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3.優子と琴美
しおりを挟む母の本名は三崎琴美(みさき・ことみ)。優子は芸名だったのだが、いつしか本人も琴美を名乗らなくなり、周りも皆、優子と呼んだ。それは、公的な時間が圧倒的に長いせいだと思っていたけれど。
「ママをどこにやったの?」
「今、私の中で眠っている。でもこの身体、元々は私のものだったのよ」
「じゃあ私の知ってるママは誰なの?」
「あの人は優子。事故の時から私の身体にずっと住んでいる、侵入者みたいなもの」
有紗は混乱のまま名倉を見る。
「いや、本当にすみません。もっと早く言うべきだったことはわかっています。でも優子さんの仕事を考えると、極力避けたかったんです。表沙汰にすることは」
有紗と琴美、それぞれに平謝りを始めた。
「ねえ名倉?この前最後に会ったのはいつだっけ?」
「ええと……三年前?いや、もっとでしたか」
ばん!とテーブルを叩いて声を荒げる。
「もっと前よ。この子がまだランドセル背負ってたもの。その時言ったでしょ?ちゃんと病院で治療してくれって。あなたは元々私のマネージャーだったのに、どうしてそう優子に甘いのよ?」
若い頃に母が遭った交通事故。それは有紗の生まれる前の事件で、知るよしもないことだった。ずっと知りたくて、でもはぐらかされて来た。
「名倉さん、ちゃんと話して下さい。どうしてママとコトミさんが入れ替わるようになったのか」
名倉によれば、琴美は二十歳の夏に高速道路を運転中、前方不注意で事故を起こし頭を打った。
一時的に記憶障害にはなったが、徐々に収まって行ったはずだった。突然歌手を辞めたいと言い出したのが事故から五ヶ月後、名倉はそこで初めて異常を察知した。琴美は優子と名乗り、別人のように振る舞うようになっていた。
「事故の時に何があったの?」
「当時、仕事のことも人生的なことも行き詰まっていてね。一人でドライブにでかけた先で、ハンドル操作を間違って事故を起こしたみたい。意識が戻らない中で、”もうこのまま死んでもいいかな”って思っちゃった。そしたら誰かの声がして……”いらないんだったら、私にその身体ちょうだい”って」
琴美はしんみりと目線を下げた。
臨死体験、憑依。何と表現すれば的確なのだろう。
「それで”優子さん”として生きるようになったの?それから結婚して、私が生まれた?」
生みの母に”さん”付けしてみて、腑に落ちた。
長年の謎が解けた気がしたのだ。母がなぜ歌を止めたのか、自分や娘の歌を嫌うのか。事故後アナウンサーに転身したのも、答はすべて一つに集約する。
三崎琴美と別人格の優子には、歌など全く縁のないものだったからだ。
「じゃあコトミさんは歌えるの?歌手なんでしょ?」
「もちろん。さっき、あなたのハッピーバースディ聴いて感動したわ。本当に声質が似てる。さすが親子ね」
琴美は自信たっぷりに微笑むと、英語詞の歌を歌い出す。有紗も文化祭で歌った覚えのある往年の名曲。高音での澄んだファルセット、そしてブレス。
優子とは違う声に思える。同志に出会えた気がして有紗も歌い出す。
「ちょっと、お二人とも。夜中ですよ?」
名倉の声も聞かず、即興でハーモニーを奏でる。
歌うほどに有紗の中で鼓動が大きく波打ち、全身を震わす。自分と少し違う声色なのに、耳から身体じゅうに広がり染みていく。互いに溶け合うような、甘美な一体感に呑まれた。
ワンフレーズが終わると、二人は興奮に頬を上気させて見つめ合っていた。
「すてき!歌のセンスも抜群じゃない。今すぐステージに立てるわ、あなた」
「嬉しい。こんな身近に一緒に歌える人がいたなんて。でも……この身体はどうしてあなたには戻れないの?一度だってあなたに、コトミさんに会ったことなかった」
「わからない。私よりも優子の方が”この身体で生きていきたい”と言う思いが強いんだと思う。私は弱っちいから、なかなか勝てない」
「そんな。自分の身体なのに」
さっき”久しぶり”と言った。”大きくなったね”とも。
「今回が二十年のうちで、初めて外に出てきた訳じゃないの?」
「何度かね。でも本当に久しぶりだった。あまりに出られなくて、消えちゃうんじゃないかって思ったもの」
きっかけは何だった?そうだ、歌ったからだ。
「ね、ママは私かあなたが歌うと引っ込むの?だったらずっと歌っていればいい。それならずっと一緒にいられる」
「だけどあなたは優子が産んだ子なのよ。私はこの身体の持ち主だけど、あなたとは」
他人ーその表現は適切ではない。生物学的には母子だから。
「わかってる。だけど私はママよりもよほどあなたに似ている」
歌への愛着は、琴美からの遺伝と思えた。
「ママって呼ばれるのが嫌なら、おばさんって呼べばいい?」
「琴美でいいよ。おばさんは無し」
琴美は笑った。
「じゃあ私も有紗って呼んで。呼び捨てでいいよ」
三崎優子が事故後に歌手を辞めたのは、歌のセンスが皆無だったからだ。いくらレッスンをしても復帰はできない。ならば引退か?しかし優子は別の道を望んで一から積み上げた。それがアナウンサーへの転身だった。
「にしても、極端な方向転換ね。私にはキャスターなんて無理だわ。興味もないし」
「二人とも適性が違いすぎるんです。それでも優子は努力して、よくやってました」
一度始めた道を大幅に変え、生き延びて行くのは並大抵ではない努力が要るだろう。競争の激しい世界ならばなおさら。
有紗はカップを三つ出して紅茶を淹れた。二人にも勧めたが飲む余裕はない。
「ずっと考えていたんですが、思い出しました。あなたが病院に行くように指示したのはもっと前です。有紗さんが生まれる前」
「でも結局行かなかったんでしょ?同じことよ」
「いえ、行ったんです。でも薬物治療が必要だと言われて、その時お腹に有紗さんがいましたから。胎児への悪影響が避けられないので、中止になったんです」
有紗の手からスプーンが落ち、床で跳ね返った。
「ごめんなさい。私が……治療を邪魔したの?」
一切自分は絡んでいない、大人たちの昔話だと思っていたのに。
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