君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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ジンの忠告

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鏡の前で手を止めたのは、チークを乗せようとした瞬間だった。粉の舞い上がる気配を背に、背後から声がかかる。

「りょう、あの人…また来るの?」

振り向かずとも、低く落ち着いた声の主が誰かはすぐにわかる。ジンはいつものように、壁にもたれながら化粧道具の整ったドレッサーをぼんやりと眺めていた。黒のロングシャツの袖を軽くまくり上げ、指にくわえた煙草の火を落とさぬよう慎重に言葉を選んでいるようだった。

「……どうかな」涼希は言葉を濁しながら、チークブラシを手に持ち直した。視線を鏡の自分に戻す。輪郭は整っている。肌色は整い、眉のアーチも計算通り。だが、その目だけが、まるで別の感情を映しているように見えた。

「顔に、出てきてるよ」

ジンの言葉が、鏡越しに突き刺さるように耳に届いた。涼希はごく自然な笑みをつくり、肩越しに振り返る。「大丈夫、出てないよ。慣れてるから」

けれど、ジンはその嘘を見透かしたように微笑んだ。煙草の火が静かに揺れる。彼は一歩、涼希に近づき、化粧台に肘をつくようにして彼の顔を見つめた。

「ここは夢見させる場所。でも、お前は目の奥で夢を見てる」

その言葉に、涼希は一瞬だけ、呼吸を忘れた。手に持ったブラシの毛先がわずかに揺れる。出てきてる。夢を見てる。目の奥に。ジンの言葉は、まるで何かを証明するように、今の自分をあらわにする。

夢に逃げていたはずだった。現実では満たされず、誰にも必要とされない存在だと思っていた。だから、“りょう”になった。誰でもない存在に、誰かの好意を向けられる存在になることで、自分の希薄さをごまかせると思っていた。

だけど今、“りょう”として向き合っているはずの彼に、涼希自身が心を開き始めていた。仮面越しの関係に、触れられない安心を感じていたはずなのに、いつの間にか、その仮面越しに届いてしまいたいと願っている。

「……ジンは、わかりすぎるんだよ」

涼希は鏡を見たまま、苦笑に近い笑みを浮かべた。だがその声には、少しだけ揺れがあった。チークブラシをトレイに戻す音が控え室に小さく響く。

「俺もね、昔はそうだったよ」ジンは穏やかな声で言った。「でもな、“りょう”はお前を守る仮面だ。それが壊れたら、お前自身が傷つく。夢を見せるってことは、自分が覚めたときに孤独になるってことだ」

涼希は黙ったまま、指先で唇をなぞる。口紅の輪郭がほんの僅かに歪んでいた。慌ててティッシュで整えながら、胸の奥に押し込めようとしていた不安が、少しずつ形になっていくのを感じていた。

本気になってはいけない。けれど、心が動いてしまうのは止められない。夢の中で生きているのに、その夢が現実より鮮やかになりつつある。

「…でもね、ジン。あの人、あんなふうに笑うんだよ。静かに、だけど…ほんとに、安心するみたいな顔で」

その言葉が、ふいに零れてしまったことに、自分でも驚いた。涼希はすぐに目を伏せ、鏡のなかの自分からも逃げるように視線を逸らした。

ジンはそれ以上何も言わなかった。ただ、ゆっくりと煙草を灰皿に押しつけ、無言のまま控え室を出ていった。扉が静かに閉まり、部屋に残されたのは涼希ひとり。

彼はもう一度、鏡に向かう。そこには化粧を終えた“りょう”がいた。だがその奥にある瞳は、まるで誰かに触れられるのを恐れているようだった。

夢に逃げたはずの場所で、夢のなかに本気で溺れかけている。

このままではいけないと思いながらも、今日もまた、その人が来るかもしれない夜に期待してしまう自分がいた。
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