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第2章・ただ春の夜の夢のごとし

8・ただ春の夜の夢のごとし

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「――ん、あぁ。はよ、麻衣まいちゃん」
 4月1日、まだ冷たい明け方の空気の中で、れんさんが眠たそうな声でわたしに話しかけてくる。初めて見てしまったときのように、裸のまま。
 その姿を見ると、昨日の夜あんなことをした相手なんだってことをはっきり意識しちゃって。

「あ、え、おはようございます」
 何だか気恥ずかしくなって、まともに顔を見られない。
 そんなわたしに、煉さんは可笑しそうに笑う。
「そんな恥ずかしがんなくたっていいのに~、昨日散々裸見合ったじゃん? つーかあんな激しくヤる感じの子だとは思ってなかったからだいぶビックリしたけどね~。え、だってこれから高校っしょ?」
 たぶん、他の人から聞いたんだと軽蔑したような声音に聞こえてしまいそうな言葉だ。
『こんな子どもが』
『可哀想に』
『気持ち悪い』
『まだ子どもなのに』
 そう、色々な形をとっていても、結局はわたしへの軽蔑が表れただけの言葉。向けられる感情はほとんど同じようなもの。じゃなければ、ただの性欲とか。
 わたしの両親でさえ、そうだった。

 だけど、数日一緒にいたわたしならわかる。
 煉さんは、わたしをそういう目では見ない人だ。
 むやみにかわいそがったり、見下したり、そういう嫌なことは1つもしないでわたしを見てくれる人だ。たぶん、毛布にくるまって眠っている美希みきさんも。
 本当に優しくて、いい人たちなんだ。
 優しさが温かくて、涙が出てくる。
 その後、わたしの涙に慌てた煉さんはすぐに美希さんを起こして、寝起きの美希さんはわたしたちの状況を誤解して煉さんをひとしきり怒って……そんな、ちょっと状況は違うけどいつもとほとんど同じ朝。

「……結果麻衣ちゃんがそう感じてくれたならよかったけど、煉。ちょっとは言うこと考えてから喋んな? 他の子にそんなこと言ったら訴えられるよ?」
「え、マジで?」
 横目でジロリと煉さんを睨み付ける美希さんは、彼女というよりまるで煉さんのお姉さんみたい。何だか微笑ましくて噴き出してしまった。そんなわたしに、美希さんは優しく笑いながら「えっと、さ。その……」とそわそわした感じで話しかける。
「昨日みたいなアレ、ああいうんでよかったの?」
「え?」
「全然麻衣ちゃんの意思とか関係なく、あたしらの気分でやっちゃった感じだったから、一応ね」
 美希さんはどうやら、わたしが無理にあの場所で2人とセックスしたって思ってるみたいだ。そう思われても仕方ないのかな、っていう気もしないではない。
 だったら、はっきり伝えなきゃ。
「えっと……、わたしは、その、楽しかったです。とっても」
 2人とも、楽しむのを1番にしてはいただろうけど、とても優しい気がした。
 わたしには、優しかった。
 だからむしろ、ありがとうって言いたい。隣で煉さんが「そうだよそうだよ、まぁ美希もさ、麻衣ちゃんに見られて感じてたみたいだし?」と余計なことを言ってまた美希さんに怒られている。そんな姿はとても平和で、見ていて楽しくて。
 何だか、久しぶりに安らげる場所なんだな、って。
 とっても嬉しくなった。


 そんなことをしている間に、2人ともお仕事の時間になった。
 美希さんは近くの会社で派遣の事務員を、煉さんは今日は駅前デパートの警備をするらしい。
「「いってきまーす」」
「いってらっしゃい!」
 声を揃えて出て行く2人を見送って、またリビングを見る。

「…………」

 どうにかご飯を食べるスペースは確保した。でも、まだ部屋のほとんどが昨日のままで。
 わたしと煉さんがたぶん最後に愛し合っていたソファからは、まだ汗と精子とわたしたちの匂いがする。美希さんがつけている香水の匂いも、そこかしこから漂ってくる。
 そのどれもが、お腹の奥にずくん、と響いて。

 ちょっとなら、いいよね……?

 そう問いかけながら、わたしはオナニーしていた。昨日のセックスを思い出しながら、美希さんに責められた場所を、煉さんに責められたような感じを真似して弄繰り回す。
「んんん……っ、~っ!!!」
 身体中に電流が走って、火照りは治まらない。
 治まるまで何度も、何度も。三木さんが部屋のタンスに入れっぱなしにしてるもたくさん使って、自慰を続けた。

 だから、いつもはお昼くらいにしているはずの買い出しも夕方くらいになってしまって。
 そしてわたしは、会ってしまった。

「……お父さん」
「麻衣」
 仕事帰りらしいお父さんは少しやつれていて、まるで別人みたい。
 外行きのシャキッとした雰囲気はあるけど、どこかが虚ろで、はっきり言って怖い。

「帰るぞ」
 有無を言わさず、腕を引っ張られる。
 あまりに強引に引っ張られて、痛くなる。
 痛みに負けたわたしの手から、買い物袋が転がり落ちる。
 飲み物とか、野菜とか、お菓子とか。
 わたしの日常が――久しぶりに感じられた幸せな毎日の象徴が、零れ落ちていく。

「――っ、待って、わたしこれから家に、」
「お前の家はお父さんの家だ。帰るぞ」
 
 お父さんはわたしを振り返りもせずに、黙々と家に向かって歩き続ける。
 やだ、怖い。
 どうしよう?
 反射的に名前を呼ぶけれど。
「やだ、戻りたくない! 煉さん、煉さん! 美希さん! たすけてよ美希さん!」
 夕方の寂しい裏路地ではそんな声は誰の注目も集めない。誰も来てくれない。お父さんはただ「さぁ、帰ろう」というだけ。
 いやだ、怖い。怖い。怖いよ、お父さん……!
 美希さん、煉さん……っ!!

 段々暗くなっていく空の下、宵闇に染まった道の先に、わたしの――わたしの家が、見えてきている。
 こうして、わたしは連れ戻されることになった。 
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