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3・柴田圭輔(しばた・けいすけ)
3-1
しおりを挟む午後十時を過ぎたオフィスは照明の大部分が消え、静まりかえっていた。
急ぎの案件をようやく終えた柴田圭輔は、無人になった広い職場を見渡す。
この時間には仏頂面の上司も、賑やかな噂話をする女性社員たちもいない。いるのは自分だけだ。
窓の向こうには、高層ビルのネオンが色とりどりにまたたいている。遠目にスカイツリーが、華やかな色遣いで点滅を繰り返す。
尚美からスマートフォンの方に連絡が入っていた。
急な打ち合わせが入って今日は不在。ならばまた次回にするか……。
洗面所で顔を洗ってタオルで拭く。鏡に顔を近づけてみて、ふと苦笑する。最近顔も腹も少しずつ肉がたるんできていて、危機感を感じている。
尚美に前から誘われていたスポーツクラブに、今度こそ行ってみようか。猫っ毛ははげやすいって脅かすから、ついつい生え際をチェックしてしまうじゃないか。まったく口が悪いんだから、あいつは。
でもすこぶるいい女だけどな。
そこまで思ってから、ようやく本来の家のことを思い出した。
つくづく薄情な自分に呆れる。出張と残業でまみれ、家に帰らなくても妻の頼子は文句も言わない。毎月きちんと給料が得られればいいのだろう。今年中学に上がった一人息子は野球部に所属し、彼女もその世話が忙しい。夫婦円満の秘訣は、お互いの多忙にあるのかもしれない。
尚美とのことも、どこまで感づいているのか。
今はもう口出しさえもしなくなった。
家庭と子供の世話に明け暮れてくれるなら、こちらも文句はない。結婚当時は本気で愛を誓った、その思いに偽りはなかったのに。感情は一生を待つほど忍耐強くはない。それだけがこの十五年の結婚生活でわかったことだった。生涯母を思い続けた、亡き父のような人間には決してなれない。
「さてと」
私物をまとめてカバンに放り込む。仕事は持ち帰らない主義だ。家に帰ったところで、きっと夕飯もないだろう。まだどこか開いている店があるか。尚美なら銀座界隈はよく知っているが、いざこういう時には予め聞いていないものだ。
「……きれいだな」
ガラスの向こうで踊り続ける色彩に、また心奪われる。
闇に燦然と立ち並ぶ色とりどりの光の柱たち。それがたとえフェイクで、星の光を遮る人工物であろうとも輝きに遜色はない。
お父さん、このお花すっごくきれいだよ。
遠い昔父に差し出した花を造花だ、と返され寂しく思ったことがある。
農業を営んでいた父に、見破るなどたやすかったのだろう。だからと言って、自分が感じた美まで嘘になるのは納得行かなかったのだが。
「真実は必ず美しさをまとっている、か?」
なぜ思い出したのだろう、ずっと昔のたわいない記憶なのに。
「きれいなものが好きなんですね」
誰もいないはずのオフィスに、声が響いて振り向く。
「君は……?」
どこから入れるはずもないのに、白いワンピースを着た若い女が立っていた。姿形は二十歳くらい。尚美より若いのは確かだ。
「一体どうやってここに」
エントランスで厳重なセキュリティチェックを行っている。ましてこの時間は限られた場所からしか出入りできない。部外者がどうやって入ったのか。
「柴田圭輔さん。今日はどちらの家に帰るのですか?」
「なぜ俺の名を」
「私はモネ。人間ではありません。天使みたいなものと思って下さい」
「天使?」
少女が近づいて一瞬ホログラムかと疑う。
全身がわずかに発光して輪郭もぼやけて見える。おぼろげな顔立ち、しぐささえ現実離れしていて人間とは感じられない。
「こんなところに、天使が何をしに」
「あなたに忠告と説得をしに来ました。このままだとあなたはあと十日ほどで命を終えてしまいます」
「え?」
「もう一度言います。今の生活を見直して、あなたの問題点を撤回して下さい。十日後にあなたはこの世界では活動を停止するんです」
死ぬ?まさか。
「何で?事故か、病気か?それとも誰かに殺され……」
思い当たって口をつぐむ。そうだった。仕事もプライベートも順調すぎる今の自分、だが決して問題がない訳ではなかった。
「妻か、それとも尚美か」
尚美だって、最初から自分を既婚とわかっていて近づいた女だ。
彼女はまだ若くてしかも有能だ。これからも世界を駆けめぐり、仕事に生きていくだろう。しみったれて妻の座を欲しがることもない。自立しているからこそ今の関係を続けてこられた。
「じゃあ、やっぱり頼子なのか」
最初は月一回だったはずの出張が五回になり、半月単位になり……気づいていないはずはない。
何度か遠回しに責められたこともあった。
自立の道がない彼女が、今落ち着いているのは己の立場を考えた結果だと思っていた。それでも何年もの間に積もった恨みは相当なものだ。
「あれこれ妄想するより、自分の目で確かめてみたらどうですか?この数ヶ月、あなたは自分のことしか見ていないですよね?」
いや、もっとだ。
尚美と出会ってからの六年、思えば尚美のマンションに泊まる方が常になっていた。
別居と言われない程度に戻って、わずかな家族団らんを保っていたにすぎない。仮面夫婦を耐えた妻にもいよいよ限界が来たか。
恨みの元凶である自分を何らかの方法で……。
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