君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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仮面の奥の夜風

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店内の灯りがいっそうやわらかくなり、カウンターに差すシャンデリアの光も、今はもう夜更けの色をしていた。時間は深く進んでいるが、ここではそれが特別な意味を持つ。いつの間にか他の客は帰り、残っているのは駒川とりょうのふたりきりだった。

周囲のざわめきが消えたことで、かえって会話の音が際立つ。とはいえ、ふたりの間にあるのは会話というほどのものではない。交わされる言葉は少なく、静けさがその隙間を優しく満たしていた。

テーブルに置かれた駒川のグラスは、すでにほとんど空になっていた。氷も溶けかけ、音ひとつ立てず沈黙のなかにある。りょうは対面で同じように座っていたが、その姿勢には緊張も気負いもなく、ただ“いる”という静かな存在感だけがあった。

「りょうさん」
駒川が不意に言葉を落とした。少し掠れた声で、それでも迷いを含ませずに。

「俺のこと…どう思ってる?」

言われた瞬間、りょうの胸の奥が微かに波打った。仮面の裏側で、何かが揺れる。言葉を返すには、数秒の沈黙が必要だった。すぐに答えれば、たぶん嘘になる。

そのあいだ、りょうはただ駒川を見ていた。正面から視線を受け止めながら、心のどこかで自分に問いかけていた。本当はどう思っているのかと。

やがて、唇が開いた。

「お客さまです」

りょうの声はいつもどおり低く、柔らかかった。だがそのあとの言葉に、ごく微かな揺れが混ざる。

「…でも、それだけじゃないかもしれません」

返し終えた瞬間、胸の奥に淡い焦燥が広がった。言ってしまった、とも思わなかった。むしろ、言わずにいられなかったというのが、正確だった。あの人に“だけ”は、本音の輪郭を少しだけ見せてもいいような、そんな錯覚があった。

駒川はすぐに返事をしなかった。だが、りょうの言葉を否定も肯定もしないまま、ゆっくりと目を伏せて、そして再びその目を上げた。

「そっか」

それだけだった。ほかに何かを訊ねることも、感情を探るような間も、なかった。ただ、すべてをその短いひと言に込めて、受け取っただけだった。

「また来るかもしれません」

続けてそう呟くと、駒川は椅子から立ち上がった。背筋を伸ばすでもなく、だらしなくするでもない、自然な立ち姿だった。もう酔いはほとんど抜けていたのだろう。けれど、その目元にはどこか遠い疲れがまだ残っていた。

「気が向いたらで、いいです」

りょうの返事はそれだけだった。笑顔も添えた。いつものりょうらしい、崩さない、丁寧な微笑だった。

駒川はそれを見て、軽くうなずいた。言葉を付け足すことなく、ひとつの空気を残してゆっくりと歩き出した。

りょうはその背中を、最後まで見送った。カーテンの隙間をすり抜けて店の奥へと消えていくその姿に、なにも声はかけなかった。言葉を選ぶよりも先に、胸のなかで何かが静かに音を立てていた。

照明がふたたび落ち着き、個室のテーブルには、誰の手も触れていない空のグラスだけが残された。静寂が戻った空間のなかで、りょうはゆっくりと立ち上がった。

その顔には、いつもの笑顔がある。丁寧で、誰にも隙を見せない仮面だ。だが、照明に照らされた頬の角度がほんの少し影をつくっていた。口元は確かに笑っている。けれど、その目はどこにも笑っていなかった。

しばらくして、りょうは視線を落とした。テーブルに残った指の跡を、グラスの縁を拭くふりでそっとなぞった。

ふたりのあいだにあった言葉は少なかった。それでも、今夜の沈黙は、なぜかずっと耳に残る気がしていた。
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