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一.我帰郷す
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車窓越しに無数の雨が軌跡を描いている。
特急列車は北へ向かっていた。車輪がうねる線路を忠実にたどり、ときおり濡れた緑が列車を撫でる。遠くに鎮座する山々は鈍色に染まり、慈しむようにして残雪を抱いていた。
私は揺れながら外の景色をぼんやり眺めていた。膝に置いた愛読書からずっと視線を外したままだった。
だって、すっごい揺れるから。
本なんか読めないから。目が疲れるし、酔いそうになるし。おまけにガタゴトガタゴトうるさいったらない。
あと四十分もすれば懐かしき故郷に着く。上京以来一度も帰省しなかったため、脳裏に残る故郷は褪せたモノクロフィルムのようだったが、いまはゆっくりと、だが確実に色を取り戻しつつあった。
そのせいか、大東京での順調かつ有意義な時間が走馬灯のように駆け巡った――走馬灯ってなんだ? よく知らないが走るんだろう。たぶん馬みたいに。
さらば、我が大学生時代よ。研鑽の日々よ、思い出よ。
合コンで女の子から電話番号を訊きだしたはいいが、翌日電話すると沖縄のどっかの村役場につながったのも良き思い出だ。メモを見直し何度もかけ直したが、そのたびに村役場へつながるという無限ループをがくりかえされた。最後に役場の人が「くぬひゃー」と叫んで怒りだしたことでループは終了した。『この野郎』という意味らしい。
永の住まいとなった1Kの学生アパートも忘れられない。大学まで電車で一時間以上かかる立地であったが、住みやすく落ち着いた環境だった。なによりも建物自体が斬新なのだ。窓を閉めきっても何処からかナチュラルな風が吹き込むレトロかつシックな仕様で、壁のひび割れが縦横無尽に駆けめぐる様などまさに様式美であり懐古調。ファッションなどグルっと回って十年ぐらい前のブームがまた流行ったりするから、きっとあのアパートも流行の最先端だったはずだ。グルっと回って。冬は超寒かった。
「雨、やみませんね」
突然の澄んだ声音に驚き、視線を向けた。
通路を挟んだ席の女性が微笑んでいた。落ち着いた色のコートとロングスカートに、白のセーターが映えている。彼女は始発駅からその席に座っており、ずっと膝上に置いたA4用紙の束に目を通しペンを走らせていた。こうして見ると丸くて大きなフレームの眼鏡が似合う、なんとも見目麗しきお嬢さんだった。
「あの山に――」
車窓の向こうにある山を私は指差す。
「雲がかかっている間、このあたりの雨がやむことはありません。少なくても夕方まで降りつづくと思いますよ」
「地元の方ですか」
「大学を卒業して、多雨野へ帰るところなんです。いわゆるUターンってやつです」
A県の山あいにひっそり佇む多雨野こそが、この葦原瑞海(あしはらみずうみ)の故郷だ。順調すぎるほど順調に四年制大学を卒業して八年ぶりに故郷に帰るのです、などと計算がよくわからない情報をわざわざ口にする必要はないだろう。
「ああ、行ったことはありませんが、よいところだそうですね」
「ええ、自然豊かで人々は純朴です。読んで字のごとく雨が多い土地で、きっと今日も雨でしょうね」
「いつかいってみたいです」
「ぜひ。自慢の故郷です」
お嬢さんは小さく微笑むと、またA4用紙の束へ視線を落とす。
私は愛読書を手にとり、白い紙に整然と並ぶ文字を目で追った。知的なお嬢さんに接し、我が知性が疼いたのだ。柔らかい表現に変えるのなら、頭よさそうに振る舞いたかった。酔いそうだけど我慢した、男の子だから。
愛読書とは『遠野物語』である。柳田国男氏が岩手県遠野地方の伝承を格調高き文章で綴った書で、明治時代に成立したにもかかわらず、いまなお民俗学の世界で重きをなす名著だ。頁をめくるたび、自然を敬い惧れながらもともに生きる人々の姿が浮かびあがる。そこに描かれている世界こそが日本の原風景ではなかろうか。多雨野には遠野物語に描かれたすべてがいまなお残っている。だからこそ望郷の念に駆られるたび、大東京のくすんだ空の下で遠野物語をくりかえし読んだ。
列車は揺れるが、私は揺るがない。幼き頃から鋼の如き心胆をもつ少年であったが、いまや何事にも動じぬ漢となった。現在の己を智謀兼備の猛者であると口にすることも憚らない。凱旋、故郷に錦を飾る、そんな感じの私である。
「帰りなん、いざ。いままさに、巨人動く」と。
心のなかでそう呟く。
もちろん比喩だ。身長は百七十二センチちょいだ。巨人ではない。
揺れる座席に背を預け、そっと瞼を閉じた――やはり酔った、超吐きそうだ。なぜ隣の御嬢さんは気持ち悪くならないのか不思議だった。
特急列車は北へ向かっていた。車輪がうねる線路を忠実にたどり、ときおり濡れた緑が列車を撫でる。遠くに鎮座する山々は鈍色に染まり、慈しむようにして残雪を抱いていた。
私は揺れながら外の景色をぼんやり眺めていた。膝に置いた愛読書からずっと視線を外したままだった。
だって、すっごい揺れるから。
本なんか読めないから。目が疲れるし、酔いそうになるし。おまけにガタゴトガタゴトうるさいったらない。
あと四十分もすれば懐かしき故郷に着く。上京以来一度も帰省しなかったため、脳裏に残る故郷は褪せたモノクロフィルムのようだったが、いまはゆっくりと、だが確実に色を取り戻しつつあった。
そのせいか、大東京での順調かつ有意義な時間が走馬灯のように駆け巡った――走馬灯ってなんだ? よく知らないが走るんだろう。たぶん馬みたいに。
さらば、我が大学生時代よ。研鑽の日々よ、思い出よ。
合コンで女の子から電話番号を訊きだしたはいいが、翌日電話すると沖縄のどっかの村役場につながったのも良き思い出だ。メモを見直し何度もかけ直したが、そのたびに村役場へつながるという無限ループをがくりかえされた。最後に役場の人が「くぬひゃー」と叫んで怒りだしたことでループは終了した。『この野郎』という意味らしい。
永の住まいとなった1Kの学生アパートも忘れられない。大学まで電車で一時間以上かかる立地であったが、住みやすく落ち着いた環境だった。なによりも建物自体が斬新なのだ。窓を閉めきっても何処からかナチュラルな風が吹き込むレトロかつシックな仕様で、壁のひび割れが縦横無尽に駆けめぐる様などまさに様式美であり懐古調。ファッションなどグルっと回って十年ぐらい前のブームがまた流行ったりするから、きっとあのアパートも流行の最先端だったはずだ。グルっと回って。冬は超寒かった。
「雨、やみませんね」
突然の澄んだ声音に驚き、視線を向けた。
通路を挟んだ席の女性が微笑んでいた。落ち着いた色のコートとロングスカートに、白のセーターが映えている。彼女は始発駅からその席に座っており、ずっと膝上に置いたA4用紙の束に目を通しペンを走らせていた。こうして見ると丸くて大きなフレームの眼鏡が似合う、なんとも見目麗しきお嬢さんだった。
「あの山に――」
車窓の向こうにある山を私は指差す。
「雲がかかっている間、このあたりの雨がやむことはありません。少なくても夕方まで降りつづくと思いますよ」
「地元の方ですか」
「大学を卒業して、多雨野へ帰るところなんです。いわゆるUターンってやつです」
A県の山あいにひっそり佇む多雨野こそが、この葦原瑞海(あしはらみずうみ)の故郷だ。順調すぎるほど順調に四年制大学を卒業して八年ぶりに故郷に帰るのです、などと計算がよくわからない情報をわざわざ口にする必要はないだろう。
「ああ、行ったことはありませんが、よいところだそうですね」
「ええ、自然豊かで人々は純朴です。読んで字のごとく雨が多い土地で、きっと今日も雨でしょうね」
「いつかいってみたいです」
「ぜひ。自慢の故郷です」
お嬢さんは小さく微笑むと、またA4用紙の束へ視線を落とす。
私は愛読書を手にとり、白い紙に整然と並ぶ文字を目で追った。知的なお嬢さんに接し、我が知性が疼いたのだ。柔らかい表現に変えるのなら、頭よさそうに振る舞いたかった。酔いそうだけど我慢した、男の子だから。
愛読書とは『遠野物語』である。柳田国男氏が岩手県遠野地方の伝承を格調高き文章で綴った書で、明治時代に成立したにもかかわらず、いまなお民俗学の世界で重きをなす名著だ。頁をめくるたび、自然を敬い惧れながらもともに生きる人々の姿が浮かびあがる。そこに描かれている世界こそが日本の原風景ではなかろうか。多雨野には遠野物語に描かれたすべてがいまなお残っている。だからこそ望郷の念に駆られるたび、大東京のくすんだ空の下で遠野物語をくりかえし読んだ。
列車は揺れるが、私は揺るがない。幼き頃から鋼の如き心胆をもつ少年であったが、いまや何事にも動じぬ漢となった。現在の己を智謀兼備の猛者であると口にすることも憚らない。凱旋、故郷に錦を飾る、そんな感じの私である。
「帰りなん、いざ。いままさに、巨人動く」と。
心のなかでそう呟く。
もちろん比喩だ。身長は百七十二センチちょいだ。巨人ではない。
揺れる座席に背を預け、そっと瞼を閉じた――やはり酔った、超吐きそうだ。なぜ隣の御嬢さんは気持ち悪くならないのか不思議だった。
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