川面の光

くまいくまきち

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 敷石の化粧目地まできれいに掃いて、ひさはお店の表門をくぐった。門前を竹の箒で軽く清めると、下げてきた水桶に手を突っ込む。

 「ひゃっけぇ」

と、思わず声をあげてしまった。
 真冬の水拭きは手が冷たさに慣れるまでが、つらい。それでも黒い格子の引き戸を拭いていると、身体がほかほかと暖まってくる。
 門前の小道はゆるい下り坂となっている。その先は船着き場。そして新河岸川の豊かな水がゆったりと流れている。
 
 あたりはまだ暗い。だが川のはるか向こうの空が、薄いむらさき色に輝きはじめている。 雲間を縫って射し込むいく条かの光りが、揺れる川面に小さなきらめきを撒いている。
ひと息つきながら川面をみつめていたひさの耳に、かすかな歌声が聞こえてきた。


 「――ハアー
船がついたや
   藤乃屋の河岸に
  はやくとれとれ
   おもてもや――」 


 男の声にしてはややかん高い、朝もやに溶け入るような澄んだ声。ひさには聞きおぼえがある。上南畑村(現・富士見市)の持船船頭、源五郎に違いない。源五郎はそのいかつい容貌に似ず、美声で沿岸の河岸場にその名が通っていた。

 甘酸っぱいような想いが、鳩尾のあたりに沸く。ひさはこくりと、唾を飲み込んだ。源五郎船には久助が若い衆として乗り組んでいる。

 久助と最後に会ったのはいつのことか。ひさは思ってみる。それは考えるまでもないことだ。前の年の五月の晦日、一揆勢がこの福岡河岸(現・上福岡市)を襲う少し前のこと。もう半年を過ぎている。


 (無事だったろうか……)


 坂道を船着き場までかけ下りて行きたい気持ちを、ひさはようやく堪えた。

  血の気の多い久助のこと。一揆勢に逆らって命を落としたり、もしや川越の大工衆と一緒になって一揆に加わっていたりはすまいか。岩鼻の代官所に一揆勢の主だった者たちが梟首せられた、などいう話を耳にすると、まさかとは思いつつも胸の奥がきりりと痛んだ。

 源五郎船は藤乃屋の定雇いではないから、常に荷を扱うわけではない。番頭さんに尋けば判るだろうが、下女の分際でそんなことを尋くことはできなかった。

おもえば思うほど、まるで深井戸のほの暗い水底を覗きみるように、不安は募った。

甘い香りが鼻をくすぐった。小豆粥を炊いているのだ。

ひさは、はっとする。孕み箸に使うおっかどの小枝を束ねて、流しの脇へ立て掛けておいたことを思い出した。小正月の朝、子宝に恵まれるようにと若い嫁女は小豆粥を食う。その時に真ん中が膨れた、おっかどの小枝を箸にするのだ。

てるがおっかどを薪と間違えて、竈にくべてしまっているのではないか、と思った。てるの早合点には、これまで何度となく泣かされてきたひさである。

ひさは川面を見つめる。つうーと滑るようにして、ミヨセ(船首)から船が現れる。風を孕んだ一枚布の大きな帆が、朝の陽光をうけて朱く輝いていた。美しいと思った。

 「――てる」

ふくの声だ。

 (ああ、やっちまったべ)

ひさは後ろ髪を引かれる思いで、あたふたと表門をくぐった。
 台所へ戻ると、てるがふくに叱られてべそをかいていた。但し、おっかどの枝は半分がた無事であった。二三本ばかりをくべたところで、ふくが気づいたのだ。

 「ひさもひさだ。何でてるに言わねえかったんだ」

 台所の敷居に足をかけたところで、ふくの舌鋒が飛ぶ。

 「おれが気い付いたからえかったもののよお。てるがぜんぶ、おっくべてたらなんじょするつもりだったべ」

 「……済まねえ」

ひさは頭を深く垂れた。消え入りそうな声で詫びた。てるは泣きじゃくりそうになるのを、下唇を強く噛んで堪えている。それでも吐息とともに、かすかな泣き声が漏れている。無理もない。てるはこの正月でようやく九つになったばかりだった。

ひさもてるも、新河岸川の西、下福岡郷の小前百姓の娘であった。貧しい百姓家では、子宝など望まずともやってくるものだった。そのせいでふたりともまだ幼いころから奉公に出された。もちろん口減らしのためである。

ひさも、この藤乃屋にやって来た当初は、孕み箸のことなど知らなかった。てるが知らないとて仕方のないことだ。

そのひさも、今年で十七になった。

 藤乃屋は主人一家と番頭手代、小僧たち合わせるとゆうに十人を超える大所帯である。
 朝飯の支度、その合間に自分たちも麦飯をおこうこ(漬物)でかっこんで腹ごしらえをする。
 朝飯の後始末、母屋の二階の雑巾掛けが終わると客たちがやってくる。
 お茶の支度や茶うけのきんぴらや煮物、おこうこなどを用意しなければならない。客は荷を扱う川越をはじめ近郊の商人たちが主であったが、川越藩の役人たちも藤乃屋の客となった。誰も、よく茶を飲みよく喋った。長っ尻で、なかなか帰ろうとしない。

ようやく暇を見つけて船着き場へ降りたのは、もう九つ(正午ごろ)を回っていただろうか。

いく艘かの荷船が岸に横付けされている。その周りを荷を降ろしたり積み込んだりと、若い衆や小僧たちが忙しく駆け回っている。 船は荒川や利根川を通る高瀬船よりひと回りほど小さい。九十九曲がり、と言われるほどに新河岸川は蛇行し、川幅もいち様ではない。川底も浅かった。そこで船のシキ(底)を平らかにして、通行を容易にした船が造られたのであった。船はその形状からか「川越ヒラタ」と呼ばれていた。

ひさは源五郎船を見つけると、何げない風を装って近づいた。既に船は江戸からの上り荷を降ろし、今度は江戸へ運ぶ下り荷を積み込んでいた。上りは米ぬか、干鰯などの金肥や塩、瀬戸物のほか日用雑貨。下りは野方(新河岸川西岸の畑作地域)の甘薯などの農作物や炭が主であった。

 船の周囲に、久助の姿はなかった。ひさはさらに船へ近づいていく。
セジ(居住所)のすぐ前のコベリ(船頭が棹を使う場所)に腰を下ろしている男がいる。丸に藤の字をあしらい、棹が掛からぬよう袖を詰めた印半天を羽織り、紺の腹掛けにぴったりした同色の股引きをはいている。男はゆったりとした所作で、キセルをくゆらせていた。 印半天を通しても肩の筋がよく張って盛りあがっているの判る。その上に四角ばった、赤銅色の大きな顔が乗っている。鼻は低く眼は額の皺と見まがうほどに、細い。黒下駄ともあだ名される、南畑村の源五郎であった。

「……あのう」

 勇気を振り絞って、ひさは声をかけた。厚ぼったい瞼がゆっくりと上がる。気鬱げに中空をさ迷っていた視線がふと何事か覚ったかのように、止まった。
鳶色の瞳が、ひさを見つめた。

 「久助の奴なら、もういねえよ」

源五郎はそっけなくそう言うと、船縁をキセルの頭でぽんと叩いた。キセルを仕舞い、コベリの上に立つ。ひさが見上げると、半天の短い裾を翻して源五郎はフナバリを軽くまたぎ、船尾へと歩いていく。鬢油の残り香が、つんとした。

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