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一九章

狙われた花嫁

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 『ジェニーを保護しろ!』
 息急き切ったその電話をジャック・ロウが受けたのは九月一一日午後一〇時二四分のことでした。
 あまりの大声に思わず頭を電話から引きはなし、顔をしかめました。
 「な、なんだよ、いきなり……お前、誰だ?」
 『のんきをことを言ってる場合か! とっととジェニーを保護しろ!』
 「ジェニーったって……」
 そんな名前の人間は霧と怪奇の都内にいくらでもいます。
 『ジェニファー・ウェルチ! お前がバネ足ジャックを見かけたとき、他の女をかばったあのジェニーだ!』
 その言葉にジャックの顔色が変わりました。
 「お前……」
 『切り裂きジャックがジェニーを狙っている!』
 「なんだと! そいつは本当か」
 『ジェニーは明日、結婚式だ。今夜は両親の家で過ごしているはずだ。家はサウスタウン二-八-三、ハリー通りに面した一軒家だ! すぐに向かえ。「市民を守るのが仕事」などと威張りたけりゃ実行しろ! 死んでも手出しさせるな!』
 「わ、わかった、お前は……」
 電話が切れました。ジャックはしばしの間、無言で電話を見つめていた。ふいに我に返り、相棒に向かって怒鳴りました。
 「行くぞ、ビリー! 出動だ!」
 その頃。ジェニーは実家の玄関口で両親との別れを惜しんでいました。親子三人でのささやかなパーティーを終え、ふたりの友人とルーム・シェアリングしているアパートに帰宅しようとしているところだったのです。
 ジェニーが玄関のドアを背にして立ち、その前に両親が立っていました。両親を見つめるジェニーの目が潤んでいます。結婚しても親子は親子だというのに、このドアを越えれば永遠に関係が変わってしまうような気がする。さびしいとか、不安だとか、そんな一言では言い表わせない不思議な気持ち。言葉にはできない感慨があったのです。
 両親も同じ思いなのでしょう。ジェニーを見つめるふたりの目はやはり潤んでいました。
 三人はしばらくの間、無言で立ち尽くしていました。やがて、母親が言いいました。
 「いよいよ明日は結婚式。あなたの花嫁姿が見られるなんて夢のようだわ」
 感慨深く母親が言うと、父親もうなずきました。
 「うむ。アランは立派な若者だ。彼ならきっとお前を守ってくれる」
 「そうね」
 思いのこもった両親の言葉にジェニーはうなずきました。目頭がなおさら熱くなりました。軽くうつむきました。ノブに手をかけました。視線をあわせないままに言いました。
 「それじゃ……もう行くわ」
 これ以上この場にいると本当に泣きだしてしまいそうでした。両親に抱きついて『結婚するのやめる!』と言ってしまいかねない。それはさすがに恥ずかしい。両親との思い出が頭のなかを駆け巡り、体のなかが暖かいような、熱いような、そんな感じに満たされました。
 両親もきっと同じなのでしょう。引きとめようとしないのは一度引きとめてしまえば切りがなくなるとわかっているからです。
 「それじゃ……元気でね。ふたりとも」
 「ああ」
 「あなたもね、ジェニー」
 両親は口々に言いました。若い娘が夜中にひとりで帰ろうとしているのに心配しないのは、霧と怪奇の都においては昼も夜も危険度は変わらないからです。
 ジェニーは涙をこらえながら、両親の視線を振り切るようにしてドアをくぐりました。外に出てドアを閉めました。
 深呼吸しました。
 表情が晴ればれとしたものになりました。
 『不思議なことにそのときはっきりと実感したの。自分はもう両親の子供のジェニーではなく、アランの妻になったジェニーなんだって』
 と、ジェニーは後に語っています。
 胸を張って歩き出しました。街灯の光が照らす夜の道をアパートに向かって歩いていきます。人通りは少なかったそうです。たまにすれちがう人がいるくらいでした。
 そのほうが気楽でした。外の世界とちがい霧と怪奇の都ではひとりで出歩くことこそ最高の安全策です。恐いのは見知らぬ犯罪者ではなく、知り合い。誰もが銃をもち、誰もが小学校で射殺訓練を受ける都です。友人同士がほんのいさかいから銃の撃ち合いに発展するなどめずらしくもないことなのですから。
 だから、街灯の光に照らされて、闇の向こうからその人影が現われたときもジェニーはただ、早足にすれちがうことだけを考えていました。その人影と関わる気などありませんでした。視線も向けませんでした。『目があった』というだけで撃ってくる乱暴者も多いのです。
 目を真っすぐ前に向けてその人物を見ないようにして歩を早めました。ですが――
 『目の片隅に飛び込んできたその人物の姿を見たとき、全身を貫くような恐怖を感じたわ』
 と、ジェニーは後に語っています。
 何年、何十年たっても、そのときのことを話すジェニーは身を震わせていたそうです。
 身長一六〇センチから一七〇センチ。濃い口髭に顎髭。シャツに色の濃いジャケット。ベストにズボン。黒いスカーフに黒いフェルト帽。
 ここしばらく、テレビや新聞やネットで繰り返し、繰り返し見た姿。
 切り裂きジャック。
 ジェニーはきびすを返しました。全速力で走り出しました。
 『「たまたま同じファッション・センスをしているだけの普通人かも知れない」とか、「話題の殺人鬼の姿を真似て他人をおどろかしてまわっているいたずら者かも知れない」とか、そんなことはちっとも考えなかったわ。仮に普通人やいたずら者だったとしても、よけいな運動をするはめになった、というだけのこと。でも、もし、本物だったら……』
 ジェニーは後に身を震わせながらそう語ったものです。
 ジェニーは走りました。心臓がパンクするかと思うぐらい必死に。叫ぼうとしました。口を開きました。目が驚愕に見開きました。喉が引きつりました。足がとまりました。すぐ目の前に同じ服装の人影が立っていたのです。ありえないことでした。自分はこの人影を見てすぐに逆方向に逃げたのだ。その自分の前にこの人物がいるはずがない……!
 ジェニーは振り向きました。後ろには誰もいませんでした。再び、前を見ました。そこにはやはり、同じ服装の人影が立っていました。同じ服装をした人物がふたりいるわけではない。では、この人物は自分よりもはるかに早く動けるのだ!
 その事実を悟ったとき、ジェニーの全身を恐怖がつらぬきました。逃げられない。助けを求め、悲鳴をあげようとしました。その瞬間――。
 くらり、と、頭がゆれました。
 意識が遠のいたのです。
 ――なんで……こんなときに。
 遠のく意識に悪態を飛ばしました。膝が地面を打つのを感じました。体が横に倒れました。逃げることはおろか、悲鳴をあげることすらできなかったのです。わずかでも気を抜けばたちまち意識を失ってしまいそうでした。
 「う……」
 そうつぶやき、全身をかすかに震わせるのが精一杯だったのです。
 切り裂きジャックが近づきました。なにも言わず、足音すら立てずに。右手を挙げました。手の先に光が走りました。白銀色に輝くメスがそこにありました。すっ、と、メスをジェニーに向けられました。ジェニーを支えていた最後の線が切れました。ジェニーは気を失いました。切り裂きジャックがさらに近づく。そのとき――。

  ふぃー!
  ふぃーひゃっひゃっひゃっひゃっ!

 奇妙に甲高い哄笑と共にそれは夜の空から降ってきました。音を立てて切り裂きジャックとジェニーの間に着地したのです。
 やけに細長い三メートルの長身をロング・コートにすっぽり包み、頭には一際高いトップ・ハット。異様に輝く真ん丸い目。全身から吹き上げる人魂のような青い炎。
 バネ足ジャック。
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