浮かんでいる。晴信は眉間に皺を寄せ、再び腰を下ろす。
「甲斐から望む【裏富士】とは如何なる物であろうか?」
「は?」
「我が駿河から見る富士こそ、【顔】であろう?」
義元はニヤリと笑みを浮かべる。口元を扇で隠し、晴信の反応を覗うその姿は【田舎武者】と侮る公家そのもの。その姿に怒りを覚えるも、敢えて心の奥底にしまい込む。ただ、真っ直ぐに答える。
「我らは【裏富士】などと思うたことはござらぬ」
「ほう。だが、山裾を森に覆われては風情もなかろう」
「【裏富士】と言われるのであれば森がなければ尻丸出しとなりましょう。それこそ風情がない」
「尻丸出し、とな?!」
晴信が真顔で答えたそれが余程可笑しかったのか、義元は腹を抱えて笑い始める。だが、晴信はそれに一切動じることなく聞き流した。その間も義元は笑い続ける。晴信はそれを横目に立ち上がる。
そのとき、控えていた太原雪斎と目が合う。その表情からは何も読み取れない。有能ではあるが今この場に合っては不快でしかない存在。晴信は雪斎を一睨みしてその場を後にした。
「殿、そのくらいになさりませ」
「雪斎、そなたは可笑しゅうないのか?」
「あれでは武田殿は不快に思われましょう」
「だが、それをおくびに出さぬが、武田晴信という男の器の大きさよ」
不意に笑いを収めたかと思えば、義元の瞳には鋭利な刃物のような冷たい輝きがあった。雪斎はため息をつかずにはいられなかった。今、目の前にいる主は敢えて相手を煽り、その反応を楽しみつつ、相手を推し量る。
(義元様は確かに大将の器。だが、この性分がいずれ災いとならねば良いが……)
そう思わずにはいられない雪斎であった。
晴信は善徳寺を後にして間もなく、北条の家人に呼び止められる。その思わせぶりな態度に晴信は感じるものがあり、後に続いた。
案内されたのは小さな山寺だった。そこの奥に作られた東屋で晴信は改めて氏康と対面した。氏康は人払いを命じる。それに応じるように晴信も従者を下がらせた。
「晴信殿、申し訳ない」
「いや、構いませぬ」
「実はまだ話していないことがある」
「?」
氏康はやや言いにくそうにしながら、晴信の顔色を覗う。晴信は投げかけられた視線を真っ直ぐに見つめ返した。
「越後のことだ」
「越後?」
「越後守護上杉氏が奥州探題・伊達家の内乱の煽りを食らって滅んだのは知っておろう」
晴信は勘助たち素波に集めさせた情報をたぐり寄せる。
本来、越後守護は上杉定実であった。だが、定実には実子がなく、縁戚に当たる奥州探題・伊達家から養子を迎えることにしたという。ところが、当の伊達家に内乱が起き、この養子縁組は立ち消えとなった。そして、後継がないまま天文十九年に定実は鬼籍に入り、越後守護・上杉氏は滅んだのである。そこで将軍・義輝は守護代である長尾景虎に実質的に支配することを認めたのだ。
「長尾景虎は厄介極まりない」
「それは同感ですな」
「あれは【私利私欲では合戦せず、道理を以て誰にでも力を貸す】などと申しておるが、結局は人の畑を荒らす夜盗よ」
「確かに……」
「だが、それを頼みとする者がなんと多いことか。現に関東管領の上杉憲政まで逃げ込んだ。これは由々しき事態だ」
「氏康殿はどうなさるおつもりか?」
「長尾景虎はいずれ山内上杉を継ぐことになるであろう。そうなれば我が北条は上杉と徹底的に戦うことになる」
その言葉に晴信は頷くより他ない。景虎が上杉を継ぐための障害など何一つないからだ。そうなると、厄介なことになる。景虎は上杉を継ぐことで必然的に【関東管領】となる。これは天下を望む晴信にとって障害となり得ることは間違いない。特に北信濃の制圧が出来ていない晴信にとって、攻め込まれる口実を与えるようなものだからだ。
「だが、奴にも欠点はある」
「どういうことでしょうか?」
「あの男には実子がおらぬ」
「なんと?!」
長尾景虎は未だに妻を娶っていない。そればかりか、側室の一人も侍らせてはいない。そのため、後継となる実子がいないのだ。一国の国主たる者がそれで如何なものかと思うが、本人が望まぬのであれば致し方ない。養子を迎えているとの話もあるのでそれで事は足りるということなのであろうか。
「この欠点。いずれ我らの最大の武器となるやもしれぬ」
「といわれると?」
「北条と武田で越後を乗っ取る、というのはどうかと思っててな」
「乗っ取る?」
「景虎が養子を取るのであれば、こちらが送り込んだ子が後継者となるように仕向ける」
氏康の策は確かに有効である。だが、それは武田と北条が手を結んだ今となっては非現実的である。故に、晴信は難色を示すように眉をひそめた。それを氏康は笑い飛ばす。
「昔から言うであろう?可愛さ余って憎さ百倍、と……」
「氏康殿?」
「我らが親密であればあるほど、決裂したときの反動は大きい」
「なるほど。表向き武田と手を切ったと思わせ、景虎と手を結ぶ」
「勿論こちらの有利になるような条件は付けますがな」
晴信は少しばかり考えを巡らす。仕える手札は多いに越したことはない。だが、果たしてそれが上手くいくであろうか?氏康は絶対的な自信を持っているようだが、晴信自身は長尾景虎という人物をまだ深く知り得てはいない。そのような状況でこの策に乗るのは危険に思えた。
その考えを氏康は読み取ったのであろうか。不敵な笑みを浮かべ、語りかける。
「実際、乗っ取るのは次の代であろうよ」
「息子らの時代でといわれるか?」
「如何にも。今はそのときのために打てる布石を打つ。それに晴信殿も加わってみないか?」
「随分と大きく出られましたな」
「この氏康。関八州を必ずや平らげる。その上で最も邪魔なのは【関東管領】だ。それを潰すためならばどのような手も使う。武田と手を結ぶのもその一環である」
氏康の偽りなき野心に晴信は苦笑する。だが、ここまであけすけと語られてはいっそ清々しい。だから、晴信は氏康の策に乗ってみる気になった。
「では、景虎を騙すために武田と北条の蜜月を演じねば何ませぬな」
「それは氏政に任せるとしよう」
「ご子息に?」
「此度の婚儀、あやつが一番楽しみにしておるのよ」
「ほう。それは初耳にございます」
「梅殿は色白で小柄な上に愛らしい姫であったと交渉役の家臣から聞き及んでな」
氏康は苦笑している。晴信は自分の娘が褒めそやされて悪い気はしない。そのせいで少しばかり頬が緩む。それを見た氏康がニヤリと笑い、話を続けた。
「わざわざ演じずとも、氏政が梅殿を溺愛すれば自ずと広がるであろう」
「そうですな」
「我らはそれを隠れ蓑に暗躍するまで」
「左様で……」
「既に風魔衆に探りを入れさせおる」
「なんと!」
「晴信殿も越後に目を光らせておくことだ」
氏康のその言葉に驚きを隠せない晴信。自分の至らなさに気付いた気がしたが、それを改める方法は指し示された。あとはそれを実行に移すだけだ。
「晴信殿、これからもよしなに……」
「こちらこそ、お願い申し上げる」
二人は固い握手を交わし、それぞれの本拠へと帰っていったのであった。
十二月、いよいよ梅の輿入れの日となった。
「姫様、御館様にご挨拶を……」
乳母に促され、進み出る。真新しい打ち掛けを身に纏い、紅をさした唇が可愛らしさの上に美しさを醸し出していた。
「父上様、母上様……」
「梅……」
言葉を詰まらせて別れの挨拶を述べようとする梅の姿に、三条は袖で顔を覆う。梅は一度大きく息を吸うと、キッと顔を上げて決意と共に別れの挨拶を述べた。
「今までお世話になりました。嫁いだ後は武田の姫としての誇りを忘れず、必ずや北条との縁を強固なものといたします」
晴信は抱きしめたい衝動に駆られたがそれをグッと堪えた。ただ、力強く頷き、【期待している】と告げるのが精一杯であった。
「行ってしまいましたね……」
「ああ、そうだな」
「また、寂しゅうなりました」
躑躅ヶ崎館は信親が海野に赴き、香姫と四郞も高遠へと移った。此度、梅も遠く小田原に嫁いでいき、三条は寂しさを募らせた。そんな妻の肩を抱き、晴信は優しく微笑む。
「なに、武田が天下を取れば、皆笑って共に過ごせる。今しばらくの辛抱だ」
「はい」
「それに梅は望まれて輿入れするのだ。幸せを願ってやろう」
「そうですね」
三条は涙を拭い、笑みを浮かべる。二人は梅をのせた輿が見えなくなるまで見送り続けた。
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言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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