抱擁

月那

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「そうなのよ、念願の二人目誕生ってヤツね。一人目ができてから長いことできなくって、結構本人悩んでたみたいなのよね。だから、奈緒さんに喜び一杯でご報告があって、あたしもさっき聞いたトコなの」
「高倉さんって、アレでしょ? 社内の抱かれたいオトコナンバーワンって異名のある、色男」
「あ、あはは。なに、埴生くん、詳しいのねー。そうなのよ。しかもその奥さんの水津穂さんってのがまたすっごい美人でねえ。結婚の話聞いた時に泣いた人間は相当な数だったらしいわよお。しかもデキちゃった結婚だったし、社内恋愛でしょ? 突然の大ニュースってヤツで、社内誌でも結構大きく取り上げられたみたいなのよ」
「へえ。俺噂には聞くけど、まだ実物見てないんですよ。あとで工事部に見に行ってみよっかなー」
「うん、一見の価値はあるわよ、あれは」
 二人のそんな会話が、まるで遠くの世界で行われているような錯覚がして、和泉はふらふらとその場を離れて歩き始めた。
「え、和泉? ちょっと待ってよ……あ、じゃあまた」
 埴生が慌てて原田に会釈だけすると、和泉の後を追いかけた。
 休憩時間は終わろうとしていたが、和泉の様子がおかしいことが気になり、藤田に目で合図を送るとそのまま渡り廊下に出た。
「和泉!」
 事務所のドアの前で逡巡している和泉の腕を掴んだが、茫然とした様子で自分を無表情に見つめる目に尋常ではないことを悟り、事務所の脇にある非常階段を使って駐車場へと降りた。
「和泉、どうかしたのか?」
 埴生が問いかけても、和泉は何も答えようとしない。
 ただ黙って見つめ返すだけ。
 和泉のこの変化の理由。
 埴生は原田の話から漸くそれに気付き、愕然とした。
「……まさか……」
 高倉水津穂の妊娠。
 それによってここまでの打撃を受ける和泉。
 そして小田や高梨の言っていた“秘密の恋人”説。
 埴生の頭の中でそれが今、結び付いた。
「誰にも黙ってつきあっていた相手って……高倉さん、なのか?」
 黙ったままただ目を逸らす和泉。
 それは肯定以外の何ものでもなくて。
 埴生は生まれてこの方受けたことのない程の大きな衝撃を受けてしまったのだった。
「そ……んな。和泉……」
 不倫、という文字が埴生の脳裏にはっきりと浮かぶ。
 それは自分がもっとも忌み嫌っていた関係で、そんな汚い関係を今自分が一番好きだと思っている人が持っていたなどと、想像すらしていなかった。
「…………誰にも、言うな」
 和泉はそれだけ言って口を噤むと、茫然としたままの埴生の前から立ち去ろうとした。
「待って下さい」
 慌ててそれを止めると、埴生は軽く頭を振った。
 今この瞬間、ショックを受けているのは自分ではなく、この人の方なのだ。
 そう考えると、とりあえず自分のショックについては思考を停止することにする。
「和泉」
「うるさいっ! だから何だって言うんだよ!」
 和泉は埴生を睨みながら怒鳴った。
「不倫とか、言うなよ。弘は俺となんてアソビでしかつきあってない。あいつは水津穂さんのこと真剣に好きだし、オレだってあいつの家庭壊すつもりなって全然ないっ!」
 壊せるわけ、ない。
 怒鳴っているけれど、表情は完全に傷ついているそれで、埴生はそれがあまりにも痛々しく思えてしまって、和泉の体を引き寄せて抱きしめた。
「和泉……」
「何すんだよっ、放せよっ!」
 離れようともがく和泉をその大きな体で封じ込め、ただひたすら抱きしめる。
「和泉、そんなヤツといても仕方ないだろう。別れてしまえよ」
「るさいっ! おまえに言われる筋合いはねえっ!」
「そんなヤツなんかより、俺が幸せにするから。そんなヤツの為に傷付かないで」
「うるさい、うるさい、うるさいっ! おまえには関係ないっ!」
「関係なくないよ、和泉。俺はあんたのこと好きだから、あんたが傷付いているのなんて見たくない」
 埴生が何を言っても和泉は聞き入れない。
 興奮している和泉に埴生のどんな言葉もまともに聞こえてはいないのだから当然である。
 力ずくで和泉を押さえ込んでいたが、和泉だって男である。
 埴生の腕を抜け、結局事務所へと逃げ帰ったのだった。
「……和泉……やめなよ、そんなヤツなんか……」
 埴生はその場で項垂れるようにして呟いたが、虚しく空に消えていっただけだった。
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