裏切りの代償

中岡 始

文字の大きさ
8 / 37

見つけてしまった真実

しおりを挟む
その朝、尚紀は慌ただしく家を出ていった。玄関でスーツの袖を整えながら、いつも通りの微笑みを浮かべて。

「じゃあ行ってくる。今日も遅くなるから、あまり待たなくていいよ」

「わかった。気をつけてね」

奏は微笑んで彼を送り出したが、どこか物足りない気持ちが胸の中に残った。玄関のドアが閉まる音を聞いて、キッチンに戻ろうとした時、リビングの机の上に何かを見つけた。

「これ……」

机の上には尚紀のスマートフォンが置かれていた。普段は肌身離さず持ち歩いているはずのものが、今朝に限ってその場に置き忘れられている。

「忘れるなんて珍しいな」

軽く微笑んで、奏はそれを手に取った。彼のスマートフォンを操作しようなどとは思っていなかった。ただ、彼にメッセージが来ているのなら確認して、職場に連絡するべきかもしれないと考えたのだ。

その時、スマートフォンが振動し、画面に新しい通知が表示された。

「藤崎優美:昨夜はありがとう。また会えるのを楽しみにしている」

その瞬間、奏の手が止まった。通知の短い文字列が、彼女の目に刺さるように飛び込んでくる。脳が意味を理解するよりも先に、胸の奥で奇妙な痛みが広がった。

「誰……?」

呟きながら画面をじっと見つめた。通知に映るその名前――「藤崎優美」。先日もちらりと見た名前だった。続くメッセージの内容はどう考えても仕事のやり取りではない。そこには、親密さと甘さが滲んでいた。

奏は思わずスマートフォンを握りしめた。画面に触れればメッセージの続きを確認できるはずだったが、彼女の指は一歩も動かなかった。

「こんなこと、するべきじゃない……」

そう自分に言い聞かせながら、彼女は震える手でスマートフォンを机に戻した。だが、一度目にしてしまった文字の列は、頭の中から消えることがなかった。

***

その日、奏は家事を進めながらも、頭の中は混乱し続けた。掃除機をかけていても、皿を洗っていても、「藤崎優美」という名前が心に居座り続けていた。

「昨夜はありがとう。また会えるのを楽しみにしている……」

思い出すたびに、胸が締め付けられるようだった。その言葉が意味するものを、理解したくなかった。尚紀がそんなことをするはずがない。彼が家に帰ってきて見せる疲れた笑顔、冗談を言い合うあの穏やかな時間。それらが全て嘘だったとは、どうしても思えなかった。

「きっと何かの間違いよ」

そう自分に言い聞かせたが、その言葉には力がなかった。疑念の影はどんどん濃くなっていった。

***

午後、クローゼットを整理していた奏は、もう一つの「証拠」に出会うことになる。

尚紀のジャケットのポケットに手を入れた時、紙が指先に触れた。取り出してみると、それはレストランの領収書だった。

「○○レストラン……?」

その名前に見覚えはなかった。尚紀が取引先との会食で使う場所は大体決まっている。その中には入っていない名前だ。それだけでも十分に奇妙だったが、領収書に記された金額が目を引いた。

「こんな高い……」

思わず息を呑む。これまでの彼の仕事で、ここまで高額な会食をしたことなど聞いたことがなかった。しかも、日付は昨日。あのメッセージの「昨夜」という言葉と、まるで繋がるようだった。

さらにクローゼットを探ると、奥に小さな箱を見つけた。見覚えのない白い箱には、金色のブランド名が印字されている。開けてみると、中には香水が入っていた。それは明らかに女性向けのもので、彼女が愛用している香りとは全く違っていた。

「これ……」

自分のためではないことは一目で分かった。胸の奥に広がる疑念が、ついに確信に変わった瞬間だった。

***

夜、尚紀が帰宅した時、奏はいつも通り笑顔で迎えた。

「おかえりなさい」

「ただいま」

尚紀は疲れた様子を見せながらも、彼なりに微笑みを返してくれた。その姿はいつも通りの夫だった。だが、奏の心の中では、すでに何かが大きく変わっていた。

彼が笑うたびに、「藤崎優美」という名前が頭をよぎる。彼が一言発するたびに、机の上で振動したスマートフォンの画面が目に浮かぶ。

「これまでの夫婦関係は嘘だったの?」

心の中でその問いが何度も繰り返された。だが、表情にそれを出すことはなかった。彼の裏切りを突き止めるために、まずは冷静にならなければならない。そんな静かな怒りが、彼女の胸の奥で芽生え始めていた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

婚約者の幼馴染って、つまりは赤の他人でしょう?そんなにその人が大切なら、自分のお金で養えよ。貴方との婚約、破棄してあげるから、他

猿喰 森繁
恋愛
完結した短編まとめました。 大体1万文字以内なので、空いた時間に気楽に読んでもらえると嬉しいです。

25年の後悔の結末

専業プウタ
恋愛
結婚直前の婚約破棄。親の介護に友人と恋人の裏切り。過労で倒れていた私が見た夢は25年前に諦めた好きだった人の記憶。もう一度出会えたら私はきっと迷わない。

『大人の恋の歩き方』

設楽理沙
現代文学
初回連載2018年3月1日~2018年6月29日 ――――――― 予定外に家に帰ると同棲している相手が見知らぬ女性(おんな)と 合体しているところを見てしまい~の、web上で"Help Meィィ~"と 号泣する主人公。そんな彼女を混乱の中から助け出してくれたのは ☆---誰ぁれ?----★ そして 主人公を翻弄したCoolな同棲相手の 予想外に波乱万丈なその後は? *☆*――*☆*――*☆*――*☆*    ☆.。.:*Have Fun!.。.:*☆

悪役令嬢の末路

ラプラス
恋愛
政略結婚ではあったけれど、夫を愛していたのは本当。でも、もう疲れてしまった。 だから…いいわよね、あなた?

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

貴方の側にずっと

麻実
恋愛
夫の不倫をきっかけに、妻は自分の気持ちと向き合うことになる。 本当に好きな人に逢えた時・・・

処理中です...