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第十七章 『特殊な部隊』と義兄弟
第42話 鍋の向こうの裏切り
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「なんだ?」
焼き豆腐に箸を伸ばした嵯峨の手が、不意に止まった。
廊下の向こうから、怒声と足音が混ざり合い、空気ごと食卓に冷や水を浴びせたような気配が広がる。
湯気を上げる鍋を囲むちゃぶ台の上に、場違いな緊張が走った。
この西園寺邸には、昔から様々な食客が自由に出入りしていた。芸人、画家、役者、太鼓持ち……。
今宵も、殿上会の打ち上げとして安酒と粗末な肉が振る舞われ、座敷の外からは賑やかな笑い声が絶えなかった。
だが、その和やかな空気は一瞬で凍りつく。
「大公!」
襖が音を立てて開かれ、醍醐文隆陸軍大臣が怒気を湛えた眼差しで、嵯峨を睨みつけた。
「なんだ?」
醍醐の視線は、酒を口に運ぶ嵯峨にまっすぐ向けられていた。
その眼は血走り、口元は怒りに震えている。
「そんなに大声を出すことないでしょう。こっちはね、若い世代の話をしてたんです。いい人間ばかりで羨ましいってね。上の世代は怒鳴り込むのが挨拶代わりですか? せめて『殿上会』の響子さんを見習ってほしいもんですね。あなたも見てたでしょう、あの人の度量を」
そう言って、嵯峨は平然と取り皿に手を伸ばす。
そんな彼の前へ、憤然と醍醐が歩み寄り、どっかりと腰を下ろした。
止めようとした太鼓持ちが、西園寺義基に視線を向けると、西園寺は手で静かに下がるよう指示した。
「バルキスタンのイスラム民兵組織が、なぜ機動兵器を持っているんですか? あなたは、知っていたんでしょう? 今すぐ説明してください!」
醍醐は自らを落ち着けようと、嵯峨の前に置かれた燗酒の徳利を一息で空けると、怒りをそのまま言葉に乗せてそう叫んだ。
「西モスレムの支援規模からすれば、むしろ少ないくらいですね。M5が32機、M7が12機、その他諸々で計102機。あれくらいの兵力がなければ、カント将軍の首を取っても、同盟各国が出兵してきたら即座に潰されますよ。そのくらいの頭が無いと民兵組織のトップなんて務まりませんよ。分かりましたか?大臣閣下」
嵯峨はそう言いながら、肉を一枚ずつ取り皿に移していく。
その言葉を聞きながら、醍醐の顔は怒りと失望に染まり、赤みを強めていった。
「……あなたは最初から、知っていたのですね」
醍醐の声が震える。それは怒りではなく、信頼を失った者の声だった。
「情報機関が情報を取り逃がすなんて、よくある話です。ま、現実を見てくださいよ。目に映るリアルがすべてなんですよ……違います?」
嵯峨は静かに醍醐に目を向けるが、その口元には皮肉な笑みが浮かんでいた。
それが火に油を注ぐように、醍醐の怒気をさらに煽った。
「じゃあ、彼らはどうやって機動兵器を手に入れたんですか!」
醍醐が思わずちゃぶ台を叩く。
西園寺はそれを見ながら、ただ静かに愛想笑いを浮かべている。
「裏ルートといっても、私が押さえている線では、そんな大掛かりな密輸行為は確認できていません。それに反政府組織の支援元の西モスレムも、今回の選挙にはカント将軍の手腕を問題視しながら治安維持軍を送っているんです。選挙自体が無効になるような兵器提供なんて、自滅行為はしないはずですよねえ……」
そう言って嵯峨は、肉に卵を絡めて口に運ぶ。
「つまり、外から持ち込んだのではないとすれば……答えは自然と導き出せるでしょう?」
嵯峨の言葉に、醍醐はある仮説に思い至る。
カント将軍が自作自演で敵対勢力に兵器を与え、選挙を混乱させ、正当性の欠如を装って政権に居座ろうとしている。
そして、その事実を隠し続けていた嵯峨の態度に、醍醐はあらためて敵意を感じ、ちゃぶ台の隣に座り込んだ。
「カント将軍も愚かではない。選挙が妨害されたという既成事実があれば、自分の責任ではないと装える。政権延命の、なかなか巧妙な策ですよ」
嵯峨はまるで隣に醍醐がいないかのように、肉を噛みしめ続けた。
「では、大公はなぜその事実を、そこまで詳しくご存知なのですか?」
なおも食い下がる醍醐。
嵯峨は肉を飲み込むと、ようやく醍醐に視線を向けた。
「まあ、厄介なお節介焼きが多いもんでね。情報が漏れ伝わってくるんですよ。そんな中の最悪な予想屋の話が、どうも現実味を帯びてきたなあって」
そう言いながら、嵯峨は再び箸を鍋へ向ける。
「私の情報精度が甘かったのは認めましょう……しかし、情報を共有しなかったということは、我々と協力するつもりはないと?」
醍醐は白髪混じりの髪を振り乱し、今にも嵯峨に掴みかかりそうな勢いで叫んだ。
「それをうちに言われてもね。お仲間のアメリカ海軍にでも聞いてみたらどうですか? たぶん反政府組織の機動兵器の操縦を担当する民兵のパイロット名簿くらい送ってくれますよ……連中もすべてこのことくらい十分知ってた……何にも知らなかったのは先鋒を切って降下する甲武の軍隊の兵隊さんだけ……まあ、甲武軍の多少の損害なんてアメリカさんの知ったことじゃないんでしょうね」
嵯峨は振り返ることもせず、鍋から白滝を拾い上げていた。
「まさか……米軍が? 我々は利用された……」
醍醐の顔が怒りに引きつり、嵯峨は見向きもしない。
西園寺は静かに箸を置き、二人のやり取りを見守っていた。
「国家間に友情なんてないでしょう? 軍人なら常識のはず。アメリカさんとしては、甲武軍を動かして同盟内に亀裂を生じさせる。それが今回のアメリカが甲武に協力する姿勢を示して見せた主目的です。結果的に善意で動いたとっつぁんが最悪の結果を招いて、その尻拭いを俺たちがやる。むしろ感謝されたいくらいですよ」
嵯峨は悠然と肉を口に運び、醍醐の顔は見る見るうちに紅潮していく。
信じていたものすべてに裏切られた男……それが、今の醍醐だった。
「分かりました!宰相。すべては私の失態です!」
嵯峨に見切りをつけた醍醐は懐から書簡を取り出した。表には『辞表』と書かれているのを見ても嵯峨は黙って白滝を取り皿に運んでいた。
「突然だね。聞いた限りでは醍醐さんには何の責任も無いような気がするんだが」
それだけ言うと西園寺義基は手に取ることも無く、醍醐の陸軍大臣を辞めるということが書かれているだろう書簡を眺めていた。
「嵯峨公。私はもうあなたを信じられなくなりました……」
元主君として身を挺して働いてきたつもりの人物がすべてを知りつつ自分の善意を踏みにじっていた。その事実に醍醐は耐えきれなかった。
『醍醐のとっつぁんは、正直すぎる。だからこそ米帝に利用された。……情を見せたら、今度は自分が折れてしまう。それが軍事の裏側の世界なんですよ。俺はそちらの面しか知らなかった。だから、俺は笑っていなきゃならない』
嵯峨は表情1つ変えずに醍醐を見つめていた。
「え?これまでは信じてたんですか?それはまたご苦労なことで。俺みたいに駐留武官なんていう仕事から軍に奉職すると人を信じない癖がつきましてね。実戦部隊上がりの醍醐さんには理解できないかな、俺の思考回路」
視線を向けることも無く嵯峨は白滝を食べ続ける。その様子に激高して醍醐は紅潮した頬をより赤く染める。
「まったく!不愉快です!宰相!辞表は確かにお預けしましたよ!」
そう言うと醍醐は立ち上がった。そして西園寺義基と嵯峨惟基の義兄弟を見下ろすと大きなため息をついた。
「すいませんねえ。俺はどうしてもこう言う人間なんでね。怒ってる人間を見るとさらに怒らせたくなる。自分でもどうにも困った性分です」
部屋の襖のところまで行った醍醐に嵯峨が声をかける。だが、醍醐はまるで表情の無い顔で一礼した後、襖を静かに閉めて出て行った。
「どうするの?それ。今、醍醐さんに辞められるってのは義兄さんの内閣にとってはまずいんじゃないの?『民派』で醍醐さんの人気は結構あるんだ。それが離反したとなれば、義兄さんを支えてる平民達にも動揺が広がる。さあ、どうします」
嵯峨は今度は焼き豆腐に箸を伸ばしながら腕組みをして辞表を見つめている西園寺義基に声をかけた。
嵯峨の表情は事の成り行きを楽しんでいるように見えた。醍醐が出て行ったこの奥座敷のふすまの向こうからは心配そうな表情ですべてを見守る食客達の姿が嵯峨からも見ることが出来た。
「さあて、宰相、どうしますか?」
追い打ちをかけるように嵯峨は笑いながら西園寺にそう言った。
「とりあえず預かることになるだろうな。だが、醍醐君の話はいい。それは俺の宰相としての手腕の問題だ。なんとかする。それより新三郎、今回の事件。どう処理するつもりだ?醍醐君はあの調子だとアメリカにまで裏切られていたことを陸軍内部でバラすつもりだぞ。甲武の反地球感情が高まれば同盟機構もただでは済まない」
その言葉はこれまでのやわらかい口調とは隔絶した厳しい調子で嵯峨に向けられていた。
「どうしましょうかねえ。実は対策の手はもう打ってあるんですがね……後は俺は黙って東和への出発のシャトルの出発時に四条畷の空港まで行くだけ。その時にはすべては終わってる……ただそれだけですよ」
嵯峨はそう言うと調理用ということで置いてあった一升瓶から安酒を自分の空けた徳利に注いだ。
「随分と自信があるみたいだな、その対策の手と言うものに。これだけの大事になったんだ。しくじれば同盟機構から司法局の存在意義が問われることになるぞ。貴様の秘密主義は時に仇になることがあることを覚えておいた方が良いな」
静かにそう言うと西園寺義基は嵯峨が置いた一升瓶から直接自分の猪口に酒を注ごうとする。さすがにこれには無理があり、ちゃぶ台にこぼれた安酒を思わず顔を近づけてこぼれた酒をすすった。思わず嵯峨の表情がほころんだ。
「兄貴。それはちょっと一国の宰相の態度じゃないですよ……。それに同盟の活動の監視は議会の専権事項ですからねえ。それにアメリカさんが遼州を裏切るのは今に始まったことじゃない。年中行事だ」
アメリカ陸軍に生体解剖された過去を持つ弟の言葉に私情が入っていないことは知っているので、西園寺は黙っていた。
「ただ、今回はアメリカさんにはカント将軍の身柄を確保するという第一目標は諦めてもらいましょう。その線で行けば醍醐のとっつあんの顔も潰れなくて済む。だましたのは俺一人。アメリカは最初から関係なかった。義兄さん。陸軍の官房部にはその線で今回の件を発表するように仕組んでくださいよ」
そう言って嵯峨は笑う。釣られて西園寺も照れるような笑みを浮かべていた。
「分かった。その線で行けばこの辞表は握りつぶせる。ただ、もうすでにお前の竹馬の友の赤松君の第三艦隊が準備を始めちゃってるんだ。いまさら、何にも無しって訳にもいかない甲武の事情も分かってくれ」
西園寺はそう言うと豆腐を口に放り込んで熱さに吹き出しそうな嵯峨に目を向けた。
酒に霞んでいたはずの目が、宰相のそれに戻っていた。
一国の命運を託す男の、濁りのない瞳だった。
「まあ、ここまでは想定通り……あとは、現場がうまくやってくれることを祈るだけですね。俺の仕込みは全て終わってるんで。あとは結果を高みの見物というところですか」
嵯峨はそう言いながら、豆腐を噛みしめる。その味は、どこか苦かった。
「じゃあお前さんの好きにしなよ。当然、結果を出すことが前提だが」
西園寺義基はそう言うとコップ酒を口に含む。それを見た嵯峨はいつものとぼけたような笑みを浮かべて肉に箸を伸ばした。
焼き豆腐に箸を伸ばした嵯峨の手が、不意に止まった。
廊下の向こうから、怒声と足音が混ざり合い、空気ごと食卓に冷や水を浴びせたような気配が広がる。
湯気を上げる鍋を囲むちゃぶ台の上に、場違いな緊張が走った。
この西園寺邸には、昔から様々な食客が自由に出入りしていた。芸人、画家、役者、太鼓持ち……。
今宵も、殿上会の打ち上げとして安酒と粗末な肉が振る舞われ、座敷の外からは賑やかな笑い声が絶えなかった。
だが、その和やかな空気は一瞬で凍りつく。
「大公!」
襖が音を立てて開かれ、醍醐文隆陸軍大臣が怒気を湛えた眼差しで、嵯峨を睨みつけた。
「なんだ?」
醍醐の視線は、酒を口に運ぶ嵯峨にまっすぐ向けられていた。
その眼は血走り、口元は怒りに震えている。
「そんなに大声を出すことないでしょう。こっちはね、若い世代の話をしてたんです。いい人間ばかりで羨ましいってね。上の世代は怒鳴り込むのが挨拶代わりですか? せめて『殿上会』の響子さんを見習ってほしいもんですね。あなたも見てたでしょう、あの人の度量を」
そう言って、嵯峨は平然と取り皿に手を伸ばす。
そんな彼の前へ、憤然と醍醐が歩み寄り、どっかりと腰を下ろした。
止めようとした太鼓持ちが、西園寺義基に視線を向けると、西園寺は手で静かに下がるよう指示した。
「バルキスタンのイスラム民兵組織が、なぜ機動兵器を持っているんですか? あなたは、知っていたんでしょう? 今すぐ説明してください!」
醍醐は自らを落ち着けようと、嵯峨の前に置かれた燗酒の徳利を一息で空けると、怒りをそのまま言葉に乗せてそう叫んだ。
「西モスレムの支援規模からすれば、むしろ少ないくらいですね。M5が32機、M7が12機、その他諸々で計102機。あれくらいの兵力がなければ、カント将軍の首を取っても、同盟各国が出兵してきたら即座に潰されますよ。そのくらいの頭が無いと民兵組織のトップなんて務まりませんよ。分かりましたか?大臣閣下」
嵯峨はそう言いながら、肉を一枚ずつ取り皿に移していく。
その言葉を聞きながら、醍醐の顔は怒りと失望に染まり、赤みを強めていった。
「……あなたは最初から、知っていたのですね」
醍醐の声が震える。それは怒りではなく、信頼を失った者の声だった。
「情報機関が情報を取り逃がすなんて、よくある話です。ま、現実を見てくださいよ。目に映るリアルがすべてなんですよ……違います?」
嵯峨は静かに醍醐に目を向けるが、その口元には皮肉な笑みが浮かんでいた。
それが火に油を注ぐように、醍醐の怒気をさらに煽った。
「じゃあ、彼らはどうやって機動兵器を手に入れたんですか!」
醍醐が思わずちゃぶ台を叩く。
西園寺はそれを見ながら、ただ静かに愛想笑いを浮かべている。
「裏ルートといっても、私が押さえている線では、そんな大掛かりな密輸行為は確認できていません。それに反政府組織の支援元の西モスレムも、今回の選挙にはカント将軍の手腕を問題視しながら治安維持軍を送っているんです。選挙自体が無効になるような兵器提供なんて、自滅行為はしないはずですよねえ……」
そう言って嵯峨は、肉に卵を絡めて口に運ぶ。
「つまり、外から持ち込んだのではないとすれば……答えは自然と導き出せるでしょう?」
嵯峨の言葉に、醍醐はある仮説に思い至る。
カント将軍が自作自演で敵対勢力に兵器を与え、選挙を混乱させ、正当性の欠如を装って政権に居座ろうとしている。
そして、その事実を隠し続けていた嵯峨の態度に、醍醐はあらためて敵意を感じ、ちゃぶ台の隣に座り込んだ。
「カント将軍も愚かではない。選挙が妨害されたという既成事実があれば、自分の責任ではないと装える。政権延命の、なかなか巧妙な策ですよ」
嵯峨はまるで隣に醍醐がいないかのように、肉を噛みしめ続けた。
「では、大公はなぜその事実を、そこまで詳しくご存知なのですか?」
なおも食い下がる醍醐。
嵯峨は肉を飲み込むと、ようやく醍醐に視線を向けた。
「まあ、厄介なお節介焼きが多いもんでね。情報が漏れ伝わってくるんですよ。そんな中の最悪な予想屋の話が、どうも現実味を帯びてきたなあって」
そう言いながら、嵯峨は再び箸を鍋へ向ける。
「私の情報精度が甘かったのは認めましょう……しかし、情報を共有しなかったということは、我々と協力するつもりはないと?」
醍醐は白髪混じりの髪を振り乱し、今にも嵯峨に掴みかかりそうな勢いで叫んだ。
「それをうちに言われてもね。お仲間のアメリカ海軍にでも聞いてみたらどうですか? たぶん反政府組織の機動兵器の操縦を担当する民兵のパイロット名簿くらい送ってくれますよ……連中もすべてこのことくらい十分知ってた……何にも知らなかったのは先鋒を切って降下する甲武の軍隊の兵隊さんだけ……まあ、甲武軍の多少の損害なんてアメリカさんの知ったことじゃないんでしょうね」
嵯峨は振り返ることもせず、鍋から白滝を拾い上げていた。
「まさか……米軍が? 我々は利用された……」
醍醐の顔が怒りに引きつり、嵯峨は見向きもしない。
西園寺は静かに箸を置き、二人のやり取りを見守っていた。
「国家間に友情なんてないでしょう? 軍人なら常識のはず。アメリカさんとしては、甲武軍を動かして同盟内に亀裂を生じさせる。それが今回のアメリカが甲武に協力する姿勢を示して見せた主目的です。結果的に善意で動いたとっつぁんが最悪の結果を招いて、その尻拭いを俺たちがやる。むしろ感謝されたいくらいですよ」
嵯峨は悠然と肉を口に運び、醍醐の顔は見る見るうちに紅潮していく。
信じていたものすべてに裏切られた男……それが、今の醍醐だった。
「分かりました!宰相。すべては私の失態です!」
嵯峨に見切りをつけた醍醐は懐から書簡を取り出した。表には『辞表』と書かれているのを見ても嵯峨は黙って白滝を取り皿に運んでいた。
「突然だね。聞いた限りでは醍醐さんには何の責任も無いような気がするんだが」
それだけ言うと西園寺義基は手に取ることも無く、醍醐の陸軍大臣を辞めるということが書かれているだろう書簡を眺めていた。
「嵯峨公。私はもうあなたを信じられなくなりました……」
元主君として身を挺して働いてきたつもりの人物がすべてを知りつつ自分の善意を踏みにじっていた。その事実に醍醐は耐えきれなかった。
『醍醐のとっつぁんは、正直すぎる。だからこそ米帝に利用された。……情を見せたら、今度は自分が折れてしまう。それが軍事の裏側の世界なんですよ。俺はそちらの面しか知らなかった。だから、俺は笑っていなきゃならない』
嵯峨は表情1つ変えずに醍醐を見つめていた。
「え?これまでは信じてたんですか?それはまたご苦労なことで。俺みたいに駐留武官なんていう仕事から軍に奉職すると人を信じない癖がつきましてね。実戦部隊上がりの醍醐さんには理解できないかな、俺の思考回路」
視線を向けることも無く嵯峨は白滝を食べ続ける。その様子に激高して醍醐は紅潮した頬をより赤く染める。
「まったく!不愉快です!宰相!辞表は確かにお預けしましたよ!」
そう言うと醍醐は立ち上がった。そして西園寺義基と嵯峨惟基の義兄弟を見下ろすと大きなため息をついた。
「すいませんねえ。俺はどうしてもこう言う人間なんでね。怒ってる人間を見るとさらに怒らせたくなる。自分でもどうにも困った性分です」
部屋の襖のところまで行った醍醐に嵯峨が声をかける。だが、醍醐はまるで表情の無い顔で一礼した後、襖を静かに閉めて出て行った。
「どうするの?それ。今、醍醐さんに辞められるってのは義兄さんの内閣にとってはまずいんじゃないの?『民派』で醍醐さんの人気は結構あるんだ。それが離反したとなれば、義兄さんを支えてる平民達にも動揺が広がる。さあ、どうします」
嵯峨は今度は焼き豆腐に箸を伸ばしながら腕組みをして辞表を見つめている西園寺義基に声をかけた。
嵯峨の表情は事の成り行きを楽しんでいるように見えた。醍醐が出て行ったこの奥座敷のふすまの向こうからは心配そうな表情ですべてを見守る食客達の姿が嵯峨からも見ることが出来た。
「さあて、宰相、どうしますか?」
追い打ちをかけるように嵯峨は笑いながら西園寺にそう言った。
「とりあえず預かることになるだろうな。だが、醍醐君の話はいい。それは俺の宰相としての手腕の問題だ。なんとかする。それより新三郎、今回の事件。どう処理するつもりだ?醍醐君はあの調子だとアメリカにまで裏切られていたことを陸軍内部でバラすつもりだぞ。甲武の反地球感情が高まれば同盟機構もただでは済まない」
その言葉はこれまでのやわらかい口調とは隔絶した厳しい調子で嵯峨に向けられていた。
「どうしましょうかねえ。実は対策の手はもう打ってあるんですがね……後は俺は黙って東和への出発のシャトルの出発時に四条畷の空港まで行くだけ。その時にはすべては終わってる……ただそれだけですよ」
嵯峨はそう言うと調理用ということで置いてあった一升瓶から安酒を自分の空けた徳利に注いだ。
「随分と自信があるみたいだな、その対策の手と言うものに。これだけの大事になったんだ。しくじれば同盟機構から司法局の存在意義が問われることになるぞ。貴様の秘密主義は時に仇になることがあることを覚えておいた方が良いな」
静かにそう言うと西園寺義基は嵯峨が置いた一升瓶から直接自分の猪口に酒を注ごうとする。さすがにこれには無理があり、ちゃぶ台にこぼれた安酒を思わず顔を近づけてこぼれた酒をすすった。思わず嵯峨の表情がほころんだ。
「兄貴。それはちょっと一国の宰相の態度じゃないですよ……。それに同盟の活動の監視は議会の専権事項ですからねえ。それにアメリカさんが遼州を裏切るのは今に始まったことじゃない。年中行事だ」
アメリカ陸軍に生体解剖された過去を持つ弟の言葉に私情が入っていないことは知っているので、西園寺は黙っていた。
「ただ、今回はアメリカさんにはカント将軍の身柄を確保するという第一目標は諦めてもらいましょう。その線で行けば醍醐のとっつあんの顔も潰れなくて済む。だましたのは俺一人。アメリカは最初から関係なかった。義兄さん。陸軍の官房部にはその線で今回の件を発表するように仕組んでくださいよ」
そう言って嵯峨は笑う。釣られて西園寺も照れるような笑みを浮かべていた。
「分かった。その線で行けばこの辞表は握りつぶせる。ただ、もうすでにお前の竹馬の友の赤松君の第三艦隊が準備を始めちゃってるんだ。いまさら、何にも無しって訳にもいかない甲武の事情も分かってくれ」
西園寺はそう言うと豆腐を口に放り込んで熱さに吹き出しそうな嵯峨に目を向けた。
酒に霞んでいたはずの目が、宰相のそれに戻っていた。
一国の命運を託す男の、濁りのない瞳だった。
「まあ、ここまでは想定通り……あとは、現場がうまくやってくれることを祈るだけですね。俺の仕込みは全て終わってるんで。あとは結果を高みの見物というところですか」
嵯峨はそう言いながら、豆腐を噛みしめる。その味は、どこか苦かった。
「じゃあお前さんの好きにしなよ。当然、結果を出すことが前提だが」
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