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四.宮内さん再び
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翌日、宮内さんを河原へ案内した。
ジロウは姿を隠していたが、宮内さんに存在がばれたことと、決して口外しない約束を交わしたと告げると、逡巡ののち姿を現した。
「仲良うしような。改めてよろしゅうに」と微笑む宮内さんに対し、ジロウは「そうかんたんに人と馴れ合うつもりはない」と言って、嘴をひん曲げた。
その時、ジロウの眼前に一瞬影が走り、やや遅れてヒュンと風が鳴りた。
宮内さんの拳がジロウの顔面すれすれにあった。どうやら目にもとまらぬ正拳突きがくりだされたらしい。ジロウがごくりと喉を鳴らすと、
「蚊がおったで。でも、よかったわあ。河童くんが刺されんで」
にっこり笑う宮内さんが、不意に「あ」と言ってジロウに背を向けた。
次の瞬間、ジロウの頭上から影が風を巻きながら降り注ぐ。次いで、ザシュッと音がして足元の砂利が四方に弾け飛んだ。一度背を向けた躰を捻りざまにくりだされた高速踵落としだ。
「こんどは虻がおったわ。あぶないあぶない」
河童の全身が小刻みに震えはじめた。
「で、なんやっけ? 仲良くしてください、って言うたんやっけ? 河童くん」
イヤイヤと小さく首を振るジロウ。なんたる暴挙。命知らずか。
「あ、また蚊」
宮内さんがすっと右手を差しだし、指で輪を作った。そこから中指がしなやかに伸びると、ジロウの体が一メートルほど後ろに跳んだ。
なにをやったのだ。軽くデコピンしただけに見えたが……いや、やはりただのデコピンだ。それでこの破壊力とは。
額を押さえ、涙目のジロウ。
「で、なんやったっけ?」
「仲良くしてください。お願いします、お願いします、超お願いします」
「オッケー。ほんならちょっと触らしてや」と水に濡れたジロウの手や背中にふれていく。
「ああん、くすぐったいッス」変な声だすな、エロガッパ。
「気にせんときぃ……ほう、これが河童の皿かぁ。ツルツルや」
鑑定士が年代物の骨董品を愛でるかのように、落ち着いた手つきで撫でまわす。
「経立もいるやろ? どこに居るんや?」
宮内さんの揺るぎない態度と関西弁に、ジロウはすっかり呑まれていた。背中を丸め、やや小声で、「向こうの山の、奥に……」と川下の山を指差した。
「どんなんがおるんや?」
「猿とか狼とか熊とか狐とか梟の経立が」
経立とは長く生きた動物が変化したもので、遠野物語にも記述される存在だ。だったら多雨野にもいて当然だ。山の神に遠慮して巴石には近づかないが、人目につかぬところに棲んでいる。私も小学生の頃はあいつらとよく遊んだものだ。
土地によって呼び名は変わるが、かつてはこの国のどこにでも経立がいたのだろう。だが、経立が生きるには自然豊かで、人間に邪魔されない場所が必要だ。いまの日本にそのような地がどれほどあるのだろうか。
「ほんま、ここって遠野によお似てるなあ。鳥居のドルメンあるし、経立がいるし、河童は赤ら顔やし。それに、あんたの家もおもろいし――」
仄かに笑う宮内さんの顔つきに見覚えがあった。そうだ。裸ジロウ放流のときにみせた科学者然とした表情だ。
「ウチがはじめて多雨野にきたとき、鳥の経立が遠くから様子窺ってたやんか。巴石のとこにもおったみたいやけど、あれは?」
「あ、たぶんトンビの経立ッス」
「ふうん。なんで?」
「いや、あの……美人に目がないヤツでして」
「いいねえ。わかってるねえ」
宮内さんが河童の甲羅をバシンと叩いた。
「とにかく、これからずっと葦原家で暮らすから河童くんもよろしくな」
「え? 我が家に泊まるのは『ちょっとの間』だと言ってたじゃないですか」
「この町が気に入ったんやからしゃーないやん。小さいこと言うたら男前が台無しやで。ウチの個人的好奇心のため、今後はあちこち調べ回るからな。ふたりとも手伝ってもらうで」
強い口調と眼鏡の奥に宿る鋭い眼光。反論や異論は微塵も受け付けてもらえないことは瞬時に理解できた。ジロウに至っては残像が浮かびそうな速さで何度も頷きまくっている。もう、完全に下僕。
「愉しみやあ」
満足げに多雨野の景色を眺めている宮内さんの背後でジロウを小突いた。
「トンビの経立ってなんだ。そんなのいたのか」声を抑えて問うと河童も小声で返す。
「この春、齢五十に達したトンビが経立になりおった。おまえが帰ってきた直後だったかな」
なるほど。デビューしたての新参者ということか。
「しかし、こええな、この人。なんか体の奥底から逆らうなって声がする」
そうか、野生の本能が『逆らうな』と告げているのか。
実は私もそんな気がしている。宮内さんの前では学生プロレスチャンプという肩書など夜中の日傘以上に意味をなさない。あんなスピードの突きや蹴りはみたことがなかった。
そして我々の恐れはおそらく正しい。
ジロウは姿を隠していたが、宮内さんに存在がばれたことと、決して口外しない約束を交わしたと告げると、逡巡ののち姿を現した。
「仲良うしような。改めてよろしゅうに」と微笑む宮内さんに対し、ジロウは「そうかんたんに人と馴れ合うつもりはない」と言って、嘴をひん曲げた。
その時、ジロウの眼前に一瞬影が走り、やや遅れてヒュンと風が鳴りた。
宮内さんの拳がジロウの顔面すれすれにあった。どうやら目にもとまらぬ正拳突きがくりだされたらしい。ジロウがごくりと喉を鳴らすと、
「蚊がおったで。でも、よかったわあ。河童くんが刺されんで」
にっこり笑う宮内さんが、不意に「あ」と言ってジロウに背を向けた。
次の瞬間、ジロウの頭上から影が風を巻きながら降り注ぐ。次いで、ザシュッと音がして足元の砂利が四方に弾け飛んだ。一度背を向けた躰を捻りざまにくりだされた高速踵落としだ。
「こんどは虻がおったわ。あぶないあぶない」
河童の全身が小刻みに震えはじめた。
「で、なんやっけ? 仲良くしてください、って言うたんやっけ? 河童くん」
イヤイヤと小さく首を振るジロウ。なんたる暴挙。命知らずか。
「あ、また蚊」
宮内さんがすっと右手を差しだし、指で輪を作った。そこから中指がしなやかに伸びると、ジロウの体が一メートルほど後ろに跳んだ。
なにをやったのだ。軽くデコピンしただけに見えたが……いや、やはりただのデコピンだ。それでこの破壊力とは。
額を押さえ、涙目のジロウ。
「で、なんやったっけ?」
「仲良くしてください。お願いします、お願いします、超お願いします」
「オッケー。ほんならちょっと触らしてや」と水に濡れたジロウの手や背中にふれていく。
「ああん、くすぐったいッス」変な声だすな、エロガッパ。
「気にせんときぃ……ほう、これが河童の皿かぁ。ツルツルや」
鑑定士が年代物の骨董品を愛でるかのように、落ち着いた手つきで撫でまわす。
「経立もいるやろ? どこに居るんや?」
宮内さんの揺るぎない態度と関西弁に、ジロウはすっかり呑まれていた。背中を丸め、やや小声で、「向こうの山の、奥に……」と川下の山を指差した。
「どんなんがおるんや?」
「猿とか狼とか熊とか狐とか梟の経立が」
経立とは長く生きた動物が変化したもので、遠野物語にも記述される存在だ。だったら多雨野にもいて当然だ。山の神に遠慮して巴石には近づかないが、人目につかぬところに棲んでいる。私も小学生の頃はあいつらとよく遊んだものだ。
土地によって呼び名は変わるが、かつてはこの国のどこにでも経立がいたのだろう。だが、経立が生きるには自然豊かで、人間に邪魔されない場所が必要だ。いまの日本にそのような地がどれほどあるのだろうか。
「ほんま、ここって遠野によお似てるなあ。鳥居のドルメンあるし、経立がいるし、河童は赤ら顔やし。それに、あんたの家もおもろいし――」
仄かに笑う宮内さんの顔つきに見覚えがあった。そうだ。裸ジロウ放流のときにみせた科学者然とした表情だ。
「ウチがはじめて多雨野にきたとき、鳥の経立が遠くから様子窺ってたやんか。巴石のとこにもおったみたいやけど、あれは?」
「あ、たぶんトンビの経立ッス」
「ふうん。なんで?」
「いや、あの……美人に目がないヤツでして」
「いいねえ。わかってるねえ」
宮内さんが河童の甲羅をバシンと叩いた。
「とにかく、これからずっと葦原家で暮らすから河童くんもよろしくな」
「え? 我が家に泊まるのは『ちょっとの間』だと言ってたじゃないですか」
「この町が気に入ったんやからしゃーないやん。小さいこと言うたら男前が台無しやで。ウチの個人的好奇心のため、今後はあちこち調べ回るからな。ふたりとも手伝ってもらうで」
強い口調と眼鏡の奥に宿る鋭い眼光。反論や異論は微塵も受け付けてもらえないことは瞬時に理解できた。ジロウに至っては残像が浮かびそうな速さで何度も頷きまくっている。もう、完全に下僕。
「愉しみやあ」
満足げに多雨野の景色を眺めている宮内さんの背後でジロウを小突いた。
「トンビの経立ってなんだ。そんなのいたのか」声を抑えて問うと河童も小声で返す。
「この春、齢五十に達したトンビが経立になりおった。おまえが帰ってきた直後だったかな」
なるほど。デビューしたての新参者ということか。
「しかし、こええな、この人。なんか体の奥底から逆らうなって声がする」
そうか、野生の本能が『逆らうな』と告げているのか。
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