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番外編2

その男忠犬につき①

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※現代を舞台にした番外編。転生かもしれないし、他人の空似かもしれない。


「変われば変わるものだなあ」

 法定速度をはるかに超えて爆走する車内で、榊原康政が感慨深げに呟く。

「康政さんったら、余裕。そんな無駄口叩いている場合じゃないんじゃないですか?」

 隣に座る助手席の男のツッコミに、ふっと笑みを漏らす康政。

「つい、昔のことを思い出してしまってな」
 
 ほわほわと花を飛ばしながら呑気に昔を懐かしむ康政ではあったが、その足は先程からアクセルを踏みっぱなしだ。
 車窓から見える景色が、残像さえ残さず異様な速さで通り過ぎていく。
 康政の同僚であり、後輩である助手席の男、井伊万千代が、これまたのんびりと「まあ、確かに最初は酷かったみたいですもんね」とひとりごちた。
  康政は、「まあな」と思い返してみる。 

「忠勝殿が9歳の時分、殿との初対面の席でこんな主につけるかとそのまま家に帰ったそうだ」
「ひえ」
「10歳の時には、抗争は嫌じゃと泣き喚く殿を庭の池にぶん投げたらしい」
「ひええ」
「11歳の頃、殿の着替えを誤って覗いてしまって、大量の鼻血を噴き出して卒倒したな」
「打首獄門じゃないですか」
「うむ。その後、自ら腹を切ろうとしていた」
「うっわあ」

 何とも言えない顔をして、ドン引く万千代。
 車の窓を、ポツポツと雨粒がノックする。

「あっ、降ってきた」

 万千代が美しい柳眉を下げ、くりりとした大きな瞳を大袈裟に細めてみせる。だが、今降りかかっている緊急事態を憂うような切迫した雰囲気は、この男からも感じられない。
 ツッコミ不在。
 車内の様相を表すには、この一言につきる。
 黒いスーツのポケットから取り出した拳銃に、万千代が鍵盤でも弾くように優雅な仕草で弾を込めていく。ちらりとこちらを見た康政と一瞬だけ目が合うと、万千代は薄めの唇の口角を上げた。

「俺がやっちゃってもいいんですよね?」
「そんなチャンスがあると思うか?」
「ちぇっ」

 万千代が、不貞腐れたように唇を突き出す。事態を知らせる連絡を事務所で受けて、誰よりも早く飛び出していった男のことを思い浮かべているのだ。

「もう七年、いや八年でしたっけ?」
「ちょうど十年だな」
「そんなに? 康政殿も年をとるわけですね……あっ、痛っ」

 康政が万千代の脛を蹴り上げる。万千代は大袈裟に声を上げて、さすってみせた。

「イテテ……先週末のお疲れ様会も豪勢だったんですよ。殿の仕切りで、組員も日本酒やシャンパンを持ち寄って」

 涼し気な目元の伊達男が、その麗しい容貌にそぐわない子供のような態度で眉間に皺を寄せる。

「それ、俺、出張で顔出せなかったんだよ。そしたら、あんの殿大好きサムライがさあ」
「後で、思いっきり蹴飛ばされてましたよね」
「酷くない? あの殿ガン見男。自分は盛り上げるでもなく、憮然として殿が選んできたファンシーなホールケーキと睨めっこしてただけだろうに」
「あははっ、確かにそんな感じでしたね」
「殿、御自ら主催の催しに参加しないとは何事じゃと」

 康政の言葉に、万千代が噴き出す。
 康政は不満げに、ぶつぶつと呟いた。

「大体、あっちの組の御指名で、名指しで榊原康政が呼ばれたの。俺だって、殿とパーティーしたかったわ」
「ふふっ。忠勝さんは、殿のことが大好きですからねえ。殿も、忠勝さんがうちの組に入った記念すべき日を、十周年としてみんなでお祝いしたかったんでしょう」
「俺だって一応、徳川組の古参組員だよ? ていうか、俺だって忠勝殿との付き合い長いんだよ? 少しぐらい大好きわけてくれたって良くない?」
「ですかねえ」
「あの野郎、ほんと酷いのよ。態度が全然違うの、月とすっぽんの方がマシ。この十年で、あいつを飼い慣らすことが出来た人間なんて……」

 二人の間に沈黙が落ちてくる。

 ブオオォォン。

 二人が乗る車の横を、爆音を立てて一台の大型バイクが走り抜けていった。
 フロントガラスの向こうで、はたはたと湿気をはらんだ温い風で翻る黒いコートの裾。康政と万千代が見守る中、バイクはあっという間に豆粒ほどの大きさになり、すぐに視界から消え失せた。

「えっと、いま何キロ出してるんだっけ?……殿親衛隊副隊長の俺が運転するこの車は」
「副隊長代理」

 万千代がすかさず訂正する。

「たわけ。万千代ごときが副隊長など百年早いわ」

 康政が鼻で笑う。

「ええー。俺だって、殿との付き合い結構長いんですよ」
「しかし、副隊長の俺が運転する暴走車を追い抜くって、どんだけ……」
「愛されてますねえ、殿」
「今更かあ」

 のほほんとした口調で、さらに深く康政がアクセルを踏み込む。
 万千代が、装填していた拳銃をポケットに仕舞う。今日これの出番はなくなったとばかりに、のん気に鼻歌まで歌い始める。古いシャンソンの名曲、たった一人の相手に、自分の全身全霊を捧げるという献身的な愛の歌だ。

「ほんと、感心するわ。怖いもの知らずの誘拐犯さんに」
「もしや、ご存じないのではないでしょうか。徳川組の狂犬の存在を」
「うっわー、それはちょっとだけかわいそう」

 同情の声を上げる康政。しかし、その目は冷徹に細められていた。
 家康を奪われて、全身全霊をかけて奪い返しにいくのは、何も件の狂犬だけではないのだ。
 自分の主人に無体を働いた狼藉物を噛み殺す為に、先程、光の速さで走り去ったバイクの主の顔を思い浮かべて、康政の唇からニヤリと笑みが零れる。

「本当に。変われば変わるものだなあ、人は」

 徳川組の狂犬、本多忠勝のたった一人の主、徳川組三代目組長、徳川家康。
 彼が最寄り駅を出たところで何者かに拉致されたのは、今からちょうど二時間前のことになる。
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