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四、
しおりを挟む中西工業社長、中西守の息子英二は、何不自由なく、育てられた口だ。
文学の方は、あまり出来る方ではなかったが、元々運動神経が良く、高校でボクシングを始めると、全国大会に出場し、高成績を残した。
そして、卒業後、迷うことなく上京し、ボクシング強豪の東邦大の門を潜った。
初めて親元を出、大都会の東京でもまれながらの同じ仲間たちとの寮生活。
その仲間は皆、全国から選ばれたエリートばかり。隣を見ればインターハイや国体である程度の成績を残してきた強者ぞろい。
高校の時と違い、日々のハイレベルな練習。スパーリング相手も事足りた。生活、環境、何もかもが名古屋にいた時と違い、彼は大きく成長をした。そして、四年生の時には全日本選手権優勝という実績を上げている。
その日は陽気も良く、そよ風の気持ちいい、穏やかな日だった。
単位はしっかりと取っており、あとは卒業を待つだけ。これから授業をサボり、何処かへ行こうと考えていた矢先に、いきなり目の前で暗雲が広がった。
それは東邦大の校庭を歩いていた時だった。鞄の中に入れておいたスマートフォンが鳴り、受信すると、母親の上ずった声で現実に引き戻された。
「何!」
英二は周りの目を気にすることなく、大声を出していた。
「お父さんが倒れたのよ」
がもう一度言った。母親の光子だ。
「どうして?」
「慢性閉塞肺疾患よ。呼吸不全で倒れ、増井病院に運ばれたの」
「なんで、そんなことに・・・・・・」
「このところ帰りも遅く、忙しくて、ちょっと無理をしてしまったの。ストレスも重なり、煙草の本数も増えてね。それで、お医者さんが言うには、喫煙は呼吸器の病気には外因性危険因子であり、発症に関与することも立証されてるって、」
光子の声は弱々しかった。
新幹線で東京から名古屋まで帰り、駅からタクシーに乗り、守の病室にその日のうちに飛び込んだ。
茶色の床、白い壁、その壁には薄汚れた染みが所々に広がっていた。
端には真新しいベッドが設置されており、シーツからは酸っぱくて、湿った臭い、あるいは消毒液のような刺激の強い、臭いが鼻をついた。周辺には人工呼吸器、点滴など沢山の機材が置かれ、電気は灯っていたが、それでも暗く感じた。
「容態は?」
項垂れた母親。虚ろな目をした妹の瑠唯。
「おにぃ」
瑠唯がいち早く気づいた。
「もっと、早くから入院していればよかったのよ。肺機能が低下していたことはわかっていたのに・・・・・・。
この人、何も言わず、頑張りすぎたから。それで、倒れて、意識を無くしてしまってね」
「まだ、意識はないのか?」
「今はとり戻してはいるけど、薬で眠らされている」
「そうか」
「お父さんは(IPPV)所謂、気管挿管の侵襲的陽圧換気療法がとられているのよ」
「え?」
英二は理解出来ない、といった表情をした。
「先生がいうには、人口呼吸、陽圧呼吸よ。
目的はガス交換、酸素化、換気を改善することで、主に人工呼吸の必要な症状に値するのは肺炎、心不全、ARDS,喘息発作、急性増悪、そして、お父さんの慢性閉塞性肺疾患(COPD)に適応されるわけで、外から陽圧をかけることで圧較差をつくり、肺へ空気を流す役割になっているのよ」
光子の不安そうな顔。
「わかる?」
英二は首を振った。
「それで、親父はずっと、このままなのか?」
「いずれは、この人工呼吸器も外れることになるとは思うけど、今はまだ予断を許されない状況だわ」
ベッドに横たわった守の姿。守には人工呼吸器が当てられ、痛々しい姿がそこにはあった。
「このところ帰りが遅い、って言ってたけど、いつも何時ごろまで仕事をしてたんだ?」
「十二時を過ぎたこともしばしばで・・・・・・」
「なんでそんなに遅くまで・・・・・・。親父は社長だろ」
「ええ。でもね、今度親会社の日本精機から出向してきた人と、経営に関する折り合いがつかないのよ。
だって、その人は、前の会社で経理を担当していたこともあり、数字に関することに詳しくて、中西工業に無駄な経費が多いということを察知してしまった」
「それと親父の帰りが遅くなったということに、どんな意味があるんだ」
「ええ。いいから聞いて」
光子は続けた。
「無駄な経費の埋め合わせ、というか必死だった、この人は。
なにせ親会社の日本精機でしょ。今までの慣れ合いの経営が明るみに出てしまえば、取引までが危うくなる。だからお父さんはその整理に追われたのよ」
「何で、親父だけが抱え込まなければならない、部下は何をやってるんだか・・・・・・」
英二は揺れる心境を覗かせた。
「必死だったのよ、お父さんは。従業員を四百人も抱えているのよ。その人たちを路頭に迷わすわけにはいかないでしょ」
しばらくは皆が黙り込み、ただ瀕死の大黒柱を見つめるだけだった。
時計の針だけが、機械的にコツコツと時刻を刻んでいく。
時折、ちょっとした音、例えば衣服の布が擦れる音や、足を組み直す時に上手くいかず、靴が床とぶつかる音。
何かを言おうとして、口ごもる。ただ単に出る溜息。
そんな音に皆が視線をやるが、ただそれだけだった。何も起こる気配はない。
この部屋にあるものといえば、嫌な空気が蔓延しているだけだった。
それでもその重々しい沈黙を破ろうと、光子が顔を上げた。
「英二、」
眉間に皴を刻み、言った。
「あなたもうすぐ卒業でしょ。どうなの? この前、プロになる、と言ってたけど」
「そうなんだ。そのことについてはちゃんと話さないといけないな。
この前、俺は後楽園ホールにボクシングを見るために行ったんだけど、そこで名古屋にある十和ジムのトレーナー、神谷さんに声を掛けられたんだ」
「東京で?」
瑠唯が訊いた。
「フライ級の日本タイトルがあってね、神谷さんは、その前座に十和の選手が出ていたから、付き添いできていたそうだ。そこに、俺がたまたま居たから、声をかけてきたんだ」
「そうなんだ。で、その会話は何だったの?」
「ま、途中の会話を省略して言うと、スカウトだ」
「おにぃ、スカウトされたの?」
英二は肯いた。
「君はプロで絶対にやっていける、俺と手を組んで世界を狙わないか、と言われたよ」
「それであなたは何と答えたの?」
「とりあえずは、いいお話ですね。でも将来のことだから両親と相談をしなくてはならない、と言っておいた」
「相談、といってもお父さんがこんな状態だし・・・・・・」
光子は守の顔を見ながら呟いた。
「あなたはどうしたいの?」
「俺はやりたい」
英二は断言した。
「でもあなたは中西家の長男で、うちの会社を継いでもらわないといけないのよ」
光子が畳み掛けてきた。
「その件についてだけど、俺は敷かれたレールに乗るつもりはない。親父がこんな状態で、いうことではないことくらいわかってはいるが、でも・・・・・・」
「私が・・・・・・」
そんな時、瑠唯が口を挟んだ。
「おにぃの立場でもそう思ったかな、きっと。いくら家のこと、といっても、やっぱり自分のやりたいことをやる、それが一番いいことのように思う。
だからそれを犠牲にしてまで、家を継ぐというのは、そういうの、荷が重すぎるな・・・・・・」
しばらく光子は、下を向いたまま守の顔を見ていた。そして、
「あなた達、勝手ね」
と溜息混じりに呟くと、その言葉で再度静けさだけが虚しく広がった。
どよどよとした梅雨空のような重々しい空気が漂うこの部屋の中で、三人は守の姿を眺めることしか出来なかった。
何かをしてやりたいのだが、その何かがわからないもどかしさに、三人はただ、ただ時間を過ごしていた。
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