この世界の描き方

夜月はなび

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ヒビ

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「つまり、だな。俺にとって世界とは半径85cmなのだよ」

「スケールの小さい男すぎて俺は悲しくなってきたよ」

 そう言って、颯也は泣き真似をした。

「別に良いだろ。世界の広さなんて知らなくて良い。みんな画面の前のどこの誰とも知らない人と自分を比べて劣等感を抱いている。だったら、見なければ良い話、だろ?」

「それは、SNSの話? まぁ、確かにそういう面もあるかもだけど。学校の人とかと関わったりするのは」

「同じだよ。周りの人のことを意識するから、みんなおかしくなっちゃうんだ。俺は自分らしくありたい」

「はぁ、だったら、山奥とかに篭って悟りでも開いたらどうだ。俺、彼女のとこ行ってくる」

「行ってら」

 山奥に篭って悟りを開く、それも悪くないかもしれない。もちろん、衣食住が完璧に保証されてて、ネット環境も整っているなら、だけど。


 どうやって悟りを開こうかなんて思いながら、教室にいても暇なので校内を歩いていると、神方さんが誰かと話しているのが目に入った。声は聞こえない。向かい合って何かを言い合っている。あまり仲が良さそうには見えない。

 美術部の人とかかな。

 少し興味を持ったが、俺には関係ない。俺は、自販機でジュースでも買おうと外に向かった。



「ケイくん」

「はい」

「あれ、やけに素直だね。つまんない、何か良いことあった?」

「いや、何もないですよ。まぁ、何もないことは良いことかもしれないですけど。どうせ連れて行かれるなら逃げるのは時間の無駄だって思っただけです」

「へぇ~、そっか」

 昨日と同じ部屋に行き椅子に座る。

「昨日、ちらっと絵を見たんですけど。もう色塗りだけでしたよね。俺、いるんですか?」

「色塗りだけって……。君の体には部位ごとにカラーコードが描かれてるのかい? 色を決めるのだって実物を見てやらないと。言ったでしょ、私は見えたまんまの君を描いている。まぁ、今日はちょっとぐらい動いても良いけどね」

「そうですか……」

 別に見たまんまを描いてるとは言ってない気がするけど。

 また静寂の時間がやってきた。
 

「玄関に飾られてる絵、見ました」

「え、うちの玄関に飾られてる絵?! どうやってみたの!」

「いやいや、違いますよ。学校の正面玄関のとこ」

「あ、あぁ、なんだ。びっくりした。あれね、上手いでしょ」

「はい、文部科学大臣賞でしたっけ凄いですね」

 俺の言葉に神方さんの手が止まった。

「ケイくん、それは、どういう意味? 文部科学大臣賞を取ったから凄いって言いたいの?」

 だらんとぶら下がった腕にある細い筆が、何故か今はナイフのように見えた。

「いや、そうじゃなくて、絵が、上手いというか。まぁ、でも俺、美術全くわかんないし、だから、すみませんけど、正直、賞を取ったってことはスゴいんだろうなくらいに思いました」

 最初は、怒らせたのかと思って焦ったが、考えてみると怒らせて何が悪い。確かに、癪に触るようなことを言ったのは申し訳ないとは思うが……。

 別に、これからどうなりたいわけでもない。一方的にモデルを押し付けられただけだ。

「そっか」

 半径85cm。腕を伸ばせば届くぐらいの距離で、神方さんは止まった。

「まぁ、確かにそうかも。あれも自分で言うのもなんだけど、まぁまぁ、凄いんだけどね? 良いよ、分かんないって言うなら、分からせてあげる私の絵で」

 どうやら、変なスイッチを入れてしまったらしい。

 筆で刺されでもするかと思っていた。緊張から解放されてドッと汗が吹き出す。

 今度はちゃんと持ってきておいた水筒から水を飲んだ。

 キャンバスの前に戻った神方さんは筆を動かしながら話をした。

「あの絵、描いたの一年の時。上手くできたとは思ったよ。嬉しかったし、褒めてくれたし。でもさ、見れば見るほど、私が見てる世界ってこうだったっけって。綺麗な世界、でも、私の目にこんなふうに世界は映ってるんだっけってね」

 突然、神方さんは饒舌になった。

「私、絵が大好き。もっと上手くなりたい。美術部の子達もそう言うから、気になったところを口に出したりし始めた。そしたら、案の定、雰囲気が悪くなって。人の絵に口出しはしないって決めたけど。私は私の絵に嘘を吐きたくない。私の世界に嘘を吐きたくない」

 神方さんの声は震えていた。
 神方さんの目は正直にものを語る。十分雄弁な神方さんの口をなお上回るほどに、その目は多くの感情を見せていた。
 怒り、恐怖、不安、そんな感情の混ざった色が、まばたき一つで、覚悟の炎に焼かれた。

 自信満々で、他人なんて気にせず、世間知らずで、自分だけ、主観が全て、そんな天才像が崩れていくのが分かった。

「あぁ~、なんでこんなこと君に話してるんだろうね。今日、あの子に会って喧嘩したからかな」

「あぁ、まぁ、そういうのはあるかもですね」

 あの子、というのは、あの廊下で向かい合っていた子だろうか。喧嘩、やっぱりそうだったのか。

「そうだね。ケイくんはさ、トゲトゲしいよね」

「なんですか、急に」

「でも、優しい。そういう本音と建前が合致しないから、君の内側はドロドロになって影みたいに滲み出る」

「芸術家の言うことはよくわかりませんね。内側がドロドロになって出てきてたら、俺はなんなんですか。スカスカの表面人間ですか」

「あはは、良いね。それも」

 何が良いんだろう。圧縮して持ち運びしやすいから? それちゃんと元に戻るんでしょうね。

「良くないですよ」

 あぁ、本当に良くない。楽しくなってきている。神方さんが突然心を許したような話し方をするからだ、発言をするからだ。

 危険だ。話を聞きたいと思っている自分がいる、話したいと思っている自分がいる。
 どうせ、今日か明日かで終わるはずなのに。それまでだ。それまで待てば、また何にも心を乱されることのない平穏な日々だ。

 落ち着け、俺はどういう人間だ。どういう人間でありたい。少なくともそこに、誰かに頼る部分はない。
 神方さんがまた、絵に熱中し始めたところで、俺はそんな風に自問自答していた。


 日が傾いてきたので取り敢えず今日は終わりということで、神方さんは片付けをしていた。自分も持ってきた水筒のお茶がなくなったので廊下の水道から少し水を飲んでいた。

「この筆ね、友達にもらったんだよね。できるだけ長く使いたいから大事にしてる」

「へぇ~、そうなんですか」

「だから、刺したりしないよ。大丈夫」

「……そんなビビってました?」

「あはは、やっぱり内心ビビってたんだ」

 ハメられた……。悪質だな。

「それじゃあ、また明日ね。何日もごめん。今日終わらせるつもりだったんだけど、思いのほか、熱が入っちゃって。明日には終わるから」

「そうですか。まぁ、ちょっと楽しみになってきたんで、良いですよ」

「そっか、よかった。それじゃ」

「はい」


 神方さんと別れて、外に出る。
 西日が顔を焼いた。俺は、少し長く息を吐き出した。
 太陽と月が天秤の両皿に片方ずつ乗っているみたいだ。沈む太陽と反対に月が出てくる。
 でも、なんだかそれは揺れているように見えた。


「今日はあの持論は良いのか?」

 昼休み、俺の席に机を持ってきた颯也が、開口一番冷やかすように言った。

「逆に聞こう。彼女は?」

「今日も可愛いです」

「さいですか……」

「どうしたんだよ、疲れてんの?」

「まぁね、人と会うと疲れるの。相手が凄いと、尚更」

「あぁ、神方さんか。へぇ、何、好きになりそうとか?」

「ばーか。もうこりごりだよ。そういうのは」

「そっか。なんだっけ、半径85cm論?」

「まぁ、手の届く範囲ってことだな」

「そう、もうちょっと届きそうだけどな」

「俺は十分だよ。完成している世界が好きだ」
 一生、からに閉じこもっていたい。他人なんて不確定要素はあるだけ、不安になるだけだ。



「あれ、おかしいな。どこやったんだろう」

「どうしたんですか?」

「うーん、絵の具とか筆がなくて」

「覚えてる限り最後、どこに置いたか分からないですか?」

「筆は乾かすために、そこの椅子に置いてて、絵の具も一緒だったかなぁ」

「つまり、全く検討つかずと」

「うん、まぁ、また買えば良いんだけどさ」

 そう言いつつ、探す手を止めないのは全く説得力がない。鍵付きのロッカーにしまっていたんだ大事じゃないわけない。

「俺も、探すの手伝いますよ」

 そう言って、二人で部屋や廊下を探していたが結局見つからなかった。

「ごめん、また今度続きは描くよ。今日はもう帰って大丈夫」

 神方さんは、いつになく弱々しい笑みを浮かべて言った。この人もこういう気の使い方をするんだな。

「わかりました」

 荷物を持って、部屋の外に出る。

 神方さんは、窓枠に手を置いて、中庭を見つめていた。
 それを扉の外から見つめて、俺は歩き出した。

 あぁ、余計なことをしている。自覚がある。学習能力がないのか? 俺は。こういうお節介をするからストーカー男とか呼ばれるんだ。

 頭の中に浮かぶ言葉とは裏腹に、俺の足はある場所に向かっていた。

 これは、何かを期待しているとか、感謝されたいとかじゃない。

 もしかしたら感化されていたのかもしれない。自分の絵に嘘を吐きたくないと言った神方さんに。

 辿り着いたのは、美術部。

 筆と絵の具が消えたと聞いた時、真っ先に浮かんだのが美術部の誰かが盗んだこと。全く根拠のない。失礼極まりない考えだ。だから、神方さんに言えるわけがなかった。

 余計なことをしているかもしれないけど、可能性があるなら潰しておきたい。

「失礼します」

 扉を開き、美術室に入ると全員の視線が突き刺さった。目立ちたくない、見られたくない、そんな風に心が叫ぶの抑え込んで、用意していた言葉を吐く。

「友達が忘れ物したらしくって~。代わりにとってきてって言われたんですけど。席どこって言ってたっけな」

 キョロキョロと辺りを見渡す。

「忘れ物なんて、見なかったけど」

「じゃあ、机の下にあるのかもですね」

 この人、何か隠してるな。リボンの色からして三年生。警戒心が半端なく伝わってくる。

「あ、もしかしたらその席だったかも」

「いや、ない。ここには絶対ない」

「何か見られたくないものでもありますか?」

「まぁ、そうだね。私の絵とか……」

 目が泳いでる、明らかに今、考えている。

「神方さんのものとか?」

 だから、賭けに出た。

「早絵の友達?」

 空気が変わった。

「友達、では、ないと思います」

「彼氏?」

「まさか」

 俺は自嘲気味に笑って言った。

「そうだろうね」
 ふっとその先輩は鼻で笑った。

 いや、それは、ちょっと傷つくんですけど。

「返してもらえませんか?」

「なんで?」

「なんでって、それは神方さんのものだから」

「あなたに関係ある?」

 痛い質問だ。俺自身よく分かってない。探すのを手伝うって言ったから? じゃあ、なんでそう言った?

「……絵のモデルさせられてて、早く描き終えて欲しいから……」

 気圧されないように絞り出した言葉は、説得力に欠けた。

「ふーん、新しいの買ったらでいいじゃん」

 確かに、それはそうなんだけど。

「神方さんが、それじゃ嫌そうだったから、ですかね」

 正直に言うなら。そうだ、目の前で悲しそうな顔をする人がいたから、助けたいと何かしたいと思った。
「ふーん」

「ねぇ、仁菜もうやめておきなよ」

 横で見ていたもう一人の先輩が声をかけた。

 目の前の彼女はどうやら仁菜というらしい。

「でも……。てかさ、早絵が直接来ればいいじゃん。そもそもこれ私があげたのだし」

「仁菜先輩って言うんですか?」

「何? 気安く呼ばないで」

 なんでこの人こんな敵意ましましなの、初対面なのに……。

 まぁ、でもこっちも強気に出やすくて助かるかも。
 あんまり柄じゃないんだけどな、と思いいながら俺は大きく息を吸った。

「来れるわけなくないですか? だって、ここに来るってことは神方さんからしたら美術部員を友達を疑うってことになるでしょ! 神方さんは絶対来ませんよ。ここ以外の全部の場所探してもここには来ませんよ!」
 
「……っ! そんなわけないでしょ。どうせすぐに来るよ。あの天才ちゃんがそんな友達思いな感じなわけなくない?」

「神方さん、大事にしてましたよ。あの筆、昔友達にもらったのだから、できるだけ長く使いたいって」

「…………」

「まぁ、あなたからしたら、だからどうしたって話なのかもしれないけど、返してやった方がいいんじゃないですかね」

 仁菜先輩は俯いて何も言わなかった。

 なんで俺は怒っているんだろう。今更になって少し恥ずかしくなってきた。
「こっそり返せば、まぁ、なんとかなるじゃないですか?」

「あの、そのぐらいにしてあげて?」

 さっき仁菜先輩を宥めていた先輩が今度は俺に止めに入った。

「だって……」

 仁菜先輩が話し始める。その声は震えていた。というかこれは完全に。

「だって、戻ってきて欲しかったんだもん! 確かに喧嘩したけどさぁ。何もあんな避けなくたっていいじゃん。早絵、謎の天才変人キャラやりだすしさぁ!」

 泣いてる。

 ただでさえ縁のない場所でアウェイなのに、周りの視線が余計に痛い。

 返してもらおうと思っていただけけなのに泣かせてしまった。

「ごめんね、ちょっとこの子ガキなところがあって。許して」
 隣に立っていた先輩が、申し訳なさそうに笑う。

「いや、その、なんかすみません」

「ほら、仁菜謝りに行こ」

「嫌」

 が、ガキだ……。いや、先輩のことをガキなんて言ってはいけない。そういうこともあるんだ。そうだ。

「え、えーっと」

 これはいなくなった方がいいのだろうか、それとも最後までいた方がいいのだろうか。

 そんなことで悩んでいると、神方さんが入ってきた。

「あ、神方さん……」

「あ、早絵。ほら、やっぱり来たじゃん。冷血天才変人女」

「仁菜……。流石に、あんだけ叫んでたら全部聞こえてる」

 神方さんが笑いが堪えられないと言った風な顔で言った。

 ここで煽るのか……。

「なっ!」

 仁菜先輩の顔がみるみる赤くなっていく。

「いいね、その顔。面白い、絵に描きたい」

「もー!」

「あはは、ごめん、ケイくん。ありがと。ケイくんもいい顔してるよ。やっぱり今日は続き描けそうにないや」

「そうですね。部外者は帰ります」

「あ、私さ。本音と建前が合致しないから化け物みたいになるって言ったじゃん」

「そうですね、言ってました」

「逆にそこが筋通ってるときはさ、透き通って見えるんだよね」

「やっぱり芸術家のいうことはよく分かりませんね」

「今のケイくんは天使に見えるよ」

「……ガラじゃないんでやめてください……」

 俺は、逃げるように美術室を出た。天使と言われたのが嬉しかったとか、恥ずかしかったとかじゃなくて。

 神方さんが綺麗で、逃げ出した。

 透き通って見えるというのも、少しわかるかもしれない。


「あの、ここで描くんですか。この衆人監視の中?」

「うん、いや?」

「まぁ、いいですけど」

 仁菜先輩が神方さんの描く絵を覗きに来た。

「化け物じゃん、その男にはピッタリだけど」

「どうしたんですか? 大泣き先輩」

「あ?」

 こわ、だからなんでこの人はこんな敵意剥き出しなの……。

 神方さんは、俺と仁菜先輩のやりとりなんて気にも留めず絵を完成させようとしていた。

「ケイくんさ、美術部に入りなよ」
 突然、神方さんはそう言った。視線は相変わらず、絵に向かっている。

「え?」

「部活入ってないんでしょ?」

「まぁ、はい」

「じゃあ、美術部、いいじゃん」

「いや、でも、俺、絵描けないし」

「そんなことないよ。絵は体が動けば描けるよ」

「いや、まぁ、そうかもですけど」

「早絵、私は嫌」
 仁菜先輩が俺の方を睨んでくる。

「技術なら誰かが教えてくれるよ。部員が多いと、文化祭とか楽だし、ね?」
 仁菜先輩、無視されてる。

「まぁ、考えておきます」
 
 何かにヒビが入る音が聞こえたような気がした。
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