55 / 61
夜を越えたあとで
しおりを挟む
カーテンの隙間から差し込む光はまだ柔らかく、明け方の静けさを濁らせることなく部屋の空気に溶け込んでいた。壁掛け時計の秒針だけが、時間の存在を穏やかに主張している。
ベッドの中、涼希は駒川の胸に身を預けたまま、まどろむように目を閉じていた。互いの鼓動が、ぴたりと重なったとは言わない。ただ、どちらかが呼吸をすれば、もう片方も自然に肺をふくらませるような、そんな呼応が確かにそこにはあった。
涼希の髪に、駒川の指先が静かに触れる。何かを撫でるというよりも、今そこに在ることを確かめるような、優しい往復の動きだった。その感触に、涼希は目を開けずに小さく微笑む。
「ありがとう」かすれたような声だったが、言葉は確かに、駒川の胸に届いた。
返事はなかった。だが、彼の唇が額に落とした軽いキスが、十分すぎるほどの応えだった。言葉よりも静かに、深く、心に染みる仕草。涼希は何も求めなかった。ただ、そのぬくもりを全身で受け止める。
何もかも脱ぎ捨てた夜だった。仮面も、疑いも、不安も、いまはどこにもない。涼希はそれらを置いてきたのだ。ベッドの脇に投げ出された服のように。名乗りを隠し、心を閉じていた過去の自分を、そっと横に置いたのだ。
駒川の腕のなかで、ようやく本当の自分として息をすることができた。あのバーで仮面のように貼りつけていた微笑みも、取り繕う言葉も、今夜の彼には不要だった。
沈黙が、こんなにもやさしく感じられる夜があるなんて思わなかった。
窓の向こうで、鳥の声がひとつ、短く響いた。朝が、ゆっくりと始まろうとしている。
涼希は目を開けて、淡い光を帯び始めた天井を見つめる。視界の端で、駒川が寝返りを打ったのがわかった。気配だけで、彼がまだ隣にいることが分かる。温もりがそこにあるというだけで、涼希の胸の奥がじんわりと熱を持つ。
どんなに思い詰めていた過去も、今夜だけは少し遠ざかっていた。抱きしめ合い、言葉ではなく指先や呼吸で確かめ合った時間が、涼希に「許されている」と感じさせてくれた。
「俺…こうして、普通に誰かと、朝を迎えるなんて思ってなかった」低く、そして不意に漏れた声に、涼希自身が驚いたように肩を揺らす。
駒川は目を開けていた。涼希を見つめる目に、曇りはなかった。
「それが、普通ってやつかどうかなんて、俺にはわからないけど」そう言って、彼は涼希の髪をそっと耳の後ろへと払った。「でも、こうしてるのが、たぶん一番、しっくりきてる」
その言葉に、涼希は瞼を伏せる。涙ではなかった。ただ、胸がふるえるような感覚に、どう応えたらいいかわからなかっただけだ。
数秒の沈黙の後、駒川が小さく呟いた。
「仮面を外した涼希が、こんなふうに俺の隣にいるなんて…夢みたいだな」
「夢なら、まだ醒めないで」
涼希の声は細く震えていたが、それは弱さではなかった。願いが、確かに込められていた。
駒川はもう一度、何も言わずに涼希を抱き寄せた。その腕の強さが、涼希の不安をひとつずつ剥がしていくようだった。
夜が明けきるまで、ふたりは互いを抱いたまま、時折視線を交わすだけで言葉を交わすことはなかった。言葉では追いつけない何かを、肌で、鼓動で、感じていたのだ。
涼希の指が、そっと駒川の手の甲をなぞる。爪の丸み、小さな骨の起伏、血の通った体温。そのすべてが、現実だと教えてくれる。
そして、夜が完全に白む直前。
「ねえ」涼希が囁く。「これからも…“俺”として、隣にいてもいい?」
駒川はゆっくりと頷き、彼の額にもう一度キスを落とした。
それだけで、すべてが十分だった。
ふたりで越えた夜の、その静けさは、どこまでもやさしかった。
ベッドの中、涼希は駒川の胸に身を預けたまま、まどろむように目を閉じていた。互いの鼓動が、ぴたりと重なったとは言わない。ただ、どちらかが呼吸をすれば、もう片方も自然に肺をふくらませるような、そんな呼応が確かにそこにはあった。
涼希の髪に、駒川の指先が静かに触れる。何かを撫でるというよりも、今そこに在ることを確かめるような、優しい往復の動きだった。その感触に、涼希は目を開けずに小さく微笑む。
「ありがとう」かすれたような声だったが、言葉は確かに、駒川の胸に届いた。
返事はなかった。だが、彼の唇が額に落とした軽いキスが、十分すぎるほどの応えだった。言葉よりも静かに、深く、心に染みる仕草。涼希は何も求めなかった。ただ、そのぬくもりを全身で受け止める。
何もかも脱ぎ捨てた夜だった。仮面も、疑いも、不安も、いまはどこにもない。涼希はそれらを置いてきたのだ。ベッドの脇に投げ出された服のように。名乗りを隠し、心を閉じていた過去の自分を、そっと横に置いたのだ。
駒川の腕のなかで、ようやく本当の自分として息をすることができた。あのバーで仮面のように貼りつけていた微笑みも、取り繕う言葉も、今夜の彼には不要だった。
沈黙が、こんなにもやさしく感じられる夜があるなんて思わなかった。
窓の向こうで、鳥の声がひとつ、短く響いた。朝が、ゆっくりと始まろうとしている。
涼希は目を開けて、淡い光を帯び始めた天井を見つめる。視界の端で、駒川が寝返りを打ったのがわかった。気配だけで、彼がまだ隣にいることが分かる。温もりがそこにあるというだけで、涼希の胸の奥がじんわりと熱を持つ。
どんなに思い詰めていた過去も、今夜だけは少し遠ざかっていた。抱きしめ合い、言葉ではなく指先や呼吸で確かめ合った時間が、涼希に「許されている」と感じさせてくれた。
「俺…こうして、普通に誰かと、朝を迎えるなんて思ってなかった」低く、そして不意に漏れた声に、涼希自身が驚いたように肩を揺らす。
駒川は目を開けていた。涼希を見つめる目に、曇りはなかった。
「それが、普通ってやつかどうかなんて、俺にはわからないけど」そう言って、彼は涼希の髪をそっと耳の後ろへと払った。「でも、こうしてるのが、たぶん一番、しっくりきてる」
その言葉に、涼希は瞼を伏せる。涙ではなかった。ただ、胸がふるえるような感覚に、どう応えたらいいかわからなかっただけだ。
数秒の沈黙の後、駒川が小さく呟いた。
「仮面を外した涼希が、こんなふうに俺の隣にいるなんて…夢みたいだな」
「夢なら、まだ醒めないで」
涼希の声は細く震えていたが、それは弱さではなかった。願いが、確かに込められていた。
駒川はもう一度、何も言わずに涼希を抱き寄せた。その腕の強さが、涼希の不安をひとつずつ剥がしていくようだった。
夜が明けきるまで、ふたりは互いを抱いたまま、時折視線を交わすだけで言葉を交わすことはなかった。言葉では追いつけない何かを、肌で、鼓動で、感じていたのだ。
涼希の指が、そっと駒川の手の甲をなぞる。爪の丸み、小さな骨の起伏、血の通った体温。そのすべてが、現実だと教えてくれる。
そして、夜が完全に白む直前。
「ねえ」涼希が囁く。「これからも…“俺”として、隣にいてもいい?」
駒川はゆっくりと頷き、彼の額にもう一度キスを落とした。
それだけで、すべてが十分だった。
ふたりで越えた夜の、その静けさは、どこまでもやさしかった。
11
あなたにおすすめの小説
勇者様への片思いを拗らせていた僕は勇者様から溺愛される
八朔バニラ
BL
蓮とリアムは共に孤児院育ちの幼馴染。
蓮とリアムは切磋琢磨しながら成長し、リアムは村の勇者として祭り上げられた。
リアムは勇者として村に入ってくる魔物退治をしていたが、だんだんと疲れが見えてきた。
ある日、蓮は何者かに誘拐されてしまい……
スパダリ勇者×ツンデレ陰陽師(忘却の術熟練者)
【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】
紫紺
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。
相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。
超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。
失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。
彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。
※番外編を公開しました(2024.10.21)
生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。
※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。
オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?
中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」
そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。
しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は――
ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。
(……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ)
ところが、初めての商談でその評価は一変する。
榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。
(仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな)
ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり――
なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。
そして気づく。
「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」
煙草をくゆらせる仕草。
ネクタイを緩める無防備な姿。
そのたびに、陽翔の理性は削られていく。
「俺、もう待てないんで……」
ついに陽翔は榊を追い詰めるが――
「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」
攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。
じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。
【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】
主任補佐として、ちゃんとせなあかん──
そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。
春のすこし手前、まだ肌寒い季節。
新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。
風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。
何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。
拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。
年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。
これはまだ、恋になる“少し前”の物語。
関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。
(5月14日より連載開始)
冷徹勇猛な竜将アルファは純粋無垢な王子オメガに甘えたいのだ! ~だけど殿下は僕に、癒ししか求めてくれないのかな……~
大波小波
BL
フェリックス・エディン・ラヴィゲールは、ネイトステフ王国の第三王子だ。
端正だが、どこか猛禽類の鋭さを思わせる面立ち。
鋭い長剣を振るう、引き締まった体。
第二性がアルファだからというだけではない、自らを鍛え抜いた武人だった。
彼は『竜将』と呼ばれる称号と共に、内戦に苦しむ隣国へと派遣されていた。
軍閥のクーデターにより内戦の起きた、テミスアーリン王国。
そこでは、国王の第二夫人が亡命の準備を急いでいた。
王は戦闘で命を落とし、彼の正妻である王妃は早々と我が子を連れて逃げている。
仮王として指揮をとる第二夫人の長男は、近隣諸国へ支援を求めて欲しいと、彼女に亡命を勧めた。
仮王の弟である、アルネ・エドゥアルド・クラルは、兄の力になれない歯がゆさを感じていた。
瑞々しい、均整の取れた体。
絹のような栗色の髪に、白い肌。
美しい面立ちだが、茶目っ気も覗くつぶらな瞳。
第二性はオメガだが、彼は利発で優しい少年だった。
そんなアルネは兄から聞いた、隣国の支援部隊を指揮する『竜将』の名を呟く。
「フェリックス・エディン・ラヴィゲール殿下……」
不思議と、勇気が湧いてくる。
「長い、お名前。まるで、呪文みたい」
その名が、恋の呪文となる日が近いことを、アルネはまだ知らなかった。
【完結】大学で再会した幼馴染(初恋相手)に恋人のふりをしてほしいと頼まれた件について
kouta
BL
大学で再会した幼馴染から『ストーカーに悩まされている。半年間だけ恋人のふりをしてほしい』と頼まれた夏樹。『焼き肉奢ってくれるなら』と承諾したものの次第に意識してしまうようになって……
※ムーンライトノベルズでも投稿しています
転生DKは、オーガさんのお気に入り~姉の婚約者に嫁ぐことになったんだが、こんなに溺愛されるとは聞いてない!~
トモモト ヨシユキ
BL
魔物の国との和議の証に結ばれた公爵家同士の婚約。だが、婚約することになった姉が拒んだため6男のシャル(俺)が代わりに婚約することになった。
突然、オーガ(鬼)の嫁になることがきまった俺は、ショックで前世を思い出す。
有名進学校に通うDKだった俺は、前世の知識と根性で自分の身を守るための剣と魔法の鍛練を始める。
約束の10年後。
俺は、人類最強の魔法剣士になっていた。
どこからでもかかってこいや!
と思っていたら、婚約者のオーガ公爵は、全くの塩対応で。
そんなある日、魔王国のバーティーで絡んできた魔物を俺は、こてんぱんにのしてやったんだが、それ以来、旦那様の様子が変?
急に花とか贈ってきたり、デートに誘われたり。
慣れない溺愛にこっちまで調子が狂うし!
このまま、俺は、絆されてしまうのか!?
カイタ、エブリスタにも掲載しています。
【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
孤毒の解毒薬
紫月ゆえ
BL
友人なし、家族仲悪、自分の居場所に疑問を感じてる大学生が、同大学に在籍する真逆の陽キャ学生に出会い、彼の止まっていた時が動き始める―。
中学時代の出来事から人に心を閉ざしてしまい、常に一線をひくようになってしまった西条雪。そんな彼に話しかけてきたのは、いつも周りに人がいる人気者のような、いわゆる陽キャだ。雪とは一生交わることのない人だと思っていたが、彼はどこか違うような…。
不思議にももっと話してみたいと、あわよくば友達になってみたいと思うようになるのだが―。
【登場人物】
西条雪:ぼっち学生。人と関わることに抵抗を抱いている。無自覚だが、容姿はかなり整っている。
白銀奏斗:勉学、容姿、人望を兼ね備えた人気者。柔らかく穏やかな雰囲気をまとう。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる