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いちごみるく
しおりを挟むパリン。軽く鋭い音がした。同時に、胸の中に重たいものがのしかかる感じがした。
また皿を割った。「すみません、失礼しました!」と大きな声を出す。
週末で、店内はごった返していた。駅前の居酒屋だから、毎週のことだ。箒と塵取りを持った店主が、素早く人混みをかき分けて僕のもとへ来た。「勘弁してくれよ」と、僕にしか聞こえない声で言った。いつものように、左ほほにしわを寄せて。
閉店後、改めて謝罪した。
「すみません。本当に、気を付けます」
店主は何も言わなかった。今度こそ解雇かもしれないと思った。
最終電車は空いていた。駅から家まで、暗い道を十五分かけて歩く。
正社員として就職したレストランを辞めて、学生時代にアルバイトをしていた居酒屋に戻った。相変わらず、不器用なせいでミスは絶えない。最近は怒鳴られることすらなくなった。レストランでの仕事は嫌いじゃなかった。もちろんミスはしていたし、怒られてばかりではあったけど、それでも何とかやっていた。そして、調子に乗っていたのだと思う。
入社したての頃に、教育係のような立場で僕に指導してくれた女性がいた。先輩だが、年下だった。要領の悪い僕にも丁寧に教えてくれた。黒い髪がきれいな人だった。笑いながら「私、教えるの下手じゃないですか?」と時折聞いてきた。僕は「全然そんなことないです」と答えるのが常だった。
しばらくしてから僕は厨房に入り、接客を主に担当していた彼女とは関わる機会が減った。僕は、そこで感じたある種の喪失感を、恋心に近いものだと認識した。冬になって、彼女を食事に誘ってみた。文面でのやり取りが何往復か続いたが、その時の僕は彼女が遠回しに誘いを断っているとは気が付かなかった。あるいは、信じたくなかったのかもしれない。
ほどなくして、僕は会社を辞めることを強いられた。従業員にセクハラまがいのことをした、というのが理由らしい。
食事の誘いをしたことがセクハラに該当するのか、僕にはわからなかったが、素直に辞めることにした。何より、意図せず他人に、それも好意を抱いている相手に不快な思いをさせていたことが悔やまれた。
社宅がなくなったので実家に戻ることにしたが、もちろん家族にはレストランを辞めた理由を正直に話すことはできなかった。「上司をそりが合わなくて」と、適当な理由を話した。
父は年齢の割に活発で、大きな声でよくしゃべる質だった。退職してからは頻繁に家に友人を招いては、自分の買った酒や母の作った料理を振舞っていた。
「こいつ、レストラン辞めよったんや」
酔うと父は友人たちに僕の話をするのだった。政治の話をしている時と同じく、熱を持って話している父を止めることは母にも僕にも無理だった。
夏、僕は母と二人で温泉宿に出かけた。母は旅行が好きだった。使い道のないバイト代で、母へのささやかな誕生日プレゼントのつもりだ。
小さい頃に何度か行ったことのある、この近くでは比較的大きな旅館だった。僕も母も無口であったから、部屋に入ってしばらくの間はテレビをぼうっと見て、「お風呂にでも行こうか」と言って静かに腰を上げた。
部屋から少し離れた場所にある浴場と、そこに至るまでの道は、小さい頃に来た時と何ら変わっていなかった。客の半数ほどは年寄りだったが、中には家族連れや若者の姿もあった。そうか、夏休みか、と思い出した。
浴場を出ると、変わらずそこには売店があった。僕はコーヒー牛乳、母はいちごみるくを飲んでいたことを覚えている。昔のことで、数回しか来ていないはずなのに、そのことは鮮明に覚えているのだった。
ところが、売店にはもういちごみるくはなかった。「いちごみるく、ないんですか」と聞くと、中年女性の店員さんが「そうなんです、もう置いてなくてね」と言った。数年前からなくなったらしかった。
母はしょんぼりするだろうなと思った。「ええ、いちごみるくないの」とか「楽しみにしてたのになあ」とか、きっと言うに違いない。母はそういった細かい不満を根に持つタイプだ。
とりあえず自分のコーヒー牛乳を買って、近くの椅子に腰かけた。母は長風呂をする人なので、しばらく出てこないとわかっていた。家にいる時はすぐに出てくるが、こういう旅館ではゆっくりするのだった。
その時、目の前に若い女性が腰かけた。手には、ペットボトルのイチゴミルクを持っていた。
「あ…」
思わず声が出た。そして、女性はこちらに目を向けた。
「どうかしました?」
「あ、いえ。すみません。その…いちごみるく、だなって」
「ああ、これ。あっちの自販機で買ったんです」
その声は、どこか聞き覚えがあった。
顔を上げてみると、紛れもなく、高校時代の元恋人だと分かった。
「あれ、もしかして」
彼女はすぐに僕の名前を出した。
「びっくりした。久しぶり、全然変わってないね~」
懐かしい笑い声だった。今から約十年前、高校三年生の時に僕たちは付き合って、そして別れた。
「いちごみるく、好きなの?」
「いや、うちの母が好きで」
「そうなんだ」
「今日、一緒に来てるんだけど、前はそこの売店で売ってたから、なくなったって知ったらがっかりするだろうなって思って」
「そっかあ。私も好きだったの、ここのいちごみるく」
「え、そうなの?」
「うん。なくなって残念。自販機でこれ買って飲んでみたけど、なんか違うわ」
彼女はまた笑った。昔と変わらず無邪気で、魅力的な笑顔だった。
「お母さんと来てるの?」
「うん」
「親孝行だね」
ふと、彼女の左手の薬指に光るものが目に入った。
「その、指輪」
「ん? ああ…」
「結婚、したの?」
「これは、婚約指輪。籍はまだ入れてないんだけど…する予定です」
変に畏まって彼女が言った。
「そっか。おめでとう」
「ありがと。そっちは?」
「え?」
「彼女とか、いるの?」
「いや…今は、いないけど」
「もしかして、私と別れてからずっといないんじゃないの?」
「別にそんなことないよ」
当たっていた。なぜ強がったのか、なぜ彼女の左手の薬指に目を向けたのか、そしてなぜそれに言及したのかは自分でもよくわからない。
「あの時、私を振らなきゃ良かったのにね」
彼女はそう言った。
十八歳だった。あの時、僕は学校が好きだった。友だちもいたし、勉強もそこそこできるほうだった。彼女は、僕にない明るさと、聡明さを持った人だった。今思えば、こんな腑抜けの僕が彼女と付き合えていたのは奇跡だったと思う。
だが僕は、卒業を目前にして彼女に別れを切り出した。彼女に不満があったわけではなかった。他の人を好きになったわけでもなかった。ただ、高校を卒業するという時、自分が「未知」という無限の可能性に足を踏み入れる時に、隣にいる人が決まっている状態なのが気に食わなかった。未知の世界に、既知がいるのが気持ち悪かった。別れるなら今だろう、と思った。
彼女が別の人間と結婚することが嫌なわけではなかった。ただ、彼女以外の人とそういった仲になれていない僕にとって、誰かを愛するという気持ち(あるいはそれに近いもの)を感じられた相手は彼女だけであった。
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