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十三、
しおりを挟む身体がじわじわと冷え、体の芯から凍える。
小さな電気ストーブでは身がもたない。しかも寝る時には消さなければならないのだ。
ストーブだけではない。ここにある全ての電気、それから水道も。
なぜなら深夜に料金が嵩むと、誰かがいることを察知されてしまう。それだけは避けなければならない。まるでモグラのような生活だ。
夜が来るのを恐れた。昔からだ。日が暮れて、またあれが、喘息が自分の体を蝕んでいくようで、暗闇の世界にどっぷりと浸かることを恐れていた。
いくら眠くても、寝付くことなどできない。こんな所なんかにいるからなのか。それに隣では小六の坊主、浩太がいるが、彼もまた眠れずに夜を過ごしているようだった。
義信は、彼を見た。
「いつの日か、熟睡できることを切に願う。でないと、このままでは自我が崩壊する」
「え?」
「何でもない」
義信は言った。
「眠れないのか?」
「うん」
彼は布団を払い除けた。そして起き上がった。
「お兄ちゃんって何か、自分から好んで、暗い道ばかりを歩いているようだね」
「そうかもな」
ふと思った。俺はもしかしてこのまま奴の陰として、生きていかなければならないのだろうか。
奴は生まれついた時から燦々と降り注ぐ太陽の日が差すところで生き、そして、俺みたいに日の差さない、ジメジメとした日陰に佇む者を蔑んできた。
いつだって奴は、上から俺のことを見下していた。あの目、俺は奴の目を好きになれないし、許せない。
もとはといえば俺とあいつは、本当は同じ人間だった。しかし、今ではどうだ。
日が差すところと、差さないところに分れている。義信も起き上がり、そして、蝋燭を点けた。
部屋が少しだけ明るくなった。お互いの顔がわかるくらいに。
「世の中には日陰の道を好んで歩く者と、日向の道を好んで歩く者がいる。
だが結局のところ、どちらも同じ人間だ。本質は何も変わらない。
どんな人間だって、心の何処かでは人に認めてもらいたい、そう思っているに違いない」
浩太は首を傾げながら、話に聞き入っていた。
「お前には、難しかったか。ま、いずれわかる時がくる」
「じゃ、好まないのに、その道を歩く人もいるの?」
「そうだ。世の中というものは、不平等にできているものだ」
義信は言った。
「好まないのにその道を歩いている者もいる。いや、大概の人間はそうだろう。
だが一握りの人間だけは、本当の道を正すために何らかの形によって、軌道修正を行なう。今の自分を捨て、新しく生まれ変わろうと、な」
義信は熱くなっていた。他のものが目に入らないくらいに。
「お前はいつもそうだった。努力もせず、やることなすことすべてうまくこなし、皆の注目を一心に受けていた。
俺だって本当は才能があるんだ。何をするにも。野球だって、俺はグローブさえ買ってもらえなかった。
だから試合にも、ましてや練習にさえ参加させてもらうことはなかった。
ボクシングだってそうだ。俺がこの道を選んだばかりに、試合に出ること、表彰台に立つことも叶わず、お前のように世界戦のリングになど、立てるわけもない。その気持ちがお前にわかるか?
お前がそうやっていつも陽の道を突き進んでいけるのも、おれが、この俺がずっと陰の道を歩んできたからだ。待ってろよ。必ずお前を、陥れてみせるからな」
「お兄ちゃんは、一体何をしようとしているの?」
「今いるこの立場を、ある奴と変わるつもりだ」
義信は言った。
「人間は、な、やるべきことがはっきりと明確化されている者が強い。お前にはそういうものが一つでもあるか?」
浩太は、しばらく考えた。
「僕には、これといって・・・・・・」
「それでは駄目だな、そんなことでは」
「どうして? ぼくはまだ小学六年生なんだ、そんなことわからなくても。これから徐々にわかっていけばいいじゃない」
「いや、小さな時から目標というものを一つは持っておくべきだ。そして、それを持ったら迷うな。迷いは人の行動を鈍らせるだけだ」
孤独だった。今までの人生の中、これ以上に孤独だと感じたことはない。きっと今の俺は、誰でもよかったのだろう。ただ、喋り相手が欲しかったー。
「迷いのある人間は、弱いの?」
義信は肯いた。そして、彼の顔を見た。しばらくすると彼の顔が明るくなっていく。
「何だ?」
「僕は、お父さんとキャッチボールがしたい」
「お前の父親は、死んだじゃないか」
当て付け? 嫌味か? そんなことを考えていると、浩太の顔色が一瞬のうちに曇っていった。
「俺にも一人切りの母親がいたよ」
義信は立ち上がって、ジャケットのポケットから煙草を取り出し、そして、火をつけた。
「俺も小さな時は身体が弱くてな。お前のように喘息発作がよく出たものだ。
夜になると発作が出て、母親に病院に連れて行ってもらった時もある。車がなかったから、いつも自転車だったよ。
母親の背中にしがみつき、夜の街を一緒に走った。気管支が、咽にへばりつきそうなくらいに苦しかったよ。
それでも母親の背中にしがみつき、振り落とされないように踏ん張った。病院に行けば、吸入器で、喘息が治まると思ってな」
煙草を吹かすと、ボッとその個所だけが明るくなった。
そして、テーブルの上にある蝋燭。ゆらゆらと揺らめく弱々しいその火。風に吹かれれば、たちどころに消えてなくなってしまう俺たちの命のような火。
それを見ていると確かに俺たちは生きている。それと共に、今の俺たちの弱々しい、この命を痛感せざるをえない。
「でもな、俺の母親は弱かったんだ。いつも誰かの顔色を伺い、そして、家に帰ってくれば溜息ばかりつき、疲れ果てた顔を浮かべる。
それはしょうがない。俺のために働いてきてくれたんだ。いつ頃からかな、それがわかったのは。
おれの気持ちが。そうだ、母親が死んでからだ。母親っていうものは、必死だよ。自分の子のことに対しては。だから子供のために働く母親は疲労が重なり、それで暗くなるもの。
そうなった性格、状況がわかり、それを理解すると、とても愛おしくなってきて、な。
夢の中でもいいから会いたいと何度も思うようになった。親というものはそういうものなのかもしれない。お前もそうじゃないか?」
浩太は突然立ち上がった。
「父親が生きている時には、それほど思っちゃいなかった。お前がさっき言った、キャッチボールがしたいなんてことは。
なぜなら父親はいつも家に帰ってくるのが遅く、お前は、いつも一人で留守番を任されていた。
それで淋しく、一人泣きながら、レンジにコンビ二で買ってきた弁当を入れ、それをチンして夕食を一人で済ます。
実際のところはそんな父親なんて嫌いだったはずだ。そしてこう思った。
なぜ自分はこんな生活をしているのだろう、と。同級生はどこそこに行った、お父さんと、お母さんに何々をしてもらった、これを買ってもらった、なんて言うのに、自分にだけは、両親が揃っておらず、母親がいない。母親の優しさを知らないんだ」
浩太の背中が少しだけ震えているのに気づいた。
「俺がガキの頃もそうだった。何の思い出もなく、他に愛する人も、それから友人もいなかった。
だがな、俺には一つだけあった。憎しみだよ。憎しみが俺を今まで生かしてくれたんだ。
喜怒哀楽の中で人間を一番強くする感情は、怒りだ」
突然、彼が振り返った。憎悪のこもった顔で。
「お兄ちゃんが殺したんだ。お兄ちゃんが!」
浩太は顔を真っ赤にし、堰が崩れたように泣き出した。
「そうだ。怒りだよ。怒りがお前を成長させてくれるんだ。怒りによって、生かされろ。
他人が自分に何をしてくれる。こっちがいくら苦しんでいても、知らぬ存ぜぬだ。
だから自分で何とかするしかない、そうだろ。人生というものは、そういうものだ」
義信は自分の何とも言えない感情に、体の中でふつふつと湧き起こってくるこの感情、これが何なのかわからなかったが、自分でも気づかずに、両手を前に差し出していた。
俺は、この俺は一体、何をしようとしている? 自分でもこの感情を静めることができず、浩太に手を差し伸べ、抱き締めようとしていた。
日付が変わった瞬間、テレビを見ていた人には、このニュースが耳に流れてきた。
『警察の話しでは、十一月二十日の愛知県足田町下林山で起きた事件、中西工業株式会社、会社役員の佐竹宣夫さん四十六歳の死亡事故についてですが、当初の見解と違い、佐竹さんは自殺ではなく、他殺の線が強いと見て捜査を続けており、新たに(足田町下林山殺人事件)として捜査を進めることになりました。
この事件は更に二年前の増井病院で亡くなった中西守社長変死事件と関連が深いとみており、同会社に勤める後藤義信二十九歳を二つの事件の重要参考人として、指名手配することになりました。
尚、後藤容疑者は最近会社に出勤しておりません。それに自宅の豊田市のアパートにも戻っておらず、行方がわからず、逃亡している可能性が高いとみて、警察は愛知県一帯に八百名の捜査員を動員して、捜査を進めていくとのことです。
更に佐竹宣夫さんの長男、浩太君十二歳も依然として行方がわからず、同署では、その後藤容疑者により誘拐、監禁、若しくは殺害されたのではないか、という見解を出しております―』
応援ありがとうございます!
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