しつこい公爵が、わたしを逃がしてくれない

千堂みくま

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34 ここにいたくない

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 そのあとの講義はほとんど頭に入らなかった。ずっとダリオの言葉が脳裏に響いていて、他のことは考えられない。

 最初から―――最初から何もかも、ジオルドが仕組んだ事だったのだ。モルダー伯爵がわたしに惚れ薬を依頼することも、わたしが公爵家に忍び込むことも。

 今日は研究室に寄らずにまっすぐ屋敷へ戻った。頭の中が破裂しそうで苦しい。早くこの気持ちを吐き出してしまいたい。
 自分の部屋で机に突っ伏していると、背後でがちゃりとドアが開く音がした。大股で歩く誰かの気配。その誰かはわたしのすぐ横で動きを止めた。

「ノア? また具合でも悪いのか?」

 顔を上げると、惚れぼれするような美しい男がわたしの顔を覗きこんでいる。でも今はその顔を見たくない。
 わたしは気持ちを押し隠して椅子から立ち上がり、ジオルドを見つめた。

「今日、ダリオに会いました」

「ダリオ? 誰だそれは」

「わたしの元婚約者です」

 ジオルドは一瞬だけ顔を強張らせた。ほんの一瞬だけ、通りすぎるように。今はただ静かにわたしを見ている。

「……話を聞いたのか?」

「ええ、聞きました。あなたがダリオを脅したことも、モルダー伯爵がわたしに惚れ薬を依頼するように仕向けたことも……全部聞きました」

 ジオルドの顔は穏やかなままだった。それが余計に腹立たしい。

「面白かったですか? 何もかもあなたの思い通りになって。この部屋、服も下着も全部揃ってるからおかしいと思ってたんですよね。最初からわたしをこの部屋で飼うつもりだったんでしょう」

 抱きしめるつもりなのか、ジオルドが腕を伸ばしてくる。大きな手をばしっとはたき落とした。

「触らないで! わたしはあなたのペットじゃないわ。ひとを何だと思っているの? 愛しているような顔をして、わたしを振り回して、何が楽しいのよ!」 

「ノア、俺は」

「あなたなんか、大っ嫌い」

 ジオルドの顔がぐしゃりと歪んだ。何よ、どうして今さらそんな泣きそうな顔をするのよ。
 泣きたいのはわたしの方よ、この馬鹿公爵!

 逃げるように部屋を飛び出した。ジオルドの顔を見たくなかった。走って走って、気が付いたら屋敷を出て街道を歩いていた。

 これからどうしよう。もうあの屋敷には戻りたくない。大学へ行こうか? でも泊まる場所なんてあっただろうか。ダリオは―――もう大学にはいないだろうな。

 とぼとぼと歩く内に雨が降ってきた。どこかの店の軒先に入り、街が濡れていくのをじっと見つめる。せめて鞄を持ってくればよかった。お金があれば、安いホテルにでも泊まれたのに。

 ぼんやり立っていると、目の前に真っ黒な馬車が止まった。御者が扉を開け、主人らしき人が現れる。男性の顔を見た瞬間、顔が引きつりそうになった。

 この人、ノイドール伯爵だ。よりによってこんな時に出会うなんて。

「失礼。ノア・ブラキストン嬢ですかな?」

「……ええ」

「お時間をいただけませんか。是非、あなたと話したい事があるのです」

 わたしの両脇に彼の従者が立ち塞がった。丁寧な話し振りなのに、やっている事は脅しだ。貴族って脅すのが大好きなのね。
 わたしはヤケになった気分で「いいですよ」と答えた。もうジオルドの元へは戻れないのかもしれない。でも今はそんな事どうでもよかった。

 囲まれて逃げ場のない状態で馬車に乗り込む。ノイドール伯爵と従者が扉側に座ると馬車は動き出し、がたごとと振動が伝わってきた。
 首もとで宝石が揺れている。このチョーカーも取ってしまえればいいのに。いつまでもどこまでも、ジオルドからは逃げられないんだろうか。

 憂鬱なまま馬車に揺られ、窓の外が薄暗くなった頃にようやく動きが止まった。

 馬車から降りて周囲を見るとどこかの屋敷の裏門が見えた。二人の従者に挟まれた状態で門をくぐり、裏口から屋敷の中に入る。

 先頭を歩く伯爵は廊下の端にある階段を降りはじめた。この屋敷には地下室があるらしい。地下牢に閉じ込める気なのかと不安になってきた。

 階段を降りきった伯爵が一つの部屋に入り、わたしも促されて室内に足を踏み入れる。壁の上部に明かり取りのための窓があったが、部屋の中は薄暗かった。
 中央に置かれたソファに伯爵が座り、わたしは彼の向かい側に座らされる。テーブルの上ではランタンがぼんやりと光っていた。

 伯爵は一人掛けの椅子にどっかりと座り、観察するような視線をわたしに向けている。やがて彼は穏やかな口調で話し出した。世間話でもするかのようだった。

「ノア嬢はフォックス公爵と懇意にしておられるそうですな」

「……いえ、別に親しくは」

「親しくない? 先月の夜会では、あなたを巡って公爵はさる男と乱闘したそうではないですか。美しすぎるというのも大変ですなぁ。うちのマーガレットにも見習わせたいものだ」

「…………」

「しかし公爵と親しくないと言うのであれば話は早い。どうですか、バレンティン様の妃となられませんか? 私が力になりましょう」

「じっ、冗談ですよね? マーガレット嬢がすでに婚約しておられるのに」

「あの子にはあまり利用価値がありませんのでね。それに比べ、あなたは素晴らしい。ノア嬢の功績は今や誰もが知るところだ。バレンティン様とあなたが婚約すれば、彼が王太子になるのも夢ではありません」

「……わたしに何をさせるつもりなんですか?」

 伯爵の顔に張り付いていた笑みが消え、無表情になった。濁った瞳にはぎらぎらした光が宿っている。

「私はね。魔術薬という胡散臭いものが大嫌いなんですよ。あんなものは世の中から消えてしまった方がいい―――そう思っているんです。私は妻を、魔術薬の副作用で亡くしたものでね」

「…………」

「王太子妃となったあなたが主導で魔術薬を根絶やしにしてくだされば、私は満足です。それだけで良いのです。
どうですか、協力しては頂けませんか?」

 一瞬、何を言われているのか分からなかった。
 この人は狂っているのか? 魔術薬を失ったらほとんどの治療が満足に出来なくなるのに、堂々とこんな事を言うなんて……。

 妻を亡くした悲しみから魔術薬を憎むようになったのは分からなくもない。薬というものは常に副作用と隣り合わせで、今もわたし達はどうにかして副作用を減らせないかともがいている。
 でも伯爵の言うように魔術薬自体を全て無くしたりしたら、助かる人まで見殺しにしてしまうだろう。

「協力できません」

 伯爵は無表情のままだった。わたしがこう答えることは予期していたのか、彼はただ静かな声で「残念ですな」と漏らした。

「お話はそれだけですか。わたしはこれで……んんっ!」

 立ち上がった途端、後ろに立っていた従者がわたしの口元に湿った布を押し当てた。甘い香りが体の中に忍び込んでくる。
 この香り―――吸入麻酔薬?

「あなたはこの先、私の障害となるでしょう。悪い芽は早めに摘み取っておかねば」

 遠くで伯爵の声がしている。
 眠い。今にも眠ってしまいそう。

 意識が暗転する直前、尊大な男の顔が頭に浮かんだ。悔しい、こんな時にあの男の顔を思い出してしまうなんて。

 わたしがこんな目に会うのもあなたのせいですからね。
 責任とって、ちゃんと助けに来てくださいよ!

 どさりと何かが落ちる音がして、わたしの意識は闇に沈んだ。
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