君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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夜を越えたあとで

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カーテンの隙間から差し込む光はまだ柔らかく、明け方の静けさを濁らせることなく部屋の空気に溶け込んでいた。壁掛け時計の秒針だけが、時間の存在を穏やかに主張している。

ベッドの中、涼希は駒川の胸に身を預けたまま、まどろむように目を閉じていた。互いの鼓動が、ぴたりと重なったとは言わない。ただ、どちらかが呼吸をすれば、もう片方も自然に肺をふくらませるような、そんな呼応が確かにそこにはあった。

涼希の髪に、駒川の指先が静かに触れる。何かを撫でるというよりも、今そこに在ることを確かめるような、優しい往復の動きだった。その感触に、涼希は目を開けずに小さく微笑む。

「ありがとう」かすれたような声だったが、言葉は確かに、駒川の胸に届いた。

返事はなかった。だが、彼の唇が額に落とした軽いキスが、十分すぎるほどの応えだった。言葉よりも静かに、深く、心に染みる仕草。涼希は何も求めなかった。ただ、そのぬくもりを全身で受け止める。

何もかも脱ぎ捨てた夜だった。仮面も、疑いも、不安も、いまはどこにもない。涼希はそれらを置いてきたのだ。ベッドの脇に投げ出された服のように。名乗りを隠し、心を閉じていた過去の自分を、そっと横に置いたのだ。

駒川の腕のなかで、ようやく本当の自分として息をすることができた。あのバーで仮面のように貼りつけていた微笑みも、取り繕う言葉も、今夜の彼には不要だった。

沈黙が、こんなにもやさしく感じられる夜があるなんて思わなかった。

窓の向こうで、鳥の声がひとつ、短く響いた。朝が、ゆっくりと始まろうとしている。

涼希は目を開けて、淡い光を帯び始めた天井を見つめる。視界の端で、駒川が寝返りを打ったのがわかった。気配だけで、彼がまだ隣にいることが分かる。温もりがそこにあるというだけで、涼希の胸の奥がじんわりと熱を持つ。

どんなに思い詰めていた過去も、今夜だけは少し遠ざかっていた。抱きしめ合い、言葉ではなく指先や呼吸で確かめ合った時間が、涼希に「許されている」と感じさせてくれた。

「俺…こうして、普通に誰かと、朝を迎えるなんて思ってなかった」低く、そして不意に漏れた声に、涼希自身が驚いたように肩を揺らす。

駒川は目を開けていた。涼希を見つめる目に、曇りはなかった。

「それが、普通ってやつかどうかなんて、俺にはわからないけど」そう言って、彼は涼希の髪をそっと耳の後ろへと払った。「でも、こうしてるのが、たぶん一番、しっくりきてる」

その言葉に、涼希は瞼を伏せる。涙ではなかった。ただ、胸がふるえるような感覚に、どう応えたらいいかわからなかっただけだ。

数秒の沈黙の後、駒川が小さく呟いた。

「仮面を外した涼希が、こんなふうに俺の隣にいるなんて…夢みたいだな」

「夢なら、まだ醒めないで」

涼希の声は細く震えていたが、それは弱さではなかった。願いが、確かに込められていた。

駒川はもう一度、何も言わずに涼希を抱き寄せた。その腕の強さが、涼希の不安をひとつずつ剥がしていくようだった。

夜が明けきるまで、ふたりは互いを抱いたまま、時折視線を交わすだけで言葉を交わすことはなかった。言葉では追いつけない何かを、肌で、鼓動で、感じていたのだ。

涼希の指が、そっと駒川の手の甲をなぞる。爪の丸み、小さな骨の起伏、血の通った体温。そのすべてが、現実だと教えてくれる。

そして、夜が完全に白む直前。

「ねえ」涼希が囁く。「これからも…“俺”として、隣にいてもいい?」

駒川はゆっくりと頷き、彼の額にもう一度キスを落とした。

それだけで、すべてが十分だった。

ふたりで越えた夜の、その静けさは、どこまでもやさしかった。
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