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最終章 嵐のあとで
92話・自炊の真髄
しおりを挟む夜中に目を覚ました阿志雄は、上半身を起こして薄暗い室内を見回した。隣に敷かれた布団には穂堂が眠っている。きっちりした彼らしく僅かな寝乱れもない。
常時掛けている眼鏡が外されるのは風呂と就寝時くらいなもので、同棲していても素顔が見られるのは稀だ。
枕元に頬杖をつき、穂堂の寝顔を眺める。
同じ部屋で寝てはいるが布団は別。先日買った二台のベッドは次の休みに届く予定だ。それを設置すれば、並べて敷いた布団より間が空いてしまう。今の状態に不満はないが、慣れれば欲が出る。
手を伸ばし、頬に触れる寸前で引っ込める。
恋人という肩書きは得た。
好かれている自信もある。
だが、それは何をしてもいいという免罪符ではない。
阿志雄は他人が何を考えているか、何を欲しているかを察する能力に長けている。どうでもいい相手には平気で出来ることも、穂堂相手には何ひとつ出来ない。拒絶されるのが怖いからだ。
「……嫌われたくないなぁ」
穂堂の優しさにつけ込み、様々な根回しをして、ようやく隣にいられる立場を手に入れた。あとは失敗しないように注意深く距離を詰めていくだけ。
小さな寝息を立てる穂堂に背を向け、阿志雄は頭から布団を被った。
「何を作ればいいか、ですか」
「はい」
社員食堂で並んでランチを食べながら、穂堂は鍬沢に自炊について尋ねていた。
先日炊飯器やフライパン、鍋や食器類を買い揃えたばかり。何度かふたりで簡単なものを作ってはみたが、毎日となると何を作るべきかが分からない。
「難しく考えなくても、食べたいものを作ればいいんですよ。極端な話、肉焼いて好きな味のソース掛けるだけでも立派な料理です」
「そういうものですか」
「変に気負って難しいもん作って、自炊を面倒に思ってしまうと続きませんからね。無理なく毎日続けられる程度のものを作ればいいんです」
こればかりは食事にどれだけ重きを置くかにも依る。大抵の人間には鍬沢と同じレベルの自炊は無理だろう。
「あ、でも肉と野菜はバランス良く食べたほうがいいですよ。食生活が乱れてると健康にも悪いんで」
健康に悪い、という言葉に穂堂が青褪める。
これまで空腹を満たすだけの食事しかしておらず、栄養面については二の次。休みの日は食事を抜いたり、ショートブレッドやシリアルなどで済ますことも珍しくなかった。
自分だけならともかく、阿志雄にそんな食生活をさせるわけにはいかない。
「ありがとう鍬沢くん。頑張ってみます」
食べ終えたランチのトレイを持ち、穂堂が席を立つ。颯爽と去る後ろ姿を眺めながら「頑張り過ぎたらダメですよ」と鍬沢は忠告した。
穂堂は元来器用な性質である。詳細な手順書さえあれば再現は可能。
しかし、料理は経験がなければ分からないことが意外と多い。ネット上で見られる素人投稿のレシピは説明が大雑把過ぎて理解出来ず、穂堂は素直に初心者向けの料理本を買うことにした。
阿志雄は社外の打ち合わせで出先から直帰する予定である。先に退勤した穂堂はまず書店で簡単そうな料理本を数冊入手し、作りたい料理を決め、スーパーで必要なものを買い揃えた。
「……乱切り……ひと口大???」
食材の切り方ひとつでこれだ。手順に書いてある言葉を調べながらの下拵えは予想以上に時間が掛かった。野菜の皮むきも包丁でやるとなると難しい。おぼつかない手付きで何とか作業を進めていく。
「鍬沢くんや和地さんは簡単そうに作っていたのに、これは慣れるまで大変かも」
包丁を握ってきた年数が違うのだから仕方がないと分かっているのに、つい比べてしまう。
ようやく全ての材料を切り終えたが、調理はまだこれから。穂堂は自分の手際の悪さに肩を落した。
そのタイミングで阿志雄が帰宅した。バタバタと慌てて扉を開け、キッチンに立つ穂堂の姿を見て、驚きの表情で目を見開く。
「穂堂さん、何やってんですか」
「ゆ、夕食の支度を……」
リビングのテーブルに置きっぱなしのスマホには何件かメールが届いていたが、キッチンで悪戦苦闘していた穂堂は全く気付いていなかった。
「思ったより時間が掛かってしまって。君が帰ってくる前に作り終えたかったんですが……あっ」
申し訳なさそうに弁解する穂堂を、駆け寄った阿志雄が正面から抱きしめた。
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