君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

文字の大きさ
26 / 61

ジンの忠告

しおりを挟む
鏡の前で手を止めたのは、チークを乗せようとした瞬間だった。粉の舞い上がる気配を背に、背後から声がかかる。

「りょう、あの人…また来るの?」

振り向かずとも、低く落ち着いた声の主が誰かはすぐにわかる。ジンはいつものように、壁にもたれながら化粧道具の整ったドレッサーをぼんやりと眺めていた。黒のロングシャツの袖を軽くまくり上げ、指にくわえた煙草の火を落とさぬよう慎重に言葉を選んでいるようだった。

「……どうかな」涼希は言葉を濁しながら、チークブラシを手に持ち直した。視線を鏡の自分に戻す。輪郭は整っている。肌色は整い、眉のアーチも計算通り。だが、その目だけが、まるで別の感情を映しているように見えた。

「顔に、出てきてるよ」

ジンの言葉が、鏡越しに突き刺さるように耳に届いた。涼希はごく自然な笑みをつくり、肩越しに振り返る。「大丈夫、出てないよ。慣れてるから」

けれど、ジンはその嘘を見透かしたように微笑んだ。煙草の火が静かに揺れる。彼は一歩、涼希に近づき、化粧台に肘をつくようにして彼の顔を見つめた。

「ここは夢見させる場所。でも、お前は目の奥で夢を見てる」

その言葉に、涼希は一瞬だけ、呼吸を忘れた。手に持ったブラシの毛先がわずかに揺れる。出てきてる。夢を見てる。目の奥に。ジンの言葉は、まるで何かを証明するように、今の自分をあらわにする。

夢に逃げていたはずだった。現実では満たされず、誰にも必要とされない存在だと思っていた。だから、“りょう”になった。誰でもない存在に、誰かの好意を向けられる存在になることで、自分の希薄さをごまかせると思っていた。

だけど今、“りょう”として向き合っているはずの彼に、涼希自身が心を開き始めていた。仮面越しの関係に、触れられない安心を感じていたはずなのに、いつの間にか、その仮面越しに届いてしまいたいと願っている。

「……ジンは、わかりすぎるんだよ」

涼希は鏡を見たまま、苦笑に近い笑みを浮かべた。だがその声には、少しだけ揺れがあった。チークブラシをトレイに戻す音が控え室に小さく響く。

「俺もね、昔はそうだったよ」ジンは穏やかな声で言った。「でもな、“りょう”はお前を守る仮面だ。それが壊れたら、お前自身が傷つく。夢を見せるってことは、自分が覚めたときに孤独になるってことだ」

涼希は黙ったまま、指先で唇をなぞる。口紅の輪郭がほんの僅かに歪んでいた。慌ててティッシュで整えながら、胸の奥に押し込めようとしていた不安が、少しずつ形になっていくのを感じていた。

本気になってはいけない。けれど、心が動いてしまうのは止められない。夢の中で生きているのに、その夢が現実より鮮やかになりつつある。

「…でもね、ジン。あの人、あんなふうに笑うんだよ。静かに、だけど…ほんとに、安心するみたいな顔で」

その言葉が、ふいに零れてしまったことに、自分でも驚いた。涼希はすぐに目を伏せ、鏡のなかの自分からも逃げるように視線を逸らした。

ジンはそれ以上何も言わなかった。ただ、ゆっくりと煙草を灰皿に押しつけ、無言のまま控え室を出ていった。扉が静かに閉まり、部屋に残されたのは涼希ひとり。

彼はもう一度、鏡に向かう。そこには化粧を終えた“りょう”がいた。だがその奥にある瞳は、まるで誰かに触れられるのを恐れているようだった。

夢に逃げたはずの場所で、夢のなかに本気で溺れかけている。

このままではいけないと思いながらも、今日もまた、その人が来るかもしれない夜に期待してしまう自分がいた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

勇者様への片思いを拗らせていた僕は勇者様から溺愛される

八朔バニラ
BL
蓮とリアムは共に孤児院育ちの幼馴染。 蓮とリアムは切磋琢磨しながら成長し、リアムは村の勇者として祭り上げられた。 リアムは勇者として村に入ってくる魔物退治をしていたが、だんだんと疲れが見えてきた。 ある日、蓮は何者かに誘拐されてしまい…… スパダリ勇者×ツンデレ陰陽師(忘却の術熟練者)

【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】

紫紺
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。 相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。 超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。 失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。 彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。 ※番外編を公開しました(2024.10.21) 生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。 ※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。

Please,Call My Name

叶けい
BL
アイドルグループ『star.b』最年長メンバーの桐谷大知はある日、同じグループのメンバーである櫻井悠貴の幼なじみの青年・雪村眞白と知り合う。眞白には難聴のハンディがあった。 何度も会ううちに、眞白に惹かれていく大知。 しかし、かつてアイドルに憧れた過去を持つ眞白の胸中は複雑だった。 大知の優しさに触れるうち、傷ついて頑なになっていた眞白の気持ちも少しずつ解けていく。 眞白もまた大知への想いを募らせるようになるが、素直に気持ちを伝えられない。

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】

彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』 高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。 その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。 そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?

冷徹勇猛な竜将アルファは純粋無垢な王子オメガに甘えたいのだ! ~だけど殿下は僕に、癒ししか求めてくれないのかな……~

大波小波
BL
 フェリックス・エディン・ラヴィゲールは、ネイトステフ王国の第三王子だ。  端正だが、どこか猛禽類の鋭さを思わせる面立ち。  鋭い長剣を振るう、引き締まった体。  第二性がアルファだからというだけではない、自らを鍛え抜いた武人だった。  彼は『竜将』と呼ばれる称号と共に、内戦に苦しむ隣国へと派遣されていた。  軍閥のクーデターにより内戦の起きた、テミスアーリン王国。  そこでは、国王の第二夫人が亡命の準備を急いでいた。  王は戦闘で命を落とし、彼の正妻である王妃は早々と我が子を連れて逃げている。  仮王として指揮をとる第二夫人の長男は、近隣諸国へ支援を求めて欲しいと、彼女に亡命を勧めた。  仮王の弟である、アルネ・エドゥアルド・クラルは、兄の力になれない歯がゆさを感じていた。  瑞々しい、均整の取れた体。  絹のような栗色の髪に、白い肌。  美しい面立ちだが、茶目っ気も覗くつぶらな瞳。  第二性はオメガだが、彼は利発で優しい少年だった。  そんなアルネは兄から聞いた、隣国の支援部隊を指揮する『竜将』の名を呟く。 「フェリックス・エディン・ラヴィゲール殿下……」  不思議と、勇気が湧いてくる。 「長い、お名前。まるで、呪文みたい」  その名が、恋の呪文となる日が近いことを、アルネはまだ知らなかった。

ノリで付き合っただけなのに、別れてくれなくて詰んでる

cheeery
BL
告白23連敗中の高校二年生・浅海凪。失恋のショックと友人たちの悪ノリから、クラス一のモテ男で親友、久遠碧斗に勢いで「付き合うか」と言ってしまう。冗談で済むと思いきや、碧斗は「いいよ」とあっさり承諾し本気で付き合うことになってしまった。 「付き合おうって言ったのは凪だよね」 あの流れで本気だとは思わないだろおおお。 凪はなんとか碧斗に愛想を尽かされようと、嫌われよう大作戦を実行するが……?

【完結】おじさんダンジョン配信者ですが、S級探索者の騎士を助けたら妙に懐かれてしまいました

大河
BL
世界を変えた「ダンジョン」出現から30年── かつて一線で活躍した元探索者・レイジ(42)は、今や東京の片隅で地味な初心者向け配信を続ける"おじさん配信者"。安物機材、スポンサーゼロ、視聴者数も控えめ。華やかな人気配信者とは対照的だが、その真摯な解説は密かに「信頼できる初心者向け動画」として評価されていた。 そんな平穏な日常が一変する。ダンジョン中層に災厄級モンスターが突如出現、人気配信パーティが全滅の危機に!迷わず単身で救助に向かうレイジ。絶体絶命のピンチを救ったのは、国家直属のS級騎士・ソウマだった。 冷静沈着、美形かつ最強。誰もが憧れる騎士の青年は、なぜかレイジを見た瞬間に顔を赤らめて……? 若き美貌の騎士×地味なおじさん配信者のバディが織りなす、年の差、立場の差、すべてを越えて始まる予想外の恋の物語。

オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?

中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」 そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。 しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は―― ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。 (……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ) ところが、初めての商談でその評価は一変する。 榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。 (仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな) ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり―― なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。 そして気づく。 「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」 煙草をくゆらせる仕草。 ネクタイを緩める無防備な姿。 そのたびに、陽翔の理性は削られていく。 「俺、もう待てないんで……」 ついに陽翔は榊を追い詰めるが―― 「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」 攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。 じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。 【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】 主任補佐として、ちゃんとせなあかん── そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。 春のすこし手前、まだ肌寒い季節。 新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。 風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。 何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。 拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。 年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。 これはまだ、恋になる“少し前”の物語。 関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。 (5月14日より連載開始)

処理中です...