しつこい公爵が、わたしを逃がしてくれない

千堂みくま

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35 仮面の紳士

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 遠くでウミネコが鳴いている。そのミャア、ミャア、という声で目が覚めた。

 ウミネコ?
 どうしてそんな鳥の鳴き声が聞こえるのだろう。わたしは海から離れた首都にいたはずなのに。

 重たい体を必死に動かし、周囲の様子を確かめる。棒切れのような頼りない柱と、天井に張られたボロボロの布。
 テントの中だろうか。日の光が当たった布がクリーム色に光っている。

「ここ、どこよ……えっ?」

 手元からジャラッと変な音が響いた。視線を下げると、腕と足に鎖のついた鉄の輪が付けられている。服装もひどい。下着のようなペラペラした薄っぺらい服だし、へそも脚も出てしまっている。なんでこんな奴隷のような格好をしているんだろう。

「お目覚めですか?」

 入り口の布が捲くられ、ノイドール伯爵が現れた。わたしは下に敷かれていた布で体を隠し、伯爵を睨みつける。

「ここはどこですか!? あなたがやっている事は犯罪ですよ!」

 問い詰めるように声を上げても、伯爵は全く動じる様子もない。それがなんだ、とでも言うかのように落ち着いている。

「本当はあなたを殺すつもりだったのですがね。もっと面白いことを思いついたので……。ノア嬢を奴隷として売り飛ばしてしまえば、フォックス公爵は死に物狂いで探し回るでしょう。あの生意気な小僧が慌てふためく顔はさぞかし見ものでしょうなあ。そう思いませんか?」

 この下衆が―――。
 沸騰しそうなほど頭が熱くて、言葉が出てこない。

「あなたの首に付けられている魔道具ね、私も調べたんですよ。どうやら追跡魔術が掛けられているようですが、一定の距離に限定されています。ここはウォルス王国から船で一日かかる絶海の孤島です。もうあなたを見つける事は出来ないでしょう。魔道具は外せなかったけれど構いません。その魔石のおかげで、あなたは高く売れるかもしれないですしね」

 ニタニタと笑いながら楽しそうに言う。彼の頭の中では、悔しそうなジオルドの顔が見えているのだろう。
 わたしは歯を食いしばって伯爵を睨み続けた。

「最後にもう一度聞きます。私に協力する気はありませんか? 協力すると約束すれば助けてあげますが」 

 いっそ憐れむような表情で伯爵はわたしに告げた。慈愛に満ちた声で、今ならお前の罪を許してやろうとでも言うかのように。

「協力しません」

 視線に力を込める。
 負けてたまるか。自分の欲望のために、平気でひとを見殺しにするような下衆に負けてたまるか!

 伯爵はゆっくりと立ち上がり、入り口の布を捲って誰かを呼んだ。捲られた布から男が二人入ってきて、わたしを無理やり立ち上がらせる。

「本当に残念です。お元気で、ノア嬢」

 背後から伯爵の淡々とした声が聞こえた。二人の男に引きずられながら海辺の砂の上を歩いて行くと、前方に巨大な岩山が見えてきた。岩の下は細い洞窟になっているようだ。

 男たちはわたしを洞窟の中に入れ、ごつごつした岩の上を歩かせる。何も履いていない足の裏がちくちくと痛むが、それを上回る怒りで全身が燃えるように熱かった。

 煮えたぎる心の奥底から、呪詛が泡みたいにぼこぼこと浮き上がってくる。

 ノイドール伯爵め、地獄に落ちろ。あんな人でなしがマーガレットの伯父だなんて何かの間違いじゃないの。
 ジオルドは何をしてるんだろう。執念深いあなたなら、わたしを見つけることぐらい簡単でしょう?
 さっさと探しに来てよ!


 洞窟の奥にまるく白い光が見える。どうやら外に繋がっているようだ。歩くたびに光は大きくなり、やがて洞窟の向こう側に出た。

 岩に囲まれた天然の要塞のような場所だった。
 こんな隠れ里のような所で奴隷を売りさばいていたなんて。
 ウォルス国内では人身売買が禁止されているから、こんな岩山の中でこそこそ取り引きしているんだろうか。
 
 中央は広場のように木の椅子やテーブルが置かれ、奴隷を買う人々が今か今かと競売が開かれるのを待っていた。彼らはみな顔を仮面で隠している。飛び交う言語の中には聞き取れないものもあり、様々な国から人が集まっているのだと分かった。

 広場にはひとが一人乗れるような大きさの台が置かれている。あの台に奴隷を乗せて客に披露するのだろう。台の後方には大き目のテントが用意され、中ではわたしと同じように奴隷として売られる人々が暗い顔で地面に座っていた。

 二人の男がわたしをテントの中に押し込み、無言で立ち去って行く。何人かがわたしをちらりと見たが、すぐに興味を失ったように俯いて地面を見ているのだった。

 やがて布の向こうから「お待たせしました」と誰かの声が響き、辺りが急に騒がしくなった。テントの中から一人の少年が連れ出されると、さらに声は高まった。とうとう取り引きが始まったのだ。

 誰かが数字を叫ぶと、他の誰かが少し増やした数字を叫ぶ。何度かそれが繰り返され、少年の値段が決まった様子だった。

 一人、また一人とテントの人間が減っていく。わたしは伯爵への怒りだけを頼りに一人で立っていた。この怒りがなくなったら、怖くて耐えられないと自分でも分かっていたのだ。

 いつ呼ばれるのかと待ち構えているのに、なかなか順番が回ってこない。わたしの順番はいつ来るのだろう。値段が決まってしまったら、本当に誰かに買われていくんだろうか。

 とうとうテントの中はわたし一人になってしまった。今なら逃げられるだろうか? でも見張りの男たちをどうにかするなんて、わたしに出来るだろうか。

 まごついている内に布が捲られ、入ってきた男二人がわたしを外へ連れ出した。テントから出された瞬間、ほお、という誰かのため息が聞こえる。値踏みされるような視線が気持ち悪い。

「さあ、最後の商品です。こちらの商品は見た目が美しいだけでなく、薬師として優れた才能を持っております。首に付けられた魔石の価値は、鑑定した結果なんと三千万! 金額は四千万から開始させて頂きます」

 司会の男が言うと、椅子に座った客から「四千五百万」だの「五千万」だの、次々と数字が飛び出てくる。わたしは呆然と数字が増えるのを聞いていた。

 この人たちはわたしのことを人間だなんて思っていない。彼らのわたしに対する眼差しは生き物に向けるものではなかった。
どれだけ使えるのか、いつまでもつのか。誰かがそんな話をしているのが聞こえてくる。

 ぐっと唇を噛みしめて会場のケダモノたちを睨みつけた。あんたらなんか、全員地獄に落ちてしまえ。

「一億ニ千万! もう一声!」

 司会の男が楽しそうに言う。こいつも殴ってやりたい。

「一億五千万」

 シンとした会場に、低い声が響いた。妙に気になる声だった。
 わたし、今の声を知っているような気がする。

「一億六千万!」

 どこかのおじさんが焦ったように手を挙げて叫ぶ。するとまた、どこからか低く通る声が聞こえてきた。

「ニ億ニ千万」

「にっ……二億、三千万……」

「三億」

 おじさんはがくりと顔を下げた。わたしは会場の奥で手を挙げている男を見つめる。仮面をしているけど、あのがっしりした体とプラチナブロンドは―――。

「ジオルド様……?」

 ぼそっと呟いた声は、司会の男が「では三億で落札です」と叫んだせいで、かき消されてしまった。
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