残業100時間で恋に落ちるとは聞いてません~その手を取ってしまえば、もう後戻りはできない

中岡 始

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第4章:心配させてもくれない

夜のオフィスで、ただ黙っていた

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深夜のオフィスは、空調の音すら遠く感じるほどに静まり返っていた。

蛍光灯の白さがやけに冷たく、机の上の資料を照らしている。  
天城陸は手元のレイアウトに目を落とし、修正済みの項目をひとつずつ確認していた。  
疲労で目の焦点が合わなくなるたびに瞬きを繰り返し、手の中のペンを回す。

周囲の席はほとんど空席で、フロア全体が息をひそめているようだった。

そんな中で、陸の前のデスクに何かがすっと差し出された。  
気づいたときには、資料が静かに置かれていた。  
玲だった。

「差し戻しです。修正箇所、付箋つけてます」

短く、淡々とした口調。  
相変わらず感情の波を含まない声。  
けれど、その声にどこか、わずかな緊張が混じっている気がした。

陸が顔を上げたときには、玲はもう踵を返して去ろうとしていた。

無意識に、声が出た。

「主任」

玲は足を止めた。  
背を向けたまま動かない。

「……俺、なんか、してしまったんですか?」

言ってから、後悔した。  
何かを責めたいわけではなかった。  
ただ、玲の態度にほんのわずかな距離を感じた瞬間、言葉がこぼれていた。

それは確信ではなかった。  
けれど確かに、何かが変わったと感じていた。

玲は、返事をしないまま、数秒だけその場に立ち尽くした。

背中越しに伝わる空気が、妙に重たい。  
まるで、言葉を選ぶことさえ躊躇っているような、そんな沈黙だった。

「……してない」

ようやく返ってきたその声は、驚くほど静かだった。  
否定の言葉ではあるけれど、どこか、完全に遮断された印象があった。

その背中は微動だにせず、感情のありかがまったく読めなかった。  
それなのに、はっきりと感じられた。

距離ができている。

いつからだったのか。  
何がきっかけだったのか。  
あるいは、自分が一歩踏み込もうとしたこと自体が、玲にとって“線を越えた”行動だったのか。

思い当たる節はあった。  
余計なお世話だと返された、スープの差し入れ。  
それでも、気になって、放っておけなくて、言葉にしてしまった気遣い。

もしかすると、あれが玲にとっては“侵入”だったのかもしれない。

それでも、引き返せなかった。  
無言で背中を向けて歩き出した玲を、陸は呼び止めなかった。

ただ、机に両手をつき、深く息を吐く。

胸の奥に、得体の知れないざわめきが残っている。  
それは不安とも違い、後悔とも違った。  
近づいたと思っていたのに、いつの間にか遠ざかっていたことに気づいた瞬間の、あの感覚。

あの人の沈黙は、最初は居心地がよかった。  
言葉に頼らずにいられることが、むしろ心地よかった。

けれど今、その沈黙が少しだけ怖く感じる。

何も言わないことで、本当の距離が分からなくなってしまう。  
触れてもいいのか、引かれているのか、その区別がつかなくなる。

視線を上げると、玲の背中はすでに見えなかった。  
デスクに置かれた資料だけが、彼の存在を示している。

付箋の色は淡い青。  
そこに書かれた字は、いつもの玲の筆跡だった。  
几帳面で、無駄がなく、必要最低限の言葉だけが並んでいる。

それが、どこまでも玲らしくて、どこまでも遠いと思った。

“好き”だと認めるには、まだ名前が追いつかない。  
けれど、この人のことを考える時間が、自分の中で占める割合が増えていることには気づいていた。

心が動いている。  
確実に。

静かな夜のオフィスで、陸はひとり、椅子に沈み込む。  
冷えた缶コーヒーを手に取る気にもなれず、ただじっと、目の前の資料を眺めていた。

その字の向こうにいる玲の存在が、妙に遠く思えた。  
さっきまですぐそこにいたのに、もう触れられない場所に立っているような、そんな距離感。

静寂が胸を締めつける。

安心できたはずの沈黙が、今では不安の影を落とす。

それでも、言葉にしてしまえば壊れそうで、動くこともできなかった。

ただ、黙っていた。  
夜のオフィスで。  
何も変えられないまま。
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