逆行した深窓の令嬢は、猫かぶりをやめて頭のおかしい王太子に嫌われようとした――のだが。

千堂みくま

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 アンジーは一人で身支度を終えて食堂へ向かった。
 乳母だったデアナは今では侍女になり、アンジーの世話をしてくれるが、今のアンジーは体が十二歳なだけで中身は十八である。

 祖母は侍女の仕事を奪うものではないとアンジーに言ったが、もう大人しく従うつもりはなかった。部屋にやってきたデアナは少し驚いていたものの、「お嬢さまも大きくなられて」と嬉しそうに言ってくれた。

「おはようございます、お父様」

「おはよう、アンジー」

 食堂にはすでに父がいて、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる。大臣の一人である父は多忙で、いつもアンジーより遅く寝るくせに朝も早いのだ。すでに朝食を終えてしまったのだろう。

「今日は王太子殿下が来られる日だよ。準備は出来ているかい?」

「ええ、大丈夫よ」

 アンジーが平然と答えると父は目を丸くした。

「これは驚いたな。いつも自信が無さそうなアンジーが、こんなに堂々としているとは」

「わたくしももう十二歳ですもの。婚約者と初めてお会いするだけなのに、怯える必要はないと思いますわ」

「ますます驚いたなぁ。私の娘はいつの間に成長したんだろう」

 父は感慨深そうに呟くと娘の頭を愛おしそうに撫で、頬にキスをしてから食堂を出て行った。父にとってアンジーは妻の忘れ形見である。妻によく似た娘が愛しくて仕方がないのだ。

 昼が過ぎ、お茶の時刻になった頃、家令が来客を告げる。

(とうとう来たわね、セルディオ様)

 アンジーは表情を変えることもなくエントランスに出て、王家の紋章が入った馬車を迎えた。カーテシーをしていると目の前にこつんと靴音がして誰かが立つ。

「顔を上げてよろしい」

 横柄に告げる声はやはり王太子セルディオだった。身長はアンジーより少し高いぐらいで、あまり差がない。セルディオは金髪碧眼の美男子ではあったが、六年も冷たくあしらわれ続けたアンジーは彼の顔を見ても胸が疼くことはなかった。

(最初は格好いい王子様だと、ときめいたりもしたのだけど……。今は殺された記憶があるせいか何とも思わないわ)

 冷めた目で見やれば、向こうもアンジーをじろじろと見ている。平凡な容姿の娘だとでも思っているのだろう。アンジーは事務的に王太子を応接間へ通した。

 有能な家令がメイドに指示し、何事もなくお茶が始まる。アンジーはなるべくセルディオを見ないようにしていたが、視線を合わさないようにすればするほど彼がアンジーを観察しているのが何となく分かって嫌だった。

(どうしてそんなに見てくるの。あなただってわたくしには興味がないでしょうに)

 お茶が終わったあとは、広大な公爵家の庭を散策。セルディオがアンジーに気遣う様子もなくずんずんと歩いていくので、こちらも気が楽だった。好きなペースで歩けばいいのだ。
 ここは生まれ育った庭なのだから――と思っていたら。

「アンジェローザ。どうして僕の速さに合わせない?」

 アンジーは驚き、王太子の顔を凝視した。こんな台詞をぶつけられるとは思っていなかった。前回の人生では祖母の言いつけを守り、アンジーは健気にセルディオを追いかけ続けたので、彼も何も言わなかったのだろう。

「合わせる必要がありますの? ここはわたくしの家の庭で、迷子になる心配もありませんわ。殿下もどうぞ、お好きな速さで歩いてくださいませ」

「僕に合わせろ、と言ったらどうする?」

 セルディオはどこか楽しげに言った。アンジーは不快な気持ちになったが、考えてみれば自分の方がかなり年上である。記憶がある分、アンジーの方が大人として振る舞うべきだろう。

「嫌です、と申し上げますわ」

「……おまえ、面白いな。僕に抵抗できる人間がいるとは思わなかった」

 その言葉で、アンジーはふと前回の人生を思い出した。過去を思い起こせば、セルディオに面と向かって反発できる人間はほとんどいなかったように思う。
 アンジーも同じで、なぜか嫌だと思ってもセルディオに従ってしまうことは多かった。

(女神さまが仰ってた、殿下の加護に関係があるのかしら……)

 女神ウラニーアは王太子の加護はアンジーに効かないようにすると言っていたはずだ。つまり今回の人生、アンジーはセルディオの支配を受けずに済む。

「嬉しそうだな。なにを笑っている?」

「人生が楽しいので、笑っているのです」

「羨ましいな」

 セルディオはためらいなくそう呟いた。王太子という立場の人間から、「羨ましい」と言われるとは。

(少し殿下のことを調べてみましょう。国王陛下を殺したのだって、何か理由があるのかもしれないわ)

 目の前にいる十二歳のセルディオは偉そうな印象を受けるものの、父親を殺したいほど憎んでいる様子はなさそうだ。六年間で何かが変わってしまったのかもしれない。

 アンジーは密かに女神の加護を使おうと決意した。
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