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3・柴田圭輔(しばた・けいすけ)
3-3
しおりを挟む頼子が戻ったのは夜も二時を廻ってからだった。
「あなた、今帰りました」
圭輔は、目をきつくつり上げて妻を睨んだ。
「お前、子供を置いてこんな時間までどこで何してたんだ?」
圭輔はおそらく、自分同様に密会を妄想していただろう。だが頼子は凛とした態度で切り返した。
「お友達の旦那さんが弁護士で、そこで今までずっと相談してました。二人きりじゃありません。友達も一緒です」
一瞬意味がわからなかった。
弁護士、相談?
「もう何年も耐えてきたけど限界です。私、一朗を連れてここを出ます。あなたとはもうやっていけません」
劣勢なのは自分の方なのだとようやく気づいた。
妻公認の浮気を何年も平気で続けてきて、ついに鉄槌が下る時が来たのだ。妻は仕事もなく独立する手だてもない、給料を渡している限り反逆などないと思いこんでいた。
「ありゃー、まさかの大逆転。仕方ねえよな。男が悪い!」
カノンの実況中継。
だが圭輔も黙っていなかった。この上息子も奪われるとなれば、男のプライドが黙ってはいない。
「一朗は俺の子だ。お前だけ出て行けばいいだろ」
だがそれも息子の一言で叩き切られた。
「パパが出てけばいいじゃん。俺、ずっとママとここで暮らしてきたもん。ここ出るの嫌だし、パパはどっかの女の人のとこで暮らせばいいよ。だからパパが出ていって」
きっぱりと、しかも不倫のことまで言われ圭輔は目を剥いた。
「な、何だと!」
そこで暴れ出す気力も失せた。息子に完全否定されたのは致命傷だった。
夜明けの光が差し始める頃、圭輔はドアを蹴破るように出て行った。
それをそっと、上空から眺めているモネたち。
「あら、パパ完敗。今までの罪が結実したわね」
「あれって嫁の仕込みか?息子にあっさり言わせたのって」
「子供なりに親の今までを冷静に判断したのよ。中学生ならさすがにわかる年齢だもの」
着の身着のまま明け方に家を出て、どこへ行くのかと追ってみれば……ホテルではなく、職場にほど近い別のマンションだった。
「あ、鍵持ってるのか。愛人宅てことね」
半同棲状態ならそれも不思議ではない。行き先には何ら困っていないのだ。
先ほどまでの情けない姿は微塵も感じられない。恋人の元へ通う一途な男、そうも見えた。
「この人、本当にうまくやってるわね。奥さんのとこではちゃんと妻帯者の顔して、こっちでは愛人との顔になる……」
「嫁が許してきたからだろ。でもついにそれもジ・エンド」
「いつか戻ってきてくれるって思ってたのかも。けど、これじゃ永遠に止める気はないわね。奥さんの人生を考えたら、すでに潮時かも」
圭輔はドアを開けて部屋に入った。
尚美は今夜遅くまでここには帰ってこない。だが勝手知ったる人の家。何がどこにあるかは十分知っていた。ろくな食事もできず、風呂にも入れずシャツも昨日のまま汗でじっとりと湿っている。
シャワーを浴び、冷蔵庫から適当なものをつまむ。すでに放送開始しているテレビをつけ、表示された時刻を見る。まだ出かけるには十分な時間がある。
気づいてみれば徹夜なのだ。帰って寝るつもりがずっとゴタゴタしていて、このまま仕事に行かなければならない。だが今はあまりに衝撃的な事件のせいで、眠気など起きる気もしない。当分不眠かもしれない。
そういえばあと十日で……いや一日減ったから九日か。命が終わる、と言われたのは何だったのだろう。
ホログラムの幻だからやはり心労が見せたものだったのか。
とにかく今日一日だけでもどうにか過ごそう。夜になれば、尚美が帰ってこの部屋で自分を迎えてくれる。それまでどうにか……
うとうとと眠りに入ると、一朗の赤ん坊の頃を夢に見ていた。
三週間遅れてようやく生まれた過熟児で、まるまる太った子供だった。
パパ、パパと慕って走り回っていた頃が懐かしい。それが自分を糾弾し、母の肩を持つようになるとは。それは息子の成長を見るようで頼もしくもあり、寂しくもあった。
続いて、亡くなった父親の顔も浮かんだ。
父にとって自分はどう映っていたのだろう。父に、久々に会いたいと思った。
「モネ?どうかしたのか」
遠くから見守るモネに、カノンが声をかける。
「あの人はさすらい人なの。妻も愛人も誰も愛せない。彼のお父さんに鍵があるのよ。それを思い出せるかどうか」
心の奥底に沈み、彼もすっかり忘れているそのことを。
ここはどこなんだろう。
圭輔は舗装もされていない田舎道を歩いていた。
視界の真ん中に鎮座した山の緑は青々と茂り、これから夏が来ることを予感させた。建つ家はまばらで、見渡す限り広大な畑が続いている。
ここはまるで……。
そうだ、自分の生まれ故郷の風景だ。
大学で東京に出るまでは、生家から地元の高校に通った。
母は圭輔が幼い頃に死に、父が一人で彼を育てた。
朝から晩まで農作業をして、自然と戯れた自由人だった。母が恋しくて泣いていると、父は畑に稔ったミニトマトやいちごを口に入れ慰めてくれた。母はいなくとも、自然を愛した父のおかげで十分幸せだったと感じている。
父は母を生涯思い続け、後妻もめとらず唯一の愛を貫いたのだ。
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