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噂に屈しない、強い人

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 外に出れば、こんな情報だって耳に入ってしまう。

 もしかしたら、私はあのままベッドで療養していた方が良かったのかもしれない。
 ベルが身体に戻るのを待つ日々を送っていた方が、良かったのかもしれない。
 アインスの言う通り、招待を断れば良かったのかもしれない。

 でも、来てしまったのだからそんなこと言っても遅いわね。

「あのね、ベル嬢。このお水を飲んで、悪魔の子だったら口から真っ赤な血を吐いて死ぬらしいわ。死ななかったら、その人は天使。数年前から、このようなお茶会で遊びの一貫として広まっているの」
「これからもお茶会に招かれるなら、知っておいた方が賢明よ。……悪魔の子じゃなければね」
「ふふふ、ポレット様ったらご冗談を」
「……そんな遊びが流行っているのね。知らなかったわ」
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ。ありがとう」

 イリヤの心配そうな声にハッとして、震える手でグラスを受け取った。震えていても変に思われなかったのは、この細すぎる手のおかげかもしれない。
 私は、視線をグラスに向ける。まるで、そこに敵が居るとでもいうような視線を。

 これは、ただの水だ。他人の屋敷内で毒を入れるほど、このご令嬢たちは非常識ではない。
 そう思うも、アリスの記憶が邪魔をする。

 いくらもがいても、空気を吸い込めない苦しみ。
 熱く苦い何かが喉元を通る、鋭い痛み。
 視界がどんどん狭くなるあの恐怖。

 グラスから伝わる冷たさ、なみなみと注がれ揺れ動く水面が、今まで忘れていたあの感覚を鮮明に蘇らせてくる。

「さあ、飲むのよ」
「悪魔じゃなければ、死なないから」
「貴女はどちら?」

 ここで飲まなければ、私は悪魔のレッテルを貼られてしまう。そのくらいのことは平気でやるような人たちだと思うの。

 そうなれば、ベルだけじゃない。あの優しく温かい家族までにも、迷惑をかけてしまう。それだけは避けなければ。
 記憶喪失だと嘘をつく私を、家族だと当然のように受け入れてくれた人たちの悲しい顔だけは見たくない。

「何をしているの」

 大きく深呼吸をし、飲むしかないと覚悟を決めた時だった。

「パ、パトリシア様……」
「ご、ごきげんよう」
「ご挨拶が遅れてしまい申し「挨拶は良いわ。私は、何をしているのか聞いたのよ」」

 私たちの横からパトリシア様が入ってきた。口元を扇で覆ってはいるものの、誰の目から見ても怒りの感情がわかるほどの雰囲気を醸し出している。

 それを見た私は、気づかないうちに入っていた肩の力を抜く。すると、グラスを持つ手がさらに震え出した。
 でも、ドレスへシミを作る前にイリヤが持ってくれたわ。

「ありがとう、イリヤ」
「いえ。それより、イリヤのお手手が悪さをしないようグラスを持たせてください」

 後ろを振り向くと、眉間にこれでもかとシワを寄せたイリヤと目があった。かなり我慢してたみたい。今にも、持っている手でグラスを握り潰しそうだわ。
 瞳孔が見開いて、正直私から見ても怖い。

「飲まなくて正解ですよ。こんな冷たいお水、お嬢様の胃を刺激してしまいます」
「……そうね」

 胃が弱ってて幸いだったのかも。私が悪魔だから飲まなかった、なんて言われたらおしまいだった。
 そうよ、イリヤの言う通りだわ。飲まなくて正解だったのよ。

 なんて思いながら頷いていると、パトリシア様がもの凄い剣幕であの3人を睨みつけているのが見えた。まるで、吹雪でも吹き荒れているかのように、周囲の温度もグッと下がっていく。
 方々で挨拶をしていたご令嬢方も、それを見て固まっているわ。

「別に、私たちは……」
「悪魔の確認をしていただけで……」
「ほら、今流行っているでしょう?」

 睨まれた3人は、必死になって言葉を発しようとしている。本当のことを話しているのに、なんだか嘘でもついているかのような話し方ね。
 それに、視点の定まらない目は、先ほど私に向けられていた冷たいものとは程遠くなっていた。

 私は、少しだけ震えがおさまった手を握りながら、前線でその様子を眺める。

「貴女たち、私のお茶会は初めてじゃないわよね」
「え、ええ」
「いつも楽しませていただいております……」
「今回もご招待くださりありが「だから、挨拶は良いって言っているのよ。それよりも、私がその下劣な遊びが嫌いとわかって楽しんでいらっしゃるのかしら?」」
「ヒッ……」
「まさか、冷たいお水を見たくもないという情報を得てないなんて、言わないわよね? 初めてじゃないのだから」

 パトリシア様は、冷たいお水を嫌う。確か、アランは「狂ったように嫌う」と言っていた。
 聞いた時は、お母様と同じく味気ないからだと思っていたけど……。この様子だと、何か別の理由がありそうだわ。

「え、えっと」
「その……」
「……」

 彼女が嫌うことを知っていたから、この3人はオドオドしていたのね。わかっていてやるなんて、稚拙な行動だわ。バレたらどうするかの想像もできないなんて。

 それに、他人の屋敷で喧嘩を売るってどんな神経しているのかしら。私には、到底真似できない。

「今まで他のご令嬢に露骨な嫌がらせしていたのはわかっていたけど、目を瞑っていたのよ。でも、今回のことを許す気にはなれないわ」
「あ、え……」
「それは……」
「その……」
「お父様に報告させていただきます。どうなるかは……ご自分のお父様に聞くのね」

 キッパリとしたその口調は、ポレット様のお顔を真っ青に染める効果があったみたい。他の2人も、ものすごい勢いで青ざめている。
 後ろにいたイリヤなんか、小さな声で「ざまあ見ろ」と言っているじゃないの。口が悪いけど、私も同じことを思ってしまったから今回は咎めないわ。

 パトリシア様は、3人の返事を待たずに私の居るところまで来た。そして、コルセットで苦しいのにも関わらず、腰を屈めて私と同じ目線で話しかけてくる。

「ごめんなさいね。あのお水、わざと置いたものだったの」
「わざと?」
「ええ。ポレットのお父様……ロートリンゲン伯爵とうちは取引をしているの。だから、無下にできなくてお茶会には呼んでいたのだけれど。今回のことで、もう呼ばなくて良くなったからスッキリよ。感謝するわ」
「……そうだったのですね」

 ご令嬢同士のお茶会にも、家族が関わってくる。
 それは家族ぐるみの楽しい交流ではなく、そのお家で任されているお仕事に直結するの。だから、このような場所にはそういう人を呼ばないといけないし、呼ばれたら行かないといけない。なんだか、窮屈よね。
 でも、それがしきたりだから仕方ない。

 もちろん、メリットもあるのよ。
 お仕事に必要な情勢や裏技、他の市場の動きなんかも聞けるし、うまくいけば取引が成立するなんてこともある。だから、お茶会は重要な場所なの。

 パトリシア様ったら、とても晴れ晴れとしたお顔をしているわ。これは、相当溜め込んでいたのね。
 だって、先ほど話した時のように刺々しい態度ではないし、親しみのある表情を向けてくれているもの。

「それに、飲まないでくれてありがとう」
「え?」
「私、その遊びの元になっているお方のことを尊敬しているの。こんな下劣な遊びに使われて良いお方じゃないのよ」
「……それって」
「アリス・グロスター様。美しい容姿に、美しい言動。全てが、私にとって雲の上のような存在でね。でも本当に……雲の上に、行ってしまっ……て」
「……」

 シンと静まり返ったお庭の真ん中で、パトリシア様はその頬に涙をこぼした。

 先ほどまで傲慢な態度で子爵令嬢を探していたパトリシア様。今、その彼女はどこにもいない。
 そこにいるのは、ただただ尊敬した人を亡くし悲しみの感情をあらわにする、年相応の彼女だけ。

 その様子を、気味悪がる人も嫌悪する人も居ない。

「あらやだ。湿っぽくなっちゃった、ごめんなさいね」
「……いえ」

 侍女からハンカチを渡され我にかえったパトリシア様は、体制を戻しながら涙を拭い笑った。伯爵令嬢に相応しい、微笑みだった。

 この方は、私を……アリスを知っているのね。
 でも、私は知らない。なぜパトリシア様は、あまりお屋敷から出なかったアリスのことをご存知なのかしら。お茶会や陛下にお呼ばれした時くらいしか、外出なんてしなかったのに。そこに彼女がいた記憶なんてないのに。

「さあ、仕切り直しましょう。みなさん、座って」

 いつの間にか、あの3人の姿は見えなくなっていた。

 他のご令嬢もホッとした顔をしているってことは、方々でトラブルばかり起こしていたのね。眠っていた私にはわからないけど、この軽くなった雰囲気だけは手に取る様にわかる。

 パトリシア様が扇を閉じると、場面が切り替わったかのように他のご令嬢たちが席へと向かっていく。
 それを横目に、再度彼女が私に話しかけてきた。

「ありがとう、ベル嬢。後で、お礼をさせてちょうだい」
「いえ、お気になさらず」
「嫌じゃなければ、席は私の隣に。サヴァン」
「はい、ただいま」

 彼女は、私のことを「ベル嬢」と呼んだ。どうやら、彼女なりに敬意を払っているらしい。
 それに、彼女は「嫌じゃなければ」と言った。子爵令嬢である私に選択肢を与えてくれているなんて、普通ならありえないわ。

 私が返事をする前に、侍女が主人の座る場所の隣を空けてくれた。
 ちょうど目の前には、バラの花が一輪飾られた花瓶がある。真っ赤で、パトリシア様の髪色と同じバラが。

「よかったですね、お嬢様。デュラン伯爵との繋がりができました」
「ええ、そうね」

 私は、元の「崇めなさい、この美しさを」に戻った彼女を見ながら苦笑する。

 いつ出会ったのだろう。
 そう思うけど、今は「アリスは悪役令嬢」だと思っていない人が居る事実に安堵する気持ちの方が大きい。

 ありがとう、パトリシア様。
 ちょっと傲慢な態度も、今見れば可愛く映るわ。貴女は、ただ自分の美しさを認めてくれる人が欲しいだけなのね。
 見た目と違って、自信がないのかも。

「イリヤ、連れてって」
「承知しました!」


 お茶会は、思った以上に盛り上がりを見せて無事終わった。

 各地方の量産品や城下町、作物の様子や領民の内職状況まで話題は幅広い。パトリシア様以外にも、色々な地方のご令嬢と仲良くなれたの。
 次は、ホウライ地方にあるワイルダー子爵のお城でお茶会をするらしいわ。嬉しいことに、ここにいる全員を招待すると約束してくれたの。今日のように、晴れると良いな。

 それにね。
 お茶会が終わると、イリヤが「今日のお嬢様はご立派でございました」と言って頭を撫でてくれたのも嬉しかったわ。



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