裸身のデッサン

大津らら

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第1話 邂逅

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 正木豊は、アトリエの扉を押し開けた瞬間、胸の奥がきゅうと縮むのを感じた。
 古びた床板には幾度となく油絵の具がこぼれ落ち、乾いた匂いと溶剤の刺激が鼻を突く。学生たちはすでに席に着き、それぞれの画板を構えている。ざわめきは抑えられ、これから始まる「特別な時間」への緊張が空気を支配していた。

 やがて、アトリエの中央に立つモデル台へ、一人の女が歩み出た。
 三森梓――二十五歳。豊は名簿でその名前を見ただけで、どんな人物か想像もできていなかった。

 彼女は薄いガウンをまとっていたが、迷いのない仕草でそれを外す。
 布が肩をすべり落ち、やがて足もとにたまる。その瞬間、教室の空気が変わった。
 白磁のように滑らかな肌がライトに照らされ、若い学生たちの視線を一身に浴びる。

 豊の手は、まだ鉛筆に触れてもいないのに汗ばんでいた。
 裸の女性を前にするのは初めてではない。雑誌や映像で目にしたことはある。だが、数メートル先に生身の女が立っている――その事実が全身を打ち震わせた。

 梓は背筋を伸ばし、片足を軽く曲げてポーズを取る。
 視線は真っ直ぐに前を向き、羞恥も挑発も漂わせない。そこには、裸身を晒すことを生業とする者の揺るぎない自尊心があった。

 豊は慌てて鉛筆を握る。だが線を引こうとするたび、腕がわずかに震える。
 彼は描こうとしているのか。女を。裸を。それとも、芸術の題材を。
 答えの出ない問いが胸の奥を揺らす。

 周囲の学生たちが、次々と紙に鉛筆を走らせていく。
 ザザッ、ザザッ――鉛筆の音が重なり、アトリエ全体に低い波紋を広げていた。

 正木豊の目は、梓の顔から胸へ、胸から腰へとさまよい、ついには陰の奥へと吸い寄せられそうになる。
 慌てて視線を戻すが、一度焼きついた像は脳裏から離れない。

 ――これが、女。

 自分の喉が、ごくりと鳴る音が耳に届いた気がした。

 デッサン用の鉛筆を握り直す豊の手は、まだかすかに震えていた。
 梓はそんな彼をちらりと見て、片目だけ細める。長いまつ毛の隙間から、わずかに微笑みがこぼれるように見えた。

 「あなたの目は正直ね」
 その声は小さく、だがアトリエの空気をすり抜け、豊の胸に刺さる。
 嘘のない視線。逃げ場のない真実。豊は一瞬、息を詰めた。

 慌てて鉛筆を紙に落とし、線を引く。だが、線は揺れ、影が濁る。
 目の前にいるのは、単なる裸のモデルではない。
 女――生きた、揺れる体温を持った女がいるのだ。

 梓は片腕を頭上にあげ、腰を少しひねる。豊の目は無意識にその動きに吸い寄せられる。
 微かに揺れる乳房の影、柔らかい腹の曲線、そして――自然な陰部の稜線。
 鉛筆を握る指先に力が入らず、息が荒くなる。

 「……描くの、大変そうね」
 梓の声に気づかされ、豊は顔を上げる。
 彼女の瞳は遊んでいるわけでも、誘惑しているわけでもない。ただ、観察者としての冷静さを たたえている。

 その瞬間、豊の胸に熱いものが込み上げた。
 ただ見るだけではない、触れたい、近づきたい、心が揺れる。
 しかし目の前の女は、絵のモデルであり続ける。手を伸ばせば届きそうで、決して触れられない距離感。

 授業終了のベルが鳴ると、梓はゆっくりと布を手に取り、足元に落ちたガウンをつかむ。
 振り返ることもなく、軽く微笑んで言った。
 「今日はよく頑張ったわね。あなたの目、忘れられそうにない」

 その言葉を残し、梓はアトリエを後にした。
 残された豊は、紙と鉛筆を前に、自分が何を描いたのか、何を見たのか、まだ整理がつかないまま息を整えるしかなかった。

 それでも心の奥に、確かに残った熱と鼓動があった。
 ――これは、単なる授業では終わらない。
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