君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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仮面の終わりを告げる夜

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部屋の中は静かだった。
夜の気配がじわじわと壁を染めて、窓の外では風がどこか遠慮がちにカーテンを揺らしている。
「Le Papillon」の営業が終わってから、どれくらいの時間が経ったのか、涼希は時計を見なかった。見なくてもわかっていた。深夜の静けさが、時間の存在を曖昧にしている。

鏡の前に座るのは、何度目だろう。
いつもと変わらない、ライトの角度。テーブルの上に並べられた化粧品の配置も、ブラシの角度も、全てが身体に染みついている。
ただひとつだけ、違っていた。

その夜、涼希の手は動かなかった。
メイクを落とすためのクレンジングオイルのボトルに、手を伸ばすことすらためらっていた。
鏡の中の“りょう”が、自分を見つめ返している。
完璧に整えられた顔。しなやかな睫毛、繊細に引かれたアイライン。艶をもたらすリップ。
けれど、その奥にある瞳だけが、どこか別の存在のようだった。

ふと、涼希は口角を上げてみた。
バーで笑うときのように。
お客様に気を配り、柔らかく場をなだめる“りょう”の笑顔を再現するように。
けれどその笑みは、途中で力を失った。
頬の筋肉が持ち上がりきらず、鏡の中に浮かんだのは、どこにも届かない表情だった。

そこにはもう、“演じる理由”が残っていなかった。
仮面をつけていた意味も、魅せるための装いも、あの人の前で、崩れ落ちそうになっていた。
崩れてしまったのかもしれない。
それでも、最後の一歩だけは、自分の足で踏み出したかった。

ゆっくりと、ブラシを握る。
アイシャドウを落とす。
ファンデーションの感触が、肌から消えていくたびに、何かを脱いでいくような気がした。
それは防護服のようで、同時に、武器のようでもあった。

マスカラのブラシを睫毛にあてたとき、涼希の指がわずかに震えた。
けれど、止まらなかった。
ひと塗り、ふた塗りと落としていくたびに、睫毛が軽くなる。
その下にある瞳が、少しずつむき出しになっていく。

「俺は、俺として…あの人に、会いたい」
その言葉を、口には出さなかった。けれど、胸の奥に確かに灯った決意が、静かに揺れていた。
あの夜、駒川が見せた迷い。言葉にできなかった感情。
それでも、自分に向けられた目線の温度だけは、確かに心に残っている。

好きになってくれなくてもいい。
でも、俺が“りょう”としてじゃなく、“涼希”として生きていることだけは、知ってほしい。
それが、涼希の望みだった。
ずっと抱え込んできた苦しさを、誰かに許してもらうことを、求めているわけではなかった。
ただ、自分で選んだ姿で、もう一度、彼の前に立ちたかった。

すべての化粧を落とし終えたあと、涼希は鏡の中の自分と目を合わせた。
そこに映るのは、“りょう”ではなかった。
中野涼希だった。
少しだけ血色を失った頬、睫毛の影、唇の淡い色味。
化粧という鎧を脱いだ素顔は、どこか無防備で、けれど確かにそこに生きていた。

鏡の中の涼希の目が、まっすぐに自分を見据えていた。
それは今まで何度も鏡を見てきたはずの自分とは、違う人間のようにも思えた。
けれど、その瞳の奥に、壊れてしまいそうなほど繊細な光が灯っていたのも、また事実だった。

この先、何があるのかはわからない。
拒絶されるかもしれない。
もう、元には戻れない。
それでも、進むしかなかった。

涼希は、最後にブラシを片付け、ひとつ深く息を吸った。
その息が胸の奥まで届くと、不思議と呼吸が軽くなった気がした。
怖い。けれど、もう逃げたくない。
その思いだけが、足元に確かな地面をつくってくれているようだった。

椅子から立ち上がる。
部屋の空気が、わずかに揺れる。
壁にかかるコートに手を伸ばしながら、涼希はもう一度だけ、鏡に目を向けた。

そこにいるのは、素顔の中野涼希。
誰の仮面もかぶっていない、ひとりの人間だった。
その目が、ほんの少しだけ強く光った。
そしてその光の奥に、壊れてしまいそうな自分も、確かに息をしていた。
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