裏切りの代償

代償の重さ

「……なぜ、こんなことになったんだ」

尚紀は静まり返った部屋で呟いた。散らかった部屋には空の酒瓶がいくつも転がり、壁にかけられた時計の針がゆっくりと音を立てて進む以外、何の音も聞こえない。彼はソファに沈み込んだまま、手にしたスマートフォンをぼんやりと見つめていた。

画面に映るのは、履歴の中で止まった「藤崎優美」の名前。その名前を見るたびに胸がざわつき、頭が痛む。それでも尚紀は、指を動かしてその番号に触れることすらできなかった。

「……全部、お前のせいじゃないのか？」

そう言葉にしてみたが、返ってくる答えはない。否、そもそも彼が本当に向けるべき相手は、自分自身だということに気づいている。視線を逸らすようにテーブルに目をやると、そこには投げ捨てられた離婚届があった。

「あれが、始まりだったのか……」

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尚紀の頭に、優美との最初の記憶が蘇る。

「社長、大変ですね。でも、私がサポートしますから」

柔らかい笑顔と親しみやすい声。会議室での長い打ち合わせの後、優美が差し出してきたペットボトルの水。忙しい日々の中、尚紀はいつしか彼女を「癒し」として見るようになっていた。優美は自分の苦労を理解し、常に気を遣ってくれた。そして何より、彼を持ち上げてくれる存在だった。

「社長がいなければ、このプロジェクトは絶対に成功しません。皆さんもそう思っています」

優美のその言葉に、尚紀は内心で優越感を覚えた。自分は頼られている。自分がこの会社の柱だ。そんな気持ちが、彼女との距離を徐々に縮める原因になった。

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だが、振り返ってみれば、それは彼の疲れた心が作り上げた幻想だった。

「あの頃、俺はただ、自分を褒めてくれる誰かが欲しかっただけなんだ」

尚紀は頭を抱えた。優美の甘い言葉に溺れ、彼女の求めるままに手を差し伸べてしまった。その瞬間、彼は経営者として、そして夫としての最も大事な一線を踏み越えてしまったのだ。

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今、残されたものは何だろう。尚紀は散らかった部屋を見回した。目を伏せるようにして、もう一度優美の名前が残るスマートフォンを手に取る。彼女からの最後のメッセージは、数日前に送られてきた短い一文だった。

「尚紀さん、どうすればいいんですか？」

優美の文字を見つめながら、尚紀の胸に苛立ちが込み上げる。

「どうする、だと……？」

彼女がこの状況を生み出した張本人だと、尚紀は考えたい。だが、それは単なる責任転嫁だということも、彼は分かっている。

「違う……俺が選んだことだ」

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尚紀は再び目を閉じた。浮かぶのは奏の顔だ。離婚届に記された名前と、その横にある彼女の決然とした筆跡。奏の信頼を裏切り、彼女が築き上げた会社の未来を危険にさらしたのは他でもない、自分自身だった。

「俺が、全部壊したんだ……」

奏の信頼だけではない。会社の社員たちも、今や尚紀を見放している。桐生や他の取締役からの厳しい視線が、取締役会での一幕として頭に蘇る。

「あなたの経営判断には問題が多すぎる」

その言葉が、耳の奥で何度も反響する。

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尚紀は一気に酒を飲み干し、荒々しく息を吐き出した。優美への苛立ちがふと湧き上がる。

「あいつが俺を利用しただけだ。昇進するために近づいてきたんだ」

だが、次の瞬間、その思いはかき消された。自分が優美を引き寄せたのだという現実が突きつけられる。

「いや、違う……俺が選んだんだ」

その声は、酒の酔いと共にかすれていった。優美を引き寄せ、奏を裏切り、結果的に自分の人生を破滅へ導いたのは、自分の弱さだった。

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テレビの音が無意味に響く部屋の中で、尚紀は深く頭を抱えた。

「こんなはずじゃなかった……」

彼の呟きは、虚しい空間に吸い込まれるだけだった。奏もいない、優美もいない。そして、自分の手の中には何も残っていない。尚紀は深い孤独の中に沈み込んでいった。

その胸には、もう二度と取り戻せないものがあるという確信だけが重くのしかかっていた。