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『嘔吐』の果てに主人公が見た『現実』

第119話 神前誠、初めての『大人の駆け引き』

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「すまんな、ちょっと昔のことを思い出してな……逃げて意味のある奴は逃げるべきだ。おまえさんも逃げることに意味がある」

 珍しく慌てた様子の嵯峨を見て、誠はどこか親近感を感じていた。

「隊長。僕は逃げません!」

 誠はそう言ってこぶしを嵯峨に突き付けた。

「そうかい、臆病なんだな」

 意表を突いた嵯峨の言葉に誠は再び言葉を失った。

「逃げる方が臆病者です!」

 当たり前の自分の言葉を聞きながら、嵯峨は目を逸らしてタバコを床に押し付けて火を消す。

「それは世の中を知らない『赤ん坊』の言うセリフだ。『撤退』、『縮小』、『撤収』、『敗走』。どれも勇気がねえとできねえんだぜ。いつの時代でも戦場ではその『撤退戦』の最後尾を最強の部隊が担うってことになってるんだ。おまえさんの同級生の一般企業に就職した奴もいずれ『拡大しすぎた事業からの撤退』とかいう『逃げ』の仕事を押し付けられるの。ほとんどは『討ち死に』して会社をクビになる。世の中つれえんだわ……軍や警察もおんなじ。逃げることには勇気と決断がいるんだよ」

 誠も企業の『事業縮小』や『リストラ』の話はテレビで見て知っていた。『策士』である嵯峨がそれを『戦場』としてとらえているのも理解できた。

 しかし、誠には嵯峨のように『逃げる』ことへの嫌悪感がぬぐい切れずにいた。

「じゃあ……僕は……」

 迷う誠に嵯峨は冷たい視線を投げながら、胸ポケットから取り出したタバコに火をつける。

「じゃあ、言うわ。さっき『遼州同盟』の偉いさん達から、俺達『特殊な部隊』に正式な命令が届いた。『甲武国』の『近藤忠久中佐』の乗艦『那珂』を奴さんごと沈めろ……って無茶なこと言うな……ちゃんと『殺人許可』は出てるそうだ。死んだ『甲武国』の軍人は全員『犯罪者』として『処刑』された扱いになるそうだ」

 誠を見つめたまま嵯峨はそう言った。その目はいつも通り死んでいた。

「『近藤忠久中佐』?……乗艦『那珂』……」

 この『特殊な部隊』に配属になったばかりの誠にも、それがあまりに過酷なミッションであることは余裕で想像ができるものだった。

「そう、今回の演習はただの口実だ。同盟司法局の目的は甲武国不安定化を企む『ある男』の意図を挫くこと。その為に『那珂』には沈んでもらう……世の中そんなもんさ」

 嵯峨はそう言って苦笑いを浮かべた。
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