【完結】天使のスプライン

ひなこ

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4・三峰美保(みつみね・みほ)

4-1

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 土曜日の病院は面会時間が終わると、無人のように静まりかえる。
 軽症の患者は体力をもてあまし家に帰ってゆく。スタッフも夜への引き継ぎを行ってから、最小限に減る。

 長い夜がやってくる。帰れない者にとっては、とても長い夜。
 ナースステーションでは当直の女医が、家族と電話をしている。

「……ですから、今夜が山かと。無理ですか」
 手応えのない会話の後、受話器を置いた。

 夜勤のナースが話の内容を察して、声をそっとかけた。
「沢村さんのご家族、やっぱり来られませんか」
「だってもう闘病とうびょう五年めだもの。家族だって疲れてる。治療費も相当な負担だと思う」
「でも沢村さん、何度も持ち直されてますよね。その度に呼ばれてて、きっと今回も大丈夫って楽観視らっかんしされているのかも」
 モネはれてくる会話を聞きながら、一番奥の個室へと滑り込む。
 加湿器の霧で白くけむる部屋には、顔の大部分を腫瘍しゅようでふさがれた老婆が横たわっていた。

 肉塊にくかいは呼吸さえ妨げるので、鼻のわずかなすき間からチューブが挿入そうにゅうされていた。
 医療従事者いりょうじゅうじしゃでもない限りは、見るにおぞましい姿だ。
 大抵は外から見えないように、大きなガーゼでおおわれている。すでに体力も尽き、起きあがることすらできない。その姿はまるで、人生の最後に下されたばつのようでもあった。

 起きているのか、眠っているのか。
 モネはベッドのわきに舞い降りた。

「美保さん、聞こえてるんでしょう?」
 反応はない。見るべき目も、開くべき口も腫瘍によって埋もれている。それでも、モネには彼女が起きているとわかった。

「ところで、あなたの望み通りの人生は送れた?」
 モネはベッドの脇に座り込み、しわだらけの手をそっと握る。
 数秒して、わずかに握り返す感触かんしょくが伝わる。彼女に残された数少ない伝達方法。
 モネは立ち上がる。

 こんな姿になってもなお生きている。
 かわいそうだけどあなたを案じてけつける人なんて、いないみたい。今日が最後だと告げられてもなお、看取みとってくれる家族もいないあなた。
 すべてあなたの歩んできた人生がもたらした、最後の贈り物。

 そう宣告したとしても、彼女は別にショックも受けないだろう。
 あまりに心を強く閉ざしていて、とても孤独に強い人だから。
 いや、弱いからかもしれない。 
 ため息をついて一度部屋を出ると、カノンがあわてて振り返る。

「何だ?止めんのか?」
「見に来ただけだから。ここまで命が差し迫っても、まるで動じるところはないわ」

 血のような鮮烈せんれつな赤を放っていた、彼女のファイル。
 生への執着と煩悩ぼんのうを、たっぷりと残したまま亡くなったのだろう。死ぬことさえ、不本意だったかもしれない。ざっと略歴りゃくれきを見ただけでも、彼女によって悪影響を受け、運命を悪い方へ変えられた人間は数十人に上る。
 荒波の中をうまく渡りおおせてきた、たくましい悪女と言うべきか。

「もっと若い時に会わないとだめよ、この人は」
「やってもだめな気はするけどな。重症じゅうしょうすぎるよこいつ」
 空を指で切り裂いて、時間をさかのぼる。
 もっと若い頃の彼女のところへ。

 再び降り立ったところ、そこもまた病院の中だった。
「あれ?本当に移動したの?さっきと変わらなくね?」
 カノンに言われ、モネは鼻をくんと鳴らす。

微妙びみょうに違うわ。さっきのとこはもっとアルコール臭がきつかった」
「お前、犬かよ!」

 彼女は六人部屋の窓際のベッドにいる。そしてもっと若い。
 今度はちゃんと話ができるはずだ。同室の患者はみな外出しているのか、部屋には美保一人だけだった。モネは部屋に入り、その名を旧姓で呼んだ。

「三峰美保(みつみね・みほ)さん。初めましてかな?」
 彼女は髪をおさげに結わえて、ベッドに座っていた。

 歳は十七、八。彫りの深い目鼻立めはなだちは、年頃の娘たちに紛れてもきっと目立つだろう。美少女と言って差し支えない。だが外側は美しくてもその内面は……。
 だからこそ時の流れは晩年、この美貌びぼうを徹底的に破壊して見せたのか。

「あなた誰?」
 耳に心地よい、透き通った声で美保は答えた。
「私はモネ。あなたにを助けにきたのよ」
「助けに?」

 美保は手を空にかかげて見せた。病院着のそでがずれて、手首に巻いた包帯があらわになった。
「けがをしたの?」

 努めて親身に接し、少女の反応を観察する。ここで心証しんしょうを害しては後々面倒になるからだ。
「もういいの。私なんて死んでしまった方が」
 初対面であろうが、おくすることなく淡々と言った。

「なぜ?」
「一番の友達を亡くしてしまった。私には彼女の自殺を止められなかった。朋美(ともみ)は私が殺したようなものだわ」

 サイドボードの写真立てに目が留まる。美保と並んで、快活かいかつそうな笑顔の少女が写っていた。
 美保からすれば見劣りするが、それでも十分魅力的な容姿をしていた。
 モネはその少女を”知って”いた。

「だから私を助けるというのなら、いっそ殺してくれていいの。朋美を助けられなかった私に、この先のうのうと人生を謳歌おうかする資格なんてない」

 長いまつげの間から、うれいの瞳が何度もモネをる。意図的いとてきなはずの動作なのに、そう感じさせない。
 何という無意識なしぐさ、もしかしたら高等スキルなのか?
 悲劇の少女ぶりを嫌みなく突きつける。
 いや、嫌み以前にもう見る者を取り込んでしまう。

 モネでもくらっと来そうな名演技。普通の人間ならさらに、たやすい。

 さっきまで醜悪しゅうあくな老女と対面していたモネは、どうしてもその言葉が信じられない。
 本当にこの娘があの老婆になるのか?見かけだけではない、心根こころねまでもファイルにあるような恐ろしい変遷をたどるのか。
 あまりにも残酷な、時の流れ。

「くれぐれも早まらないでね。私は側にいるから」
 美保が言ってほしいだろう言葉を返して、一度そこから離れた。
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