49 / 69
山の章
禰津の姫・直見
しおりを挟む十月に入り、天文から弘治へと元号が改まる。長尾勢との対峙は既に半年を超えていた。
「御館様、これ以上は兵糧が持ちませぬ」
「大日方山城守と春日駿河守に過書を発給して兵糧を届けさせよ」
「はっ!」
閏十月、晴信の命により兵糧が届くがこれ以上の戦いは難しくなりつつあった。かといって、負けを認めるなどあり得ない。
「どなたかに仲介に入っていただくしか……」
「だが、誰に入ってもらえと?」
「今川殿がよろしいのでは……」
この助言に従い、晴信は今川義元の仲介により長尾景虎と和睦する。両軍は撤退をし、戦いは終了したのだった。
この頃、晴信には内政・軍事以上に頭を悩ませる事柄が起きていた。
それは香姫のことである。ここ最近、ずっと伏せっているのだ。それが呪詛によるものだとの噂が流れている。
「ただの風邪です」
「分かっておる」
甲府への帰還途中、香姫の見舞いと称して高遠城に寄る。すると、開口一番そのように言われた晴信はふて腐れ気味に返事をしたのだった。
そこへ四郞が駆け寄ってきた。晴信は抱きとめ膝の上に乗せた。しばらく見ないうちに大きくなったようだ。
「重うなったな」
「へへ……」
四郞は照れくさそうに笑みを浮かべていた。そんな息子の頭を撫でてやる晴信。
「父上、此度は……」
「うむ、勝てなんだ」
「やはり、長尾は強うございますか?」
「強い。戦上手と言うだけあって一筋縄ではいかんかったわ」
「四郞も早く大きくなって父上のお手伝いをしとうございます」
「そうか、そうか。頼もしい限りだ」
晴信は笑みを浮かべ、再び頭を撫でてやる。
「若君!」
一人の少年が現れた。手には小さめの木刀を手にしている。どうやら、四郞の遊び仲間で家臣の子息のようだ。
「源五郎?」
「若君、今日は伊那まで遠乗りしましょう」
「うん……」
四郞は困ったように眉を下げている。
「行ってこい」
「でも……」
「案ずるな。今宵はここに泊まり、出立は明日にしよう」
晴信の言葉に四郞の顔がパッと明るくなる。そのまま源五郎と一緒に飛び出していったのだった。
「真田殿の三男の源五郎です」
「幸綱の息子であったか……」
「はい。年が近いこともあり、四郞の友としてこの城に詰めております」
「そうか」
「甲府を出てから寂しい思いをしていたようでした」
香の悲しげな表情に晴信も心を痛めた。いらぬ争いを避けるためとはいえ、兄弟と引き離したことは少なからず四郞の心の傷になっているようだった。
「すまない」
「いえ、仕方のないことです」
「信親や頼貞にも高遠に顔を出すようにそれとなく話しておくか……」
「そうしていただければ、あの子も喜びましょう」
香は微笑んだ。だが、その笑みはどこか儚げで晴信は心配になる。そっと抱き寄せる。香は何かを感じ取ったのだろう。身を寄せたのだった。
翌日、晴信は高遠を発った。四郞は大きく手を振って見送ってくれた。甲府に戻ったら文を書くと約束したのが良かったのだろうか。到着したときと打って変わり、表情は明るかった。そのことが晴信の心を軽くさせたのだった。
「あの調子なら大丈夫であろう」
そう独りごちたのだった。
とはいえ、まだ十歳の少年だ。何か手を打っておいた方が良いだろうとも思う。それを察したのであろうか、どこからともなく勘助が現れる。
「御館様……」
「どうした?」
「禰津元直殿が目通りを願い出ております」
「禰津? 滋野三家の一つのあの禰津か?」
「左様にございます」
武田に降ってから特に目立った行動はなかった禰津元直の動きに晴信は訝しんだ。それを見越したように勘助が続ける。
「何やら高遠の母子について妙案があるとか……」
その言葉に晴信の顔は一気に険しいものへと変わる。だが、勘助は怯むことなく、元直に面会すべしと助言したのであった。
禰津元直は海野・望月とともに【滋野三家】と呼ばれる禰津家の当主である。この三家の繋がりは強く、信虎が小県の海野を攻めたときは海野方に属し、武田と敵対した。敗れた後は降伏し、武田の傘下に入ったのである。
「御館様にはご機嫌麗しゅう……」
「堅苦しい挨拶は抜きだ。要件を申せ」
「不穏な噂が流れておるのは存じております。それを払拭せねば信濃制圧どころか、家臣団にも影響を及ぼしかねませぬ」
「香と四郞のことだな。それは儂も頭を悩ませているところだ。高遠に移せば多少は静まるかと思っていたが甘かったようだ」
「早急に手を打つべきかと……」
「何か手はあるか?」
「それについて、我が娘・直見からお話しさせましょう」
晴信が訝しむのを無視し、元直は娘・直見を呼ぶ。現れたのは袴姿の男勝りな姫だった。しかも、獣の皮で作られた羽織を羽織っている。遠乗りに出ていたか、狩りにでも出ていたのだろうか。
「禰津元綱の娘、直見にございます」
「あ、ああ」
「単刀直入に申し上げます」
何の前触れもなく直見は話し始め、晴信は嫌な予感がする。掌が汗でじっとりと濡れ、気付かれないようにギュッと握りしめる。
「諏訪の方様には【亡くなって】いただくしかございませぬ」
歯に衣着せぬ物言いに晴信は手にした扇をへし折った。怒りを露わにするその表情を目にしながらも直見は平然としていた。むしろ隣に座る元直が慌てふためいている。
「今申したことは【表向きに】という意味でございます」
「どういうことだ?」
「御一門の中には御館様の御子が少ないと不安視されております」
それは痛い一言であった。確かに晴信には四男三女の子がいる。だが、次男・信親は病の影響で左目が見えず、三男の三郎においては病弱で例の丸薬が手放せない。長女・梅は既に小田原に嫁ぎ、次女・佐保は未だ幼く、三女・真理も生まれたばかり。
未だ一枚岩ではない家臣団をつなぎ止めるには婚姻や養子縁組による懐柔策が必要だ。それをするにしては子が少ないといえなくもない。
「実は油川様がご息女を側室にと考えておられました」
「そういえばそんなことを申しておったな」
それは新年の祝いの席でそれとなく申し出ていたことだった。だが、晴信はこれ以上側室を望んでいないためやんわりと断った。
「春先まではかなりしつこく申し出ておられたはずですが、夏を越してからぱったりと止んだのではございませんか?」
「そうであったか……」
晴信は長尾との戦と頼貞の元服、頼重の死と慌ただしくしていたせいで記憶が曖昧であった。記憶を辿り寄せれば、確かに出陣する直前までは油川は言いつのっていたような気がする。
「確かに、最近は何も言うてこぬ」
「それもそのはずです。油川殿のご息女は病の床にあります故」
「病だと!?」
直見はこくりと頷いた。その目に何やら鋭い光が湛えられている。そこで初めて晴信は目の前の男勝りな女人が何を考えているのか理解する。
「油川の娘は重篤であるのか?」
「先日お亡くなりになったそうです」
晴信は目を閉じ、思案する。直見の提案とは亡くなった油川の娘を香とすり替えると言うことだ。上手くすれば、不穏な噂は一掃されるだろう。
「何が望みだ?」
晴信は直見を見据えて、そう切り出す。直見は笑みを浮かべて自分の望みを口にした。
「御館様の子種をいただきたく……」
「つまり、側室に上がりたいと言うことか?」
直見は頷く。晴信はこの申し出を受けるべきか否か悩み始めた。それを見抜いているのか直見は更に追い打ちをかけてくる。
「我が禰津家は家中の信頼を得たとは言い難い。それ故、繋がりを強くしたいのです」
「なるほど、そのための子が欲しいということか」
晴信は具体的にどうするつもりなのかを問いただした。それによって直見の策に乗るか否かを判断しようとした。
直見の策は実に簡単なことであった。
高遠の香が療養のために油川の屋敷に移ったが、芳しくなくそのまま亡くなったことにする。そこで油川の娘と香が入れ替わるのだ。そして、香を油川の娘として側室に迎える。
たとえ、彼女を快く思わない者がいても一門の娘とあっては手出しは出来ないだろう、というのである。
「確かにそれならば迂闊に手を出すこともないな」
「それに私もおりますれば、かの方一人狙われるという状況はおきますまい」
「なるほど」
直見の提案を晴信は受け入れた。その後の手配についても全て任せることにする。下手に晴信が関われば、一番知られたくない相手に露見しかねないからだ。
「そのために山本殿とは別に禰津独自で【組】を作ることをお許しいただきたく……」
晴信はチラリと勘助に目配せする。それに対して頷く勘助。それを了承と取り、晴信は直見の申し出を許可した。ただし、勘助たちと連絡を密にすることを条件とした。
十一月、香が油川に移ることを四郞にも伝える。
「母上とも別れねばならぬのですか?」
「しばらくの辛抱だ」
「ですが……」
「守るためには辛い決断をせねばならないこともある」
「父上」
四郞の不安そうな目を見て心が揺れる。
「そなたは一人ではない。信親も頼貞もおる。源五郎という友もおる。いつかは独り立ちするときが来る。そなたはその時が少しばかり早いだけだ」
「はい……」
「心配はいらぬ。何かあればすぐに申せ。どんなことをしても助ける」
「父上」
四郞は袖で顔を拭い、笑みを浮かべる。そんな四郞を優しく抱きしめた晴信であった。
1
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
現代文学
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
瀬戸内の狼とお転婆な鶴
氷室龍
歴史・時代
戦国時代末期。備後国(現在の広島県東部)鞆の浦。
足利将軍家と縁深いこの地に一人の若者がいた。
村上又四郎吉隆。瀬戸内最強の海賊衆・村上一族の一人、村上亮康の養子である彼は一人の少女と出会う。
京を追放された将軍・足利義昭に付き従う公家の姫・楓だ。
これは数奇な運命で出会った男女のお話。
歴史時代小説大賞エントリー作品
*この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる