知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆の如し~武田家異聞~

氷室龍

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陰の章

武田のじゃじゃ馬姫

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井伊谷いいのやから戻った義信は一旦東光寺に入った。いまだ幽閉が解かれていないからだ。

「お帰りなさいませ」
「変わりは無いか?」
「はい」

東光寺で待っていたのは妻のみねだった。嶺はコナーが連れている二人、虎松と亥之助いのすけに気付き、どういうことかと尋ねる。

「井伊家の跡取り・虎松と井伊家家老・小野政次の甥・亥之助だ。しばらく武田で預かることとなった」
「では、この子たちは……」

嶺は悲しげな視線を向ける。戦国のならいとはいえ、十にも満たない子を親元から引き離すことに胸が痛んだのだ。

「井伊谷は三河に近い。徳川の出方次第では井伊谷は危険にさらされる。あの二人はいずれ井伊家をしょって立つことになる。だから何としても生き延びて貰わねばと考えてのことだ」
「そうですか……」
「六郎や菊・松と同じ年頃だ。家族が増えたと思って接してやってほしい」
「わかりました」

嶺は優しい笑みを浮かべる。だが、すぐに難しい顔に変わった。妻の変化に義信は眉をひそめる。

「どうした?」
「実は御館様が……」
「父上がどうかしたのか?」

嶺が口を開こうとしたその時、廊下を踏みならす大きな足音が聞こえてきた。

ダンッ!!

勢い良く戸が開けられると、そこには鬼の形相の父・信玄が立っていた。義信もその様子に驚いて腰を浮かすが、ズカズカと入ってきた信玄が目の前に座ったため自分も座り直した。

「井伊谷に行ったそうだな」
「はい……」
「儂の許しもなく?」
「言えば、反対したでしょう」

信玄は言い返せなかった。代わりにため息をつく。

「そなたは慎重かと思えば、大胆に動く。何を考えてるか分からぬ時がある」
「父上の息子ですから」

義信が皮肉を込めて言い返すので信玄は項垂れるより仕方なかった。

「それで?」
「井伊直虎は我らに協力してくれることになりました」
「そうか……」

信玄はホッとしたように肩の力を抜いた。そこへコナーが虎松と亥之助を連れてきた。

「ヨシノブ、二人をどう……」

コナーは信玄の姿に気付き、言葉を切る。指示を仰ぐようにヨシノブに視線を向けた。コナーの後ろに隠れるように虎松と亥之助がしがみついていた。



義信は嶺に二人の世話を任せ、コナーにその護衛を頼み躑躅ヶ崎つつじがさきやかたへ向かわせた。後に残ったのは信玄と自分の二人だった。

「あの小僧どもはなんだ?」
「虎松と亥之助です」
「名などどうでも良い!」
「良くありません。あの二人はいずれ井伊家をしょって立つ身です」
「お前は人質を差し出させたのか?」

信玄は驚きを隠せなかった。義信の性格を考えれば当然の反応であろう。義信は肩をすくめる。

「私がそんなことをすると?」
「する訳がない。だから、聞いているのだ」

義信は事の顛末を信玄に話す。信じがたいといった表情であったが最後は納得する信玄だった。

「事情は分かった。あの二人は躑躅ヶ前館で預かることにしよう」
「そうですね。私もそれが良いと思い、嶺に世話を頼んだところです」
「嶺に?」
「いけませんか?」

義信は不思議そうに首をかしげる。それを窘めるかのように信玄は片眉を上げて忠告する。

「二人を預かったのはそなただ。そなたが面倒見ずして何とする」
「ですが、私は幽閉されておる身で……」
「なら、今すぐそなたの幽閉を解く」
「父上……」
「その代わり、二度と儂に刃向かうことはないと起請文をしたためよ」
「分かりました」
「では、この話は終いだ。すぐに館に戻れ」

こうして、義信の幽閉は説かれることになった。



八月、家臣たちから信玄へ反逆しない旨の起請文を提出した。これは義信が起請文をしたため、幽閉を解かれたことが要因だった。

「まさかこんな効果があるとは……」
「まぁ、良かったではありませぬか」
「駿河侵攻も楽に進めれます」

信玄は複雑な表情を浮かべるのだった。

「それはさておき……」

信之が話題を切り替えようとして声を低くする。

「信親兄上から重騎兵が仕上がったとの報告が上がってきております」
「ほう。では、駿河侵攻には使えそうか?」
「はい。そのつもりでいるようです」

信玄はその報告に満足した。
他にも朗報は続く。信之の鉄砲隊も精度が上がっており、いつでも出陣出来るという。更に鉄砲鍛冶も呼び寄せ、甲斐国内での生産も始める予定だという。

「これなら最小限の戦力で駿府城を落とせるやもしれぬ」

そこに飯富おぶ昌景まさかげ改め山縣やまがた昌景まさかげが騎馬隊の整備も順調であることを伝えてくる。全てが順調に向かっていることに信玄は満足するのだった。



「これで来年には実行に移せるな」
「赤備えも昌景のおかげで更に拡充しております」
「これでそなたに男児が生まれれば安泰だ」

信玄は笑みを浮かべながら、義信の肩を叩く。

「子は授かり物です。そう易々やすやすとはいきませぬ」
「あくまでも儂の希望だ」
「そうは聞こえませぬが……」

義信は眉をひそめる。信玄は笑っているが、目は笑っていない。

「思うところはあろうが、側室を……」

そう言いかけた信玄の後ろ頭を何か丸いものが直撃した。

「父上!?」
「いたた……」

義信がその丸いものを手に取ると蹴鞠けまり用のまりだった。どうやら庭から飛んできたものらしい。縁側に出てみると侍女の一人が慌てふためいてやってきた。

「も、申し訳ございません!!」
「そなたは確か松の……」

それは今年六つになる松姫の侍女・千枝であった。千枝によると松姫が姉の菊姫たちを誘って蹴鞠をしていたらしい。そこへ虎松たちが加わって誰が一番遠くに鞠を蹴れるかと競争になったのだという。

「また、松めか!!!」
「は、はい……」
「あのじゃじゃ馬め! 今日こそ!!」

信玄は顔を真っ赤にして庭へ出て行ってしまった。後に残った義信は松姫がいつもこの調子かと尋ねる。

「はい。松姫様は兄の六郎様や弟の七郎様と剣術の真似事まねごとをされることが多く。それをたしなめられると今度は蹴鞠を始められてしまって……」
「それはまた。随分とお転婆に育ったな」
「松姫様はとても勘の鋭い方です。絵里様と勝頼様の間に何かあり、その原因が全て御館様にあるのだと思われているようなのです」

千枝の言葉に義信は複雑に思う。獅子身中の虫を取り除くための措置が、それぞれに心の傷を残してしまった。それを幼い松姫に感じ取らせてしまったことに申し訳なく思うのだった。



一方、松姫を懲らしめるべく庭に出た信玄は未だ本人を見つけるに至ってはいなかった。

「あのじゃじゃ馬め! どこに隠れおった!?」

それを木の上からジッと見つめる者があった。松姫と虎松だ。

「松、本気なのか?」
「うん」
「わかった。俺が亥之助に合図するから……」

虎松は大きく手を振った。廊下の角でビクビク震えながら隠れていた亥之助がそれに気付く。

「ひぃ、虎松様からの合図だ……」
「もう、男のくせにしっかりしなさいよ!!」
「で、でも。お、御館様、あんなに怒ってるし……」
「ほら、しっかりしなさい!!」
「ぎゃぁぁぁ」

一緒にいた菊姫に突き出されるようにして亥之助が前に進み出た。が、思いっきりつんのめって派手にこける。

「うん?」
「ひっ」
「そなたは確か……」
「は、はひぃ!!」

亥之助は信玄の顔を見るや、妙な声を上げて立ち上がった。

「井伊谷より参りました、小野亥之助にございます!!」
「おお、あの元気な坊主の友であるか」
「は、はい」
「この館には慣れたか?」
「はい、皆良くしていただいております」
「困ったことがあれば遠慮無く申せ」

そう言って信玄は亥之助の頭を優しく撫でる。亥之助が目を上げれば、信玄の優しい笑顔があった。嬉しさの余り、涙ぐみそうになる。だが、その先に虎松の顔が見え、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「ところでうちのじゃじゃ馬を見なかったか?」
「え?」
「松じゃ」

松姫の名が出たところで虎松が更に合図を送る。亥之助は意を決して信玄の後ろを指差した。

「う、後ろの茂みに!!」
「なに!?」

信玄は振り返り、茂みに近づいた。そして、ちょうど二人が隠れていた木の真下に来たところでそれは起きた。

「「とうりゃ!!」」

なんと、二人は木の枝から信玄めがけて飛び降りたのだ。

「ぐはぁっ」

さすがに子供二人に乗りかかられては信玄も地べたに這いつくばるより他なかった。

「虎松、逃げるわよ!」
「おお」

松姫に続いて虎松も走り去る。信玄は起き上がると同時に顔を真っ赤にして追いかけ始める。

小童こわっぱどもが! もう許さんぞ!!」

そこから始まった追いかけっこは小回りのきく松姫らに軍配が上がる。信玄は松姫たちを見失ってしまったのだ。

「上手くいったわ」
「ああ。でも、ホントに良かったのか?」

虎松に声をかけられ、松姫は立ち止まる。その顔はどこか思い詰めているようだった。

「松?」
「なんでもない……」

一言呟いて松姫は再び歩き始める。虎松も何も言わず彼女の後をついていくのだった。



「いたたた……」

その夜は直見が閨の順であったため、信玄は腰を揉んで貰っていた。

「随分と派手にやられましたね」
「松め。じゃじゃ馬が過ぎる」

信玄は起き上がると腕組みをして考え込む。

「最近の松の行動は目に余る。一体何が気に入らぬのか……」
「恐らく、勝頼様のことでございましょう?」
「勝頼がどうした?」

直見は一つため息をつくと、松姫の誕生祝いに勝頼が用意した品を絵里が未だに大事にしまっていることを話した。そして、それを時々取り出しては抱きしめ密かに涙していることも……。

「それを松が見たのか?」
「千枝の話ではそのようです」
「ふ~む」

信玄は顎髭を撫でながら、どうしたものかと思案する。

「御館様……」
「うん?」
「一度、松姫と話すべきかと」
「そうだな。折を見て話をしてみよう」

信玄は松と話をすることにしたのだった。



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