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二〇章
怪人たちの夜
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ジャック・ロウは電話で知らされたジェニーの実家に向かって全速力で駆けていました。全身から汗を吹き出し、トレード・マークの帽子が飛ばないよう、片手で押さえています。
ビリーの姿は見えません。はるか後ろにとり残されているのです。
「チイッ! だからせめて警察にぐらい車とバイクの使用を許可しろって言ってんだ!」
それはジャックが署長に就任して以来、繰り返し要求していることでした。
もちろん、ことごとく無視されています。封鎖都市である霧と怪奇の都においては排気ガスを出すような乗り物はご法度。まして、市民から忘れ去られている警察にそんな特権が認められるはずがなかったのです。本来、代わりとして馬が飼育されているはずなのですが、人手不足のため、一頭もいないありさま。どこに移動するにももって生まれた二本の足に頼るしかないのでした。
それでもジャックは一時も休むことなく走りつづけました。長距離走のオリンピック選手もかくや、というペースでした。
走りつづけるジャックの耳に聞き覚えのある哄笑が響きました。その声の持ち主は三メートルの長身に異様な跳躍力をもっていて……。
「チイッ! もう出やがったかあ!」
ジャックは一瞬にしてなにが起きたのかを正確に理解しました。残った力を振り絞り、哄笑のした方角へと走り出しました。
現場に着いたとき、そこでは予想通りの光景が展開されていました。
バネ足ジャックと切り裂きジャック。
ヴィクトリア朝ロンドンに現われ、二〇〇年のときを経てこの霧と怪奇の都に蘇ったふたりの怪人。
そのふたりが戦っていたのです。
バネ足ジャックの右腕が延び、鋼鉄の爪が切り裂きジャックを襲います。切り裂きジャックの姿が消えました。人間とは、いや、生物とは思えないほどの素早い動き。一瞬でバネ足ジャックの背後にまわり込んだ殺人鬼は右手にメスをきらめかせて切りかかりました。
バネ足ジャックは跳びました。空高く跳んでかわしました。
切り裂きジャックの体がバネ足ジャックの真下に飛びだす格好になりました。
バネ足ジャックの両腕が伸びました。地上の殺人鬼めがけて一〇本の爪が襲いかかります。
切り裂きジャックは逃げませんでした。その代わり、バネ足の怪人めがけて跳躍したのです。色の濃いジャケットに包まれたその体が撃ち出された砲弾のように飛び上がりました。
一〇本の爪が切り裂きジャックをかすめて降りかかり、ついさっきまで殺人鬼の立っていた地面をえぐりました。
切り裂きジャックはバネ足ジャックの懐に飛び込んでいました。突き出された左拳がバネ足ジャックの顔面をしたたかに殴りつけました。
バネ足ジャックはのけぞりました。
切り裂きジャックが右手を挙げました。手にもたれたメスが凶悪な白銀色に輝いていました。
長いながいバネの足が跳ね上がりました。バネ足ジャックは殴られた勢いを利用して後方に宙返りし、その勢いのままに切り裂きジャックを蹴りあげたのです。
切り裂きジャックは両足をそろえて膝を曲げました。襲いかかるバネの足をぽん、と蹴りました。後方にとんぼを切って攻撃をかわしたのです。
ふたりの怪人は地上に降りました。
ハチの巣状のドームに閉ざされた空の下、砂漠に輝く銀の月に照らされて、ふたりの怪人は対峙していました。
『あんな異様な戦いを見たのは生まれてはじめてだったよ。どこからどう見ても人間同士の戦いなんかじゃねえ。まぎれもなく、闇の世界からやってきた妖怪同士の戦いだったさ』
後にジャックはそう述懐しています。
名にしおう暴れん坊ジャックにして手出しできない、黙って見ているしかない、それほどにふたりの戦いは異様なものだったのです。
ジャックは銃を両手に構えて突き出したまま、脂汗をにじませて、発砲のチャンスをひたすらまっていました。ですが――。
――だめだ。
そう結論せざるを得ませんでした。
――あの動きにはついていけねえ。撃ったところで当てるなんざ無理だ。
となれば自分にできることをやるしかない。ジャックはその場にいるはずの女性の姿を捜しました。ジェニファー・ウェルチの姿を。
いた。
およそ一〇メートル先にやわらかい金髪を短く整えた頭が倒れていました。ジャックはジェニーのもとに駆けよりました。左腕で抱きかかえ、右手にもった銃を突きつけながら叫びました。
「そこまでだ、怪人ども! ジェニーは警察が保護した。絶対に手出しはさせねえ!」
同時にいくつもの足音が聞こえました。騒ぎを聞きつけてパトロールしていた警備員や賞金稼ぎが集まってきたのです。
ちらり、と切り裂きジャックがジャックを見ました。いいえ、ジャックに抱かれたジェニーを見たのです。それから、バネ足ジャックに視線を戻しました。にやり、と笑いました。髭と目深にかぶった帽子のせいで表情は見えません。ですが、笑ったように感じられたのです。
切り裂きジャックが後ろ向きに跳びました。ふわり、と音もなく。重力から解放されたもののように。
――君たちの騎士道精神に免じていまは引こう。
あざけりを込めた称賛の念が、その仕草から感じられたと言います。
切り裂きジャックの姿が闇の向こうに消えました。ジャックはしばし呆然としていました。気を取りなおし、バネ足ジャックを見ました。バネ足ジャックはジェニーをじっと見つめていました。
「お前……」
ジャックが口を開きかけました。
バネ足ジャックの右手が挙がりました。爪を一本立てて口元に当てました。身を屈めました。バネ足ジャックが跳びました。
ふぃー!
ふぃーひゃっひゃっひゃっひゃっ!
甲高い哄笑を月に浮かぶシルエットと共に地上に残し、バネ足ジャックは夜空に消えたのでした。
ビリーの姿は見えません。はるか後ろにとり残されているのです。
「チイッ! だからせめて警察にぐらい車とバイクの使用を許可しろって言ってんだ!」
それはジャックが署長に就任して以来、繰り返し要求していることでした。
もちろん、ことごとく無視されています。封鎖都市である霧と怪奇の都においては排気ガスを出すような乗り物はご法度。まして、市民から忘れ去られている警察にそんな特権が認められるはずがなかったのです。本来、代わりとして馬が飼育されているはずなのですが、人手不足のため、一頭もいないありさま。どこに移動するにももって生まれた二本の足に頼るしかないのでした。
それでもジャックは一時も休むことなく走りつづけました。長距離走のオリンピック選手もかくや、というペースでした。
走りつづけるジャックの耳に聞き覚えのある哄笑が響きました。その声の持ち主は三メートルの長身に異様な跳躍力をもっていて……。
「チイッ! もう出やがったかあ!」
ジャックは一瞬にしてなにが起きたのかを正確に理解しました。残った力を振り絞り、哄笑のした方角へと走り出しました。
現場に着いたとき、そこでは予想通りの光景が展開されていました。
バネ足ジャックと切り裂きジャック。
ヴィクトリア朝ロンドンに現われ、二〇〇年のときを経てこの霧と怪奇の都に蘇ったふたりの怪人。
そのふたりが戦っていたのです。
バネ足ジャックの右腕が延び、鋼鉄の爪が切り裂きジャックを襲います。切り裂きジャックの姿が消えました。人間とは、いや、生物とは思えないほどの素早い動き。一瞬でバネ足ジャックの背後にまわり込んだ殺人鬼は右手にメスをきらめかせて切りかかりました。
バネ足ジャックは跳びました。空高く跳んでかわしました。
切り裂きジャックの体がバネ足ジャックの真下に飛びだす格好になりました。
バネ足ジャックの両腕が伸びました。地上の殺人鬼めがけて一〇本の爪が襲いかかります。
切り裂きジャックは逃げませんでした。その代わり、バネ足の怪人めがけて跳躍したのです。色の濃いジャケットに包まれたその体が撃ち出された砲弾のように飛び上がりました。
一〇本の爪が切り裂きジャックをかすめて降りかかり、ついさっきまで殺人鬼の立っていた地面をえぐりました。
切り裂きジャックはバネ足ジャックの懐に飛び込んでいました。突き出された左拳がバネ足ジャックの顔面をしたたかに殴りつけました。
バネ足ジャックはのけぞりました。
切り裂きジャックが右手を挙げました。手にもたれたメスが凶悪な白銀色に輝いていました。
長いながいバネの足が跳ね上がりました。バネ足ジャックは殴られた勢いを利用して後方に宙返りし、その勢いのままに切り裂きジャックを蹴りあげたのです。
切り裂きジャックは両足をそろえて膝を曲げました。襲いかかるバネの足をぽん、と蹴りました。後方にとんぼを切って攻撃をかわしたのです。
ふたりの怪人は地上に降りました。
ハチの巣状のドームに閉ざされた空の下、砂漠に輝く銀の月に照らされて、ふたりの怪人は対峙していました。
『あんな異様な戦いを見たのは生まれてはじめてだったよ。どこからどう見ても人間同士の戦いなんかじゃねえ。まぎれもなく、闇の世界からやってきた妖怪同士の戦いだったさ』
後にジャックはそう述懐しています。
名にしおう暴れん坊ジャックにして手出しできない、黙って見ているしかない、それほどにふたりの戦いは異様なものだったのです。
ジャックは銃を両手に構えて突き出したまま、脂汗をにじませて、発砲のチャンスをひたすらまっていました。ですが――。
――だめだ。
そう結論せざるを得ませんでした。
――あの動きにはついていけねえ。撃ったところで当てるなんざ無理だ。
となれば自分にできることをやるしかない。ジャックはその場にいるはずの女性の姿を捜しました。ジェニファー・ウェルチの姿を。
いた。
およそ一〇メートル先にやわらかい金髪を短く整えた頭が倒れていました。ジャックはジェニーのもとに駆けよりました。左腕で抱きかかえ、右手にもった銃を突きつけながら叫びました。
「そこまでだ、怪人ども! ジェニーは警察が保護した。絶対に手出しはさせねえ!」
同時にいくつもの足音が聞こえました。騒ぎを聞きつけてパトロールしていた警備員や賞金稼ぎが集まってきたのです。
ちらり、と切り裂きジャックがジャックを見ました。いいえ、ジャックに抱かれたジェニーを見たのです。それから、バネ足ジャックに視線を戻しました。にやり、と笑いました。髭と目深にかぶった帽子のせいで表情は見えません。ですが、笑ったように感じられたのです。
切り裂きジャックが後ろ向きに跳びました。ふわり、と音もなく。重力から解放されたもののように。
――君たちの騎士道精神に免じていまは引こう。
あざけりを込めた称賛の念が、その仕草から感じられたと言います。
切り裂きジャックの姿が闇の向こうに消えました。ジャックはしばし呆然としていました。気を取りなおし、バネ足ジャックを見ました。バネ足ジャックはジェニーをじっと見つめていました。
「お前……」
ジャックが口を開きかけました。
バネ足ジャックの右手が挙がりました。爪を一本立てて口元に当てました。身を屈めました。バネ足ジャックが跳びました。
ふぃー!
ふぃーひゃっひゃっひゃっひゃっ!
甲高い哄笑を月に浮かぶシルエットと共に地上に残し、バネ足ジャックは夜空に消えたのでした。
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